プロローグ(花浦 小春)


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 左腕を僅かに持ち上げると、自分には不相応な腕時計が視界に入る。
金色に覆われたそれには、文字盤を囲むように整列された12のダイヤとさらにその内側に小さな文字盤が3つ程備わっている。
クロノグラフという種類の時計らしい。だが、正直、その価値に興味は無い。
必要なのは、その時計が放つ威圧感。あとは、時間を知ることさえ出来ればそれで良い。
乱れなく文字盤の上を回る2本の針は、まもなく17時を指し示そうとしていた。
腕時計と同じくして、威圧感を出す事だけを目的としたサングラスを僅かにずらすと世界が色を取り戻す。
目の前に聳える高校の正門からは、制服を着た少年や少女がそれぞれの帰路に着くためにまばらに現れ、消えていった。
その光景に懐旧の念を抱きながら。
高校を卒業してもう10年になるだろうか。
かつては自分の世界もあのように彩られていたはずだ。
等と柄にも無い感傷と共に込み上げる苦笑を抑えながらサングラスをかけ直し、再び黒と白の世界に身を投じた。
”目標”となる人物に接近し、大会への参加を確約させる。
それが、日本政府の使者として、この国の暗部に属する身として、自分に与えられた任務だ。
恋文、と呼ぶにはあまりにも色気の無い”招待状”を携えながら、8本目の煙草に火を点ける。
(まるで今から愛の告白でもするみたいだな)
本日2度目の苦笑を噛み殺していると、風が頬を撫でてきた。
季節は未だ冬。だというのに、風はどこか暖かく感じられ。
まるで、春の訪れを告げるかのようだった。
風は優しくも、無邪気な子供のように一人の人物の元に集う。
そこには、見目麗しき少女の姿。
耳が隠れる程度のショートカットの髪を押さえながら、困ったように、少しだけはにかんで笑う少女と、思わず視線が交差する。
サングラス越しに見える世界の中で、その少女だけが確かに彩られ。
視界の端に映る、さっきまで正確に時を刻んでいたはずの腕時計の針は、まるでその動きを止めてしまい。
地面をコロコロと転がる煙草だけが、自分を茶化すかのように安穏と紫煙を寒空に向けて吐き出していた。
それが、俺と。
”目標”である人物、花浦小春との、最初の出会い。

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『花浦小春プロローグ ~オ●●ノコは、お砂糖と、スパイスと、素敵な何かで出来ている~』


