プロローグ(宝条綾果)


 雲間から顔を出した太陽は、暖かな日差しを照りつける。
穏やかにそよぐ風は、去り際に頬を撫でていく。
昨夜の雨が残した水溜りは、覗き込む少女の内面までも映し込むかのようだ。
水面に映された少女の顔。その鼻のあたりに、アメンボが止まる。
それが何だか可笑しくって、いつまでも眺めていたい。少女はそう思った。
アメンボが次の水場を求めて飛び立つことを名残惜しそうに見送った少女は、自分も水溜りを飛び越えようと小さく跳ねる。
落ちた水滴が水面に静かに波を起こすかのように、そこだけが透き通って見えた。


◆◆◆◆

~~宝条綾果プロローグ 『命短し恋せよ乙女』~~

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 宝条綾果は上機嫌であった。
迎えを断り徒歩で帰ると決めたのは、どうやら正解だったようだ。
学校と家路を往復するだけの車内では、こんな光景は見られなかったのだから。
そして。

「魔人闘宴劇……ですか」

そして、執事が運転する車内では、招待状の中身を確認することなど出来なかったのだから。
厚手の上質紙と絢爛な装飾を施された封筒を天に翳すと、そこには確かに「宝条綾果様」と宛名書きされていた。
太陽に透かされたそれを見やると、思わず目を細める。

「ここでなら。この宴ならば、私は」

その後に続く言葉。それは、穏やかだか力強く。

「恋をすることが出来るのでしょうか」

 宝条綾果はお嬢様である。
箱入り娘。その表現がピッタリと当てはまる程に。
厳しい家柄で育てられた彼女には、普通の学生らしく日々を過ごす事など不可能であった。
だから、彼女は。
未だ、恋を知らない。
そして、彼女は知らない。
手にしたそれを、どんな手段を以ってしても欲する輩がいるということを。

「きゃっ!?」

一迅の風が少女の隣を駆け抜けていく。
それが魔人能力だと気づいたのは、高速で走り去っていく男の後ろ姿が見えたから。
それが窃盗だと気づいたのは、封筒を持っていた指先に擦れた熱さを感じたから。
自身をはしたないと気づいたのは、思わず口を開けて呆けた顔をしてしまったから。

「……驚きました。まだ日も落ちていないというのに」

その声には一片の焦燥も見られない。
今にも消え去ろうとする男を見つめながら、少女はゆっくりと鞄を開ける。
取り出されたもの。それは一切れの食パン。

「……それじゃ。デートを楽しみましょう?」

麦色の固形物を手に、少女は薄く微笑んだ。


◆◆◆◆


 男の魔人能力は至極単純なものであった。
自身の脚部を強化した高速機動。
単純であるが故に、突出した弱点も見当たらない優良な能力だ。

「へ、へへ……。これが、50億のプラチナチケット……」

ごくり、と生唾を飲む音が男の全身に響く。
掠め取った招待状を手に、男は尚もその走りを緩めない。
彗星の如き疾走を以って、男は逃げる。
逃げる。
逃げる。
大通りを越え、橋を渡り。
人通りの少ない裏路地に入ろうと角を曲がったその時、

「うおっ!?」

”何か”にぶつかり、男は吹き飛んだ。
それがヒトであると気づくのには、幾ばくかの時を要した。
眼前には、頭を抑えながら尻餅をついた少女。その姿に、男は目を丸くした。

「痛た……。どこを見て歩いているんですか?」

それは、確かに先ほど置き去りにしてきた少女の姿だった。
追いつけるはずがない。
このような、年端もいかぬ少女が追いつき、更には先回り等と出来るはずもない。
ならば、この少女は、

(魔人……?)

男がそう考えるのは至極当然であった。
ならば。

「……ッッ!」

選択したのは逃走。
三十六計逃げるにしかず。
相手の能力が分からないのであれば、無理な戦闘でリスクを犯す必要は無い。
しかし、その考えこそが悪手。
少女に背を向け、再び逃走を試みた男の全身は、その筋肉の駆動により熱を帯びる。
だというのに。

ひやり。

全身から凍えるような汗を噴出したのは、頬に伝わる無機質な冷たさを味わったからだ。
脊髄に氷を突き刺したかのように男の全身を震えさせたそれは、まるでナイフの腹に撫でられているようであった。
男の頬に押し付けられたもの。
それは、缶ジュース。
しかも、冷えている。キンッキンに……!
誰しもが一度は味わったことがあるだろう。
冷たい缶ジュースを背後から押し当てられるという体験が。
まるで恋人の悪戯のように、少女、宝条綾果は男の頬に缶ジュースを当てていた。
これが、宝条綾果の魔人能力『デート・オア・アライブ』の効果。
少女漫画やラブコメ漫画のお約束を発現させるそれは、「パンを咥えて走れば、”必ず”曲がり角で対象とぶつかり」、「冷たい缶ジュースを持って追いかければ、”必ず”背後から頬に当てる」。

「そろそろ、小休止でもいかがでしょう?」

宝条綾果は、背後から掌底を打つ。
鼻骨めがけて描かれる最短直線の軌跡は、男の肩を掠めるに留まった。
少女の打撃は、一見不発に見える。
だが、だがもしも。
この打撃が、男への殴打を目的としていなかったとしたら?
そう。狙いは、男の鼻骨ではなく……その背後。コンクリートの壁。
すなわち――――壁ドン!
動きを封じられた男が、宝条綾果と相対させられる。
そのまま、少女の残るもう片方の指が、男の顎を撫でる。
ご存知、顎クイだ。

「まだ続けますか?」

蛇に睨まれた蛙のように、男は言葉を発することが出来ずにいた。
そして、男は理解する。
もし、この指が、顎ではなく首に置かれていたら。
もし、缶ジュースではなく、ナイフを当てられていたら。
数度となく命を握られ、男は敗北を認めるしかなかった。
その姿を見つめ、少女は。宝条綾果は、子供のように無邪気に微笑んだ。


◆◆◆◆


 湯浴みを終え、火照る身体で自室の机に向かう宝条綾果。
髪にタオルを巻いたままゆっくりと引き出しを開け、招待状を差込んでいく。
それはまるで、初めてのラブレターを大事にしまうかのように。
そのまま、柔らかいベッドに身を投げると、うつらうつらと瞼の重みを感じ始めた。

「これから」
「これから、どんな出会いが待っているのでしょう?」

これからの明日を夢に見、少女は眠りに落ちていく。
恋を夢に見、恋に恋し。
儚さの奥に強さを秘めて。

恋に恋する、何よりも強き乙女。ここに参戦。




最終更新:2018年06月30日 22:43