プロローグ(鋭き月の連理)
【どうか――貴女をお慕い申し上げております。】
書き出しはこのようなものでいいだろうか?
鉛筆を握り締めながらも、一旦止める。
我ながら不格好な持ち方だと思ったが、あいにく代筆などを請け負った経験もなかった。しがない王宮仕えの身だった頃は誰かに小洒落た便箋を贈るという発想はもちろん、給金の存在さえ知らずに過ごしていた。
だけど、これが汚い字であるということだけわかって、少し安心する。溶け込んで、もう夢の中で会うことすらないもう一つの意識が教えてくれた。
月の王国が滅び去ってわずか七年だというのに、人の口に上ることはめっきり少なくなった。世間はフェム王女の来日とグロリアス・オリュンピアの話題で持ちきりだ。
月の王子である“彼”の名前の半分を戴いた私だったが、そのことがとても誇らしく、同時に少しだけだが寂しくもあった。
ちゃぶ台に肘をつき考える。もう一度文面を眺める。この身体、いや心は、いささかできないことが多すぎる。姉妹には、そのようなことに長けた者もいるが、きっと私には戦うことしか出来ない。
「姉様、いまだ外は冷えますよ。どうか中にお入りください」
文章に長けたその筆頭に向けて、私、この連理は声を上げた。一枚の障子紙を挟んで月の光に照らされた姉の影は、大半が真っ白いままの試し書きに優しく、薄い染みを作ってくれる。
「いいえ、今日は月が綺麗なものだから目に焼き付くまで見ていたいのよ。お日様の光はとても、とてもあたたかいものだけど、長く楽しむには向いていないもの。
お月様が満開だわ。次に咲くのはいつかしら? な・ん・て」
すぅと、音を引きずる素振りはないのに障子戸が開かれて、二、三歩、距離を詰める。上げられた掌が私の頭のてっぺんを優しく撫ぜてくれる。手首の先、垣間見えた二の腕がひどく艶やかで思わず見惚れてしまう。
「子ども扱いはよしてください、そんなことをやっているからあのようなことを言われてしまうのですよ?」
「つむじがかわいいわ。貴女のかみの毛は水面を、みなもの上を思わせる。そんな涼やかで清らかなものの上に、手のひらを走らせている、そんな気持ちの良さを感じるの。気が済むまで、いつまでだって触っていたいくらいに、気持ちがよいの」
さわさわとされる、彼女の最も優しい部位を独り占めにしていると思えば贅沢な時間かもしれなくて、なんだか悪い気分でもなかった。
けれど、その感触は唐突に離れていってしまう。私の邪念が原因なのか、そうでないのかはわからなかったけれど。少しだけホッとするのと同時に、なぜか名残惜しい気さえした。
「人の親になった覚えはないのに、わたしのことを知る人は誰だってサンプル花子さんたちのお母さんっていうのですもの。そういわれる度にすこうしばかり、拗ねてしまうわ。ぷん、ぷん、とね。
わたしは単にお顔の原型と性格のパターンの一部を提供しただけなのに。
それなら、せいぜいお姉さんだと思うわよね、ねっ! 連理ちゃん。どうだー、言われる前に言ってやったわよ。いえーい」
「わ、わひゃー?」
そんなことを言っているのだから、お互いに世話がない。
姉様と寄り添う形になってしまえば、当初言い出そうと思っていた綴り方の問題もどこかに行ってしまうのだから。
私は彼女の名前もしらない。
仕事場であり終の棲家となるはずの場所を自ら飛び出してしまったこんな私をおんなじ顔をしているというそれだけの理由で受け入れてくれた。
彼女は籠の鳥だ。サンプル花子の素体となるばかりか、自由さえ失ったらしい。孤独な貴婦人の手慰みの人形遊びだなんて言ってしまえば身も蓋もないけれど、きっと私はそんな口を利いた輩のことを許しては置けないだろう。
姉様に向けた感謝の念が絶えることなんて、けして無い。
「ですよね、姉様」
そして、姉様と言うのは、この小さな屋敷の中で付かず離れず、辛うじて付いたり離れたりする私が見出したありふれた呼び方だ。貴女は連理と呼んでくださるのに、私は空振りなのはとても、とても狡いと思った。
だから。
座っている私に、合わせようと屈みはじめたその姿勢のことでした。
御髪に付いた雪のかけらを見つけたと同時、融ける前に口に入れてしまったのはきっと意趣返しなのだ、雪に嫉妬したというわけではない、ないったらない!