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 「うわ~!すっごい!ふかふかだよ!?」
都内でも高級の部類に属するグランドホテル。
そのスイートルームに備えられたベッドに、花浦小春は飛び込んでいた。
軽快なリズムで上下する肉体に合わせ、その声にも抑揚が灯る。
その光景に苦笑を漏らしながらも、悪くはないと思える自分がいたことが以外だった。
 彼女と出会ってもう14日程度経ったであろうか。
随分と打ち解けてきたのだろうと自画自賛する。
あの日、花浦小春を見つけた俺は、早速招待状を手渡そうと試みた。
だが、その返事はNo。
不信感を露に逃亡されてしまった。
全身黒づくめでサングラスをかけた怪しい男が突拍子もない事を言ってきたのだ。
逃げるのも当然だろう、と今更ながらに思う。
諦めきれず、次の日も、その次の日も、彼女を待つために正門前に陣取る事にした。
……結果として、他の生徒に不振人物として通報されかけたのは忘れたい汚点だ。
そんな俺を不憫にでも思ったのか。
4日目には会釈をしてくるようになり、7日目にはあちらから声をかけてきた。
10日目には雑談をするまでに至り、最近では俺に心を許してきた節が見える。
そして今日。大会に参加をしても良いと言ってきた彼女に詳細を説明すべく、人払いの出来るホテルの一室に来たわけだが。
「……制服がシワになるぞ」
「あはは。キミ、お母さんみたいだ!」
ベッドの上に寝転がる花浦小春を嗜めると、コロコロと彼女は悪戯っぽく笑った。
俺を信用していると言外に述べるには十分すぎる笑顔だ。
(良い奴なんだろうな)
それが、この数日間を通して俺が彼女に抱いた感想だ。
視線を彼女に向けると、ベッドの上で丸くなり、上目遣いにこちらを伺っている姿が見えた。
様相は、冬場の猫のようだ。
羽毛の枕に顎を乗せながら見上げてくる少女は、年相応の無邪気さと似つかわしくない妖艶さを否が応にも感じさせてくる。
その無防備な姿を振り払うかのように、視線を手元の資料に移すと、A4用紙1枚の両面に刷られたそれには、花浦小春の簡素なプロフィールが記載されている。
(しかし……こんな子がグロリアス・オリュンピアの招待枠の一端を担うだなんてな。下手したら俺の方が強いんじゃないか?)
ベッドの上に横たわる少女に視線を戻す。
白く透き通った肌。白魚のような手。
真っ白なブラウスから伸びた細く均整の取れた両腕は、それでも十分な弾力を持ち合わせているのが分かる。
制服であるプリーツスカートから覗く脚は健康的で、紺のソックスとのコントラストが眩しい。
耳くらいまでの長さのショートカットは艶があり、上質な絹を想起させる。
一部を編み込んだ横髪は少女の面影にアクセントを加えており、一言で言えばとても良く似合っている。
小さく華奢な肉体は、力を入れると折れてしまうのではないかと不安にすらさせる。
ベッドの上で伸びをしているも、それでも十分に小さい。
吹き出すのを堪えるのが大変だった。
瞳には綺麗なものだけを写すフィルターがかけられているようだ。
吸い込まれそうな黒く、大きい瞳は、笑うと圧し潰されたかのように細くなり、コロコロと表情を変える。
薄い桜色の唇はぷるん、と瑞々しく、その弾力に触れてみたいとすら思う。
控え目に、それでも確かに自己主張をするその唇が軽快なリズムを刻んでいる。
その音は脳に直接響くようであり、紡がれる言葉は頭に入ってこない。
思わず手を伸ばすと、粉雪を手にしたようにサラサラと溶ける感触だけが残った。
気がつけば。
「きゅ、急に何!?」
「!?」
気がつけば、目の前まで近づいた彼女の髪を撫でていた。
鼓動が高まっているのは、不意を突かれた所為に違いない。
俺は悪戯を見られた子供のように、勢い勇んで手を離すことしか出来なかった。
「い、いや。何でもない。そろそろ、大会について説明するぞ」
自分でもはっきりと分かる上ずった声で、大会の概要を読み上げると、彼女はまるで気にも止めていないかのように耳を傾けた。
 「~~と、レギュレーションはこんな所だ。そうそう、褒章についても伝えておこう」
「優勝者には栄誉と、願いを一つ叶えられる権利が得られる。それと、」
「それと、賞金も出るな。額面は5億。これだけあれば、お前の望む施設の再建も可能なんじゃないか?」
それが失言だと気づいたのは、唇を尖らせた少女の顔が目前に迫った瞬間だった。
「キミはバカなの!?」
お互いの鼻が挨拶をする距離で、頬を染めた少女が激昂している。
頭から湯気を立たせた少女は、太陽の光を目一杯に浴びたオレンジと甘いミルクの香りで俺の鼻腔を擽っていた。
「確かにボクはお金が欲しいよ!施設を守りたいし、皆を楽にさせてあげたい!」
「でも、そんな理由でボクが本当に大会に出ようと思ったって言うの!?」
珍しく早口で捲くし立てる少女は、矢次早に言葉を紡ぐ。
「……キミが頼んだからじゃないか」
「……最初は、ほら、キミのことはただの怪しい人としか思ってなかったけど。黒づくめだし、いっつもサングラスしてるし」
「でも、何て言うか……キミは悪いヤツじゃないって何となく思えてきたって言うか……一緒にいると楽しいし……」
「だから、キミが頼むなら大会に出ても良いって思ったの!」
「なのにキミは、ボクをお金を目的とするようなヤツだって思ったんだ!あーそう、そういう事なんだね!どうせボクはお金大好き拝金主義の欲しい物は何でも金で買える汚い金持ち崇拝主義ですよーだ!」
ごろん、とベッドに不貞寝する少女。
気分を害した事は一目で見て取れた。
どうする?どうすれば良い?
警鐘を鳴らす心臓の鼓動が酷く煩い。
手のひらを湿らせる汗は身体中を駆け巡る熱を放散し、思考回路はショート寸前まで回り出す。
「……すまない。怒った、か?」
「怒ったよ!」
ベッドに寝転がる彼女が猫ならば、俺は差し詰め捨てられた仔犬なのだろう。
不安気に主人の機嫌を伺うことしか出来なかった。
恐る恐る覗き込む。
少女は、ぷりぷりと怒っている。
恐る恐る覗き込む。
少女は、ぷりぷりと怒っている。
恐る恐る覗き込む。
少女は、うとうとし始めた。
「おい!?」
「ん~?なんか、ね?このベッド、すっごくフカフカで……ボクの家のものとは全然違くて……」
「……なんだか、気持ちよくなってきちゃって」
自由すぎる少女の行動に頭を痛めながらも、先ほどまでの曇り顔が晴れたことに安堵して。
少女を眠りの淵から呼び戻すべく、その小さな肩を揺する。
「……えぇ~。あとちょっとだけ。お母さん」
「誰がお母さんだ」
「良いから良いから。……ほら」
「【キミも一緒に寝ようよ】」
「……ね?」
――瞬間。
――俺の意識は、深い闇へ飲み込まれていった。

