プロローグ(真野 金)
傾き始めた赤い陽が、町の片側を照らしていた。
男が立つのは、闇に包まれたもう片側。企業が所有する資材倉庫であろう。
老人である。しかし芯の通った背筋と立ち振舞いには、些かの衰えもない。
影のように黒いスーツのベルトには、一振りの日本刀を吊っている。
「……真野金」
老剣士の目は、ペンチで切断された有刺鉄線の柵を見逃さなかった。
それが、追う敵の行く先だ。彼はこの時から片目を瞑っている。
――今こそ、逃さぬ。
仲間から孤立させ、全ての武器を奪った。誰もが追い、倒すことのできなかった真野金を斬ることができるのは、今の彼一人しかいない。
魔人が公然と蔑まれていたかつての時代を生き抜いた男だ。
存在を認められることなく、企業の血腥い暗部で刀を振るい続けてきた男だ。
無敵の『便利屋』、真野金を追い続けてきた男だ。
罠があり、欺瞞があるのだろう。しかしそうした可能性に臆せば、真野金は逃げる。勝つ機会も再戦の機会も、二度と巡ってはこないだろう。
「命を預けるぞ。『右一文字』」
柄を握り、名を呟く。
真野金との戦いの果てに……彼に残された手立てもまた、刀の一本しかない。
鮮やかな三角形を描いてシャッターを切り裂き、暗闇の工場へと踏み込む。
閉じていた側の目を見開く。罠。眼前に高速の質量が迫っていた。
天井クレーンだ。吊った重量機材を振り子のように、逃れる余地なき入口へと……
「――シャッ!」
剣閃が走った。
それは文字通りの意味である。空間を、目に見えぬ斬撃が走ったのだ。機材は到達の遥か手前で切断され、そして膨大な液体を撒き散らした。
本来の剣の理合ではあり得ぬ、怪奇極まる現象であった。
臭気を放つ液体を浴びて、敵の策略を察する。
「……ッ、燃料槽か!」
刺激性の液体に怯んだ一瞬に死角からの手が伸びるが、剣士の第六感の方が早い。跳躍し、間合いを取っている。
納刀。敵を見据える。
「勘が……いいな、爺さん!」
真野金。灰のソフト帽に、同色のジャケット。
追い詰められたこの状況にあっても、伊達男めいた余裕の笑みは変わらない。
「軽油を浴びた心地はどうだ。……待ちくたびれたぜ。宇津木秋秀」
「……死出の旅ならば、待たせはせぬ」
「へっ、遊びのない爺さんだ……」
……そして燃料槽を切断した今しがたの斬撃こそは、宇津木の魔人能力。名称を『零足零刀』という。
能力効果は遠距離全体攻撃。宇津木の抜いた初太刀の射程は無限である。視界全てが攻撃半径に収まる、剣士の規格の外にある剣士。納刀した刀と自ら広げた間合いは、次なる遠隔斬撃へと続ける予備動作でもあった。
入り組んだ資材倉庫で待ち構えた真野の選択は合理的であり、故に読みやすい。
暗闇に十分に慣らした片目で、宇津木は真野の初動を見た。
(攻める踏み足……)
まさか、宇津木がまだ軽油に怯んだままだと高を括ったか。
柄に指を掛けている。近接であろうと、宇津木は裏社会に並ぶもののない剣士だ。
だが。果たして。
あの真野金が、そのようなくだらない失策を打ったものか――
(……軽油。本当か?)
経験とは効率である。人の死に際の走馬灯がそうであるように、身に染み付いた経験から導き出す読みは、早い。僅か数歩の距離を真野が詰める間に、歴戦の剣士であればそうすることができる。
燃料槽を斬らされて、中の軽油を浴びせられた。今の宇津木はその状態だ。
(軽油には火花で着火することはない。この男が、あえて私にそう思わせようとしていたならば)
ガソリンと軽油の違いは、臭いで判別できるはずだ。しかし鼻を突く燃料の臭いの中で、その二つを瞬時に見分けられる者はいるのか?
真野は刹那の即断を突きつけている。一手の誤りが致命となり得る選択を。
(これがガソリンならば、引火点-43℃。刀を抜いた瞬間、私が火達磨になる! それが策か!)
宇津木は、柄から指を放した。
その指は流水に等しい滑らかさで、鋭利な貫手の動作へと変わる。
『零足零刀』。無限射程を実現する『刀』は、実際の刀であるとは限らない。
真野が到達する二歩手前、宇津木は人体の肋骨ごとを砕く手刀を薙ぎ払った。
そして顔を歪めた。手刀は空中で止まった。
「……ッ!?」
「ジャックポット……!」
凄絶な死線の笑みを浮かべる真野の後ろで、硬貨の落ちる音が響く。
そうだ。彼は知っている。真野金の魔人能力を。
『イデアの金貨』。この音が響く時、いつも彼は……!