そうすると、すとんと膝のところから落ちて、私を真正面から見据える。目を逸らすという選択肢はきっとなくて――自然と見返すかたちとなる。
「月に魅入られて、雪に降られてしまったけれど、あなたに振り向いてもらえたならその甲斐もあったというものね」
そうです、私たちは鏡合わせのように同じ、おんなじ顔をしていたのです。丁度、発したセリフの恥ずかしさに耐えきれず、真っ赤な顔をしていたから猶更のこと。
そうして、満月の夜は過ぎていきました。
月が丸みを少し失って、尖り始めた次の夜のこと。両手を二つ揃えで願い出たことがありました。
「姉様、お暇を頂きに参りました」
昼間に、練習して精一杯書き上げた辞表の手紙を『読めないわ』の一言で突き返されてしまったこと、それ自体は覚悟していました。
けれど、入れ替わりに分厚い封筒と添えられた一枚の白紙が手元にやってきたのです。
「グロリアス・オリュンピアに行きたいのでしょう? なら、なにも辞めることはないわ。連理――貴女にあげられるものが、当座の支度金だけなんてつまらないことはもちろんなくってよ。
ただの『花子』では味気ないから『銘』を付けてあげたいなって思っていたのだけれど、貴女の心におすまいの誰かさんに先を越されてしまったみたい。
だから、あなたに代わりに『号』を授けるわ。いい? じっ、と見ていて」
すると、何も書かれていないまっさらな紙にじわり、じわりと美しい字が浮かび上がっていくではありませんか。魔人能力? いいえ、種や仕掛けがあろうとなかろうと関係ありません。
「『鋭き月』、いいこと? 貴女は『鋭き月の連理』と名乗りなさい。
昨日、わたしは円い月を確かに愛でた。けれど、切っ先のように尖った月のように高らかに笑ったあの日のことを思い出したくもなったの。
もし願いを叶いたいというのなら、鋭さを取り戻さなければいけないわ。
ね? 月面で栄華を誇った『月鏡国華』の王子『連理・麝香』――。それとも単に『麝香』とお呼びすべきかしら?」
心が剣なら、それを持ち歩くための鞘は体に他ならない。
久しぶりの身体の感触に、心が躍った。かつて男の身体を駆ったこの心にはいささか不釣り合いな感触と、すっと落ち込んだ下腹部にはけして慣れることはないけれど。
立ち上がりながらも構えを取ることなく、露出した胸元を見て頬を赤らめるだけのボクを連理の姉は楽しそうに見ていた。
「二度と浮き上がることは無いと思っておりました。
けれど、お答えしましょう。いかにもボクの名は『麝香』、守るべき民も、地も、継ぐべき姓(生)もそれさえも失った、ただの守り刀です。
げに恐ろしきは貴女と繋がっている情報網の精緻さと云うべきでしょうか?
かつて日本国、五賢臣のお一人を務められた、魔人能力名:推定少女≪アザーワイズ≫様、いや……、SNS団三剣士に数えられたE・S様?」
「……ふっ、お生憎様。わたしのお名前は別にあるのよ。何とでもお呼びなさい。どうあっても名を明かすのは連理が最初だと生まれた時から決めているのですもの。
どの道あなたは知らない。わたしにはもう企みなんかない。『連理』が思っている通りに、わたしから作られた、わたしのためのお花畑を遠巻きに眺めるしかない、ただの罪人よ。
だけどあの頃は知らなかったわ。遠目で見ていた時はどうでもいいと思っていたお花さんが摘まれて贈られた、たった一本であったとしても特別なものになるだなんて」
二度と目覚めることはないと思っていた。
名も無いサンプル花子を乗っ取った時に、王国の再興を夢見たことが無いといえば嘘になる。けれど、フェム王女の姿を彼女を介して見た瞬間に瓦解した。
おのれの、あまりにも情けない現況と見比べたことを笑いたくば笑うがいい。
そして、逃げ去った先がここだ。仇のひとりに救われたのは何の因果か、これ以上彼女の人生を奪うまいと思って、そして二度と下らない願いを抱くまいと思って名を二つに裂いた。
「ボク自身に望みはありません。もちろん、連理に貴女を害させるつもりもありません。この心のみ、エプシロン王国の最後まで寄り添えたら、そう思うだけです」
「その言葉を聞いて安心したわ。確かに、華々しい舞台の最後に優勝者から手渡された剣ならあの王女様が無碍にすることはないでしょう。来歴まで聞かせてあげれば、ひょっとすれば国宝として奉ってもらえるかもしれない。言葉を交わすことが無くても末裔まで見届けられるかもしれない。
傍から聞く分には、素敵な物語かもしれない。
でも……もし『連理』の心を危険に晒すようだったら、その心剣、何千年かけてでも叩き折ってやるところだった。わたし自身、嫌でも殺されてやるわけにはいかなかった。
それに、誉は『連理』のものよね? でなければ、貴方はわたしが預かるわ。あの子、フェム王女のことが大好きなの。花壇に植えられた『花子』の一本として王女に見分けがつかないまま側にいるか、目に届く距離にいなくても『連理』として唯一無比の花になるか、どちらが幸せかはわからない。
でも、もし彼女の口から語らせないというなら容赦はしない!」
彼女は、かつての心の鋭さを少しだけ露わにして、言った。胸襟を開くとは何も好意の証とは限らない、その事実を教えてくれるようだった。
「はい。手を貸しはしますが、この心は折れないこと、それのみに専念します。
このように、無理に眠らせて浮かび上がるようなことはそう、ないとお約束します。元より眠っている時以外、この心が目覚めることはないのですから」
ボクが彼女と会話を交わしたのは連理・麝香としての二度、三度きりだ。
わずかに融けこんだ記憶が流れ込んだりもしたが、剣に心を変じて胸元の鞘に収まった以上はもう連理の心を害することはない。人の心を剣として殺し続けると、そう決めていた。
この刀身が映し出すものに偽りはない。もし、嘘が混じっているのなら曇るはずだ。果たして、煌めきの先に照らされた彼女の表情に怒りは混じっていなかった。
「もし王女の目に留まることが無かったなら話はそこまで。否が応にも帰ってきてね? 元より、博物館に寄贈したって達成できる目的よ。私、寂しいの、あのお月様のように満たされてないの。泣いちゃうかもしれないから連理に嫌われたくないの。
知ってた? 次の次の満月の日にはフェム王女が成人の日を迎えるのよ。あなたの未練もそこまでよ。もう、貴方抜きでも連理も王女も一人でやっていけるのだから」
そうして彼女は、三日月のように笑おうとしたが、うまく笑みを浮かべることが出来ず、曖昧な形で微笑むことしか出来なかった。
そして、麝香も笑みを返そうとしたがどうあっても鏡合わせのようにならなかったという。
女心はどうあってもわからない。
けれど、連理の願いを叶えてあげたい。麝香は、勇ましい号を貰って子どものように喜ぶ連理の姿を薄れゆく意識に、それでも焼き付けながら男としてそう願うことにした。