◆◆◆◆

  「……あ。起きた?ぐっすり寝てたから、何だか起こしづらくって」
胸元から聞こえてくる甘美な声。
まどろみの中、そちらに手をやると、あの粉雪を手にしたような感触が蘇る。
それは、十分すぎる程に。
まどろみの大海から、一息で俺を吊り上げた。
自分が眠りに落ちていたと気づくのに時間はかからなかった。
だが、まさか、少女と添い寝をしていただなんて。
目が点になる、という感覚を身を以って体感した俺は、サングラスをかけていた自分に心底感謝の念を送った。
 「キミ、寝るときもサングラスをかけたまんまなんだね」
蠱惑的。
そう形容するに相応しい少女は、悪戯っぽく告げる。
「ね?ちょっとだけサングラス外してみない?ね?お願い、ちょっとだけ?」
「【サングラス、外して見せて?】」
「断る」
華やいだ世界に彩られてなお、鮮明な輝きを以って少女は嬉しそうに笑っている。
「台詞と行動が一致してないよ?」
少女の発する言葉の意味が分からなかった。後に、自分の胸ポケットに仕舞われたサングラスを見つけるまでは。
「やっぱりキミは良いヤツだね」
満面の笑み、とはこのような笑顔を指すのだろう。
そして、自分もまた、彼女に同じ気持ちを抱いていることが分かり嬉しく思えた。
「…………」
ジャケットの内ポケットに手を伸ばすと、ざらついた厚手の封筒が不快な感触を齎してくる。
存在自体が禍々しい物に思えてきた”招待状”を手に。
ふと、自問する。
本当に、こいつを大会に出場させて良いのか?
最初からそれが任務のはず。今更何を考える?
こいつを、むざむざ危険な目に合わせても良いのか?
そんなこと、俺には関係無い。
でも。それでも、俺は。
「…………」
行動が一致していない。その通りだと苦笑を抑えきれない。
内ポケットに従えた”招待状”を掌で包み込む。
後は、握り潰すだけ。それで、これはただの紙くずと化す。
まるで心臓を握りつぶすかのように覚悟を決める。
少女が言葉を発したのは、指先に力を込めたその瞬間だった。
「ボク、大会に出て頑張ってみようと思う。だから、キミも」
「【ボクのこと、応援してね?】」
「……ああ。頑張れ」
伝えたくない言葉を伝え。
掌に収まった”招待状”を、ゆっくりと少女の前に差し出していた。
拭い切れない違和感を弾き飛ばすかのように。
その少女は、無邪気に。
こちらが気恥ずかしくなる位に満開の、笑顔という花を咲かせる。
つられるように。
この瞬間を愛おしく思うように。
俺も、笑う。

春風に乗って舞う綿毛のように。
彼女は、確かに撒いたのだ。
その種は俺の心に、いつか花を咲かせるだろう。
その花に名前を付けるとするならば。それは。きっと。
――恋心。
最終更新:2018年02月18日 20:15