「俺の」
真野の長い腕が顔面を掴んだ。冷たい床へと、そして引き倒した。
予想外の痛みに老剣士が硬直した、それは一瞬の動作の隙であった。
「……勝ちだな、爺さん!」
「何を……それは、貴様……!」
喉元に鋭利な工具が突きつけられている。有刺鉄線を切断したペンチが。
真野の持つ全ての武器を奪った……このペンチの他は。この一本だけで、彼は。
切断された有刺鉄線の柵を、宇津木は見ていたはずなのに。
「……ジャケットの内に、有刺鉄線を巻いて……『遠距離の手刀』を……」
「遠くの物体だろうと触れる能力なんだろう。形状で絡め取る有刺鉄線までは無視できない。生真面目なアンタなら……そういう魔人能力になるだろうと思ったのさ」
「……全て計算の内か……追い詰められたように見せて、この場に私を誘き出すことまで……入口が一つしかないことも、天井クレーンの位置も、貴様は最初から把握していたな……」
「これ以上喋んのはきついんだけどな。俺も骨にヒビいってんだよ」
「『軽油』とわざわざ口にしたのはハッタリか? 思考で私が足を止めると、分かっていたのか」
「さあね」
「ま、前から……尋ねたかった。何故そこまで強い。何が貴様を支える」
真野は軽薄に笑った。自信に満ちた、人懐こい笑みだった。
「師匠が良かったのさ……あとは、そうだな」
真野金の語る『師匠』が何者であるのか。その生死すら、彼が語ることはない。
それでも真野は強かった。まともな魔人能力すら持たぬというのに、宇津木が生きたかつての裏社会の、最強の一角であった。
「アンタみたいな強い奴に一杯食わしてやるのが、楽しいからだな」
夜である。
六年が過ぎた。宇津木秋秀の背は、まだ曲がっていない。
身に纏うスーツも、腰に下げた『右一文字』も変わっていない。変わったのは、彼以外の世界のすべてである。
繁華街の一角へと足を踏み入れた彼は、まっすぐにその店へと向かった。
「……『真野清掃店』。ここか」
雑音混じりのラジオの曲が漏れる扉を開くと、人影が椅子から転げ落ちた。
そのポケットからは、いくつもの小銭が散らばった。
「真野金」
「だ……だ、誰だ。おい」
いくつもの酒瓶が転がる床だった。
男は携帯電話を取って、電話口の向こうへと必死で叫んだ。
「何なんだテメーは! 俺を殺す気か!? ……ああ!? お前の差し金だろ! 今月中には返すって言ってるだろクソッ……!」
「……待て」
「ジジイだよ! 刀を吊ったジジイがいやがる! うちは清掃店だぞ!? 10万20万の取り立てでそこまでするかお前!?」
「…………」
宇津木は沈黙した。彼の聞いていた噂は、事実であったのか。
こうして目の前にするまで信じたくはなかった事実だ。
「私を覚えてはいないか。真野金」
「なんだ……なんだよ……俺を殺そうとしてるんだろ……俺、俺は、ハハ、恨み買ってるからな……どこも、かしこも、俺を……」
カウンターにもたれて弱々しく笑う男は、かつて才気と既知に溢れ、あらゆる強者を翻弄した、真野金であった。
彼は、かつての彼ではあり得ない言葉を吐いた。
「命だけは助けてくれ」
「……真野」
「頼む……真野清掃店の権利書もやるか? ……臓器でも売れって言うか?」
「真野ッ!」
魔人能力の副作用だ。記憶が欠落していくのだという。
かつての裏社会最強の男が何より頼みとしていた頭脳が、そうして失われていく。
「……聞け。私の名は宇津木秋秀。かつて貴様の敵だった男だ。迂曲あって、今はこうして政府のエージェントとなっている」
「へえーっ、そうかい……じゃあ、俺みたいなケチな悪党に用なんてないだろう。会ったことがあるか? 俺……俺は、覚えているか……?」
「記憶を取り戻したくはないか」
真野は、震える手で小さな手帳を引き寄せた。
必死にページを捲り、書かれているものを思い出そうとしている。
「何……何を言うんだよ、あんた……」
「近々……エプシロン王国の王族が、直々に日本視察に訪れる。名は出せぬが、その要人は戦いを求めている。かつて我らがそうしたような……魔人同士の、異能の暗闘を、今や公然のものとして」
「そ、そうかい……勝手にやっててくれよ……俺は何の関係もないだろ……」
「――聞け真野! 公式の試合だ! かつて手を血で汚した我々のような強さが求められる舞台だ! 勝てば全ての願いが叶う……貴様の頭脳すらも、元のように戻すことができる!」
「ハァーッ、ハーッ……」
真野金は恐怖していた。荒い息をつきながら、宇津木を見上げた。
「俺に、俺に……そんなものに。出ろと?」
「今一度問うぞ、真野金。誇りを取り戻したくはないか。かつての貴様自身を。多くの候補を思い浮かべたが、長く生きた私の人生でも、貴様以上の魔人能力者はいなかった。貴様がその積もりなら……」
「ない。……ない! 出ていってくれ! 俺はもう、戦えない!」
「……」
この国において、武と暴の価値が公然と認められる時代は久しくなかった。
全てが経済と政治で動き、野蛮な価値観を排除した、平和と無慈悲の世界。
やっと、かつての彼らの戦いが認められるのだ。だがその時代の象徴は……今や。
「――そうか」
宇津木は鯉口を切った。
真野の心が痛いほどに分かる。
無敵の彼を支えた強さの源は、知性と判断への絶対的な自信だ。
攻撃の魔人能力を一切持たない彼がそれを失ってしまえば、戦える道理はない。
今の彼の姿を何よりも惨めに感じているのは、宇津木ではない――真野金自身だ。
「ならば、もはやこれ以上苦しむことはあるまい。貴様の衰えた姿を、もう誰も見ることはない。真野金……」
『零足零刀』。項垂れたままの真野金を切断することは、あまりにも容易だ。
宇津木秋秀がこの男に与えてやれる慈悲など、その一刀の他にはないのだろう。
「さらばだ」
「…………ット」
俯いた真野が呟いた一言に、ぞっと背筋が冷えた。
――ジャックポット。
硬貨の落ちるあの音が響く時、いつも彼は……
(最初の……)
……最初の小銭の中に紛れて、あの硬貨が落ちていたのか?
床に目を落とした宇津木は、通話状態のままの携帯電話を見ている。
――『俺を殺す気か!?』『刀を吊ったジジイがいやがる!』『真野清掃店の権利書もやるか?』
(……そうか。そう……だったのか)
宇津木は、真野金を斬り殺すことはできない。
彼が電話を繋いでいたのは、借金の相手などではなかった。
(電話で……通報していたのだ……! 現場の場所も、状況も、私の特徴も、全て会話の中に紛れ込ませていた!)
今の宇津木は日本政府直属のエージェントではあるが、それだけに所轄の刑事と揉め事を起こすわけにはいかない。秘密裏に始末し、処理できる形で殺さなければならないのだ。そうだ――所属の情報も、とうにこの会話の中で与えていた。宇津木秋秀は、今の真野を侮っていたから。
「そうか、真野……」
踵を返し、店から逃れる瞬間。
伏せていた真野が、まるで獣のように跳躍した。刀を抜く間もなく、宇津木は柄頭で迎え撃った。
届かない。右掌で肘を抑え込まれている。即座の一瞬で、喉に突きが入る。
宇津木の戦意が消え、意識が撤退に切り替わる瞬間を、真野は逃さなかった。
いつかの日と同じように、宇津木は地面へと組み伏せられる。
「カハッ!? ハッ、ハハ……ハハハハハハ……!」
「何が……何がおかしいんだよ、ジジイ……!」
「真野……! 何故、私に殴りかかった!」
「い、命が惜しいからに決まってるだろ! 俺がこうしなきゃ、あんたは俺を斬ってただろ! ……死にたくない! 死にたくないんだ! もう出ていってくれよ!!」
真野は涙を流して、見る影もなく無様だった。しかし。
宇津木は刀を手放して、真野の興奮が収まるまで待った。
「……エプシロン王国の、王族来日の日だ。貴様のための参加資格を残しておく。私の刀も……その日まで預けておく」
「知らねえ……そんなもの、俺は……もう、いらねえ……」
「いいや。貴様は必ず来る」
その言葉だけを残して、老剣士は立ち去っていく。
真野金はただ、無力な一人の男のように暗闇の店内に蹲っている。
武器を持たないままに、老人は夜の街を歩いた。
「……クク。ハハハハハハハハ……」
ネオンの合間を吹き抜けて、風が肌を撫でた。
宇津木秋秀は、嬉しかった。
「必ず来る」
『死にたくない』。真野の言葉の真意が分かるような気がした。
死にたくはないのだ。他ならぬ真野金が、自分を失うことを恐れているのだ。
自分が他の誰でもなく、誇るべき自分自身であると断言するように――自分の能力を、全力で揮いたい。
誰も寄せ付けることのなかった、無敵の男だ。
今もなお、本能がその最強を覚えている。
かつての全てを失ってしまったとしても、彼は変わることなく真野金でいる。
宇津木は確信している。
「――真野金! 貴様は、必ず来る!!」