プロローグ(哀渦)


 今日も今日とて、私はいつもの悪夢を見ていた。
 中学二年の夏。全身が茹で上がるように暑く、喧しく不愉快なセミの鳴き声が響き渡っていたあの日。
 私が魔人に覚醒した、あの日の悪夢だ。

「――そのまま動くんじゃねぇぞ。ちょっとでも反抗しやがったら、おめぇのダチを片っ端からシメっからなァ!!」
 気色の悪い脂汗を止めどなく流すクソデブニキビ野郎はそう吐き捨てると、私の腹に蹴りを入れた。学校の屋上に響いた鈍い打撃音は、セミの声に掻き消されほとんど聞こえなかった。
「ゴフッ……!! アァ……分かってるよ。反抗なん、ガッ!!」
 私の声を遮り、ノッポクソダサ鼻ピアス野郎が私の顔面を殴りつけた。
 痛い。とても痛い。だが、それだけだ。ただ痛いだけ。何も問題ない。
「誰が喋って良いっつったんだゴラァ!! テメェは唯黙って殴られてりゃ良いんだよ!!」
「………………」
 私を取り囲む4人のクソ共が次々と私を殴り、蹴る。暑さと痛みで意識が朦朧とし始める。
「……おい見てみろよ。こいつ鼻血出してるぜ。ダッセェ」
 切っ掛けは、ちょっとした事だ。名も知らぬ男子生徒が今の私の様にリンチされている現場を目撃した。
 だから私はそれを止めた。身体を張って止めた。こいつには手を出すな、そんなに殴りたきゃ私を殴れとのたまった。
 だから殴られた。よくある話だ。
「ハハハ……何だこいつ。滅茶苦茶しぶといな。どんだけ殴っても死なないんじゃね?」
 軽薄な笑い声が聞こえる。鼻と口から流れ出す赤黒い血がポタポタと地面に落ちる様を、私はボンヤリと眺めていた。
「……なあ、だったらいっその事、コイツここから落としてみねえ? 案外図太く生き残るかもしんねぇぜ?」
「…………は?」
 思わずマヌケな声が漏れ出てしまった。ここから落とす? 何を言ってるんだコイツは?
「おっ、いいじゃんそれ。そんで生き残ったらもっかいここまで連れてきてよ、動かなくなるまで落とすとかどーよ!」
「な……馬鹿かお前らは!! そんなの唯のさつじ……グァッ!!」
 今度は顔面に膝を入れられた。動く生ゴミ4連星は、私をニヤニヤと見下ろしていた。
「おい、そっち足持てよ」
「りょーかいりょーかい」
 ゴミ共は私の身体を掴み上げ、屋上の端まで無理やり引き摺り始めた。
「クソ……離せ!! 離せ!! 嫌だ!! 殴りたいなら好きなだけ殴れ! だけど死ぬのは、死ぬのは……!!」
 私は初めて本気で抵抗した。どこにそんな力が残っていたのか、あらん限りの声で叫びを上げた。
「離せ!! 離せェェエエエエエ!!」
 これだけ殴られて尚マトモな力で抵抗する私に、クズどもは気圧されていた様だった。
「ク、クソ!! 抵抗すんじゃねぇよこの馬鹿力女が!! 抵抗したらテメェの、あ……」
 あの瞬間、本気で奴らが私を落とす気だったかどうか。それは今となっては分からない。もしかしたら死の恐怖に怯える私の醜態を見たかっただけなのかもしれない。
 だがとにかく大事な事は、私と奴らがもみ合いになった結果、私は屋上の端から足を踏み外し、落ちていったという事だ。
「う、そ……嘘、だ……」
 仰向きになった私の身体が、ゆっくりと。ゆっくりと落下していく。目の端から涙が零れ落ち、滲む視界には呆然と立ち尽くす不良共の姿が映る。
 その瞬間、私の心からどす黒い感情が溢れ出た。
 おかしい。おかしい。おかしい。なぜ私が死ななくてはならない。私はただあの名前も顔も定かではないあの男を守りたかっただけだ。
 死にたく無い。死にたく無い。死にたく無い。なぜ私が死ななくてはならない。これまで私は色んな人の身代わりになって守ってきたじゃないか。なんで私が危険な時には誰も助けてくれないんだ。なんで誰も私の代わりになってくれないんだ。
 死ぬべきなのは私じゃない。私の代わりに、あいつらが死ぬべきだ――。
 ドサ。ベキ。グチャリ。セミの叫声に紛れ、そんな湿った音が聞こえた。
「ハ……? え、なんで……? お前、落ちた筈じゃあ……」
 クソデブニキビが私を見下ろし、呆然と呟いた。だが呆然としていたのは私もだ。
 何故私は死んでいない? 何故屋上から落ちた筈の私が、屋上の端で寝転がっている?
 さっきの物音は何だ?
 私は痛む身体を転がして、うつぶせの体勢になった。そして屋上の端から、校庭を覗き込んだ。
「………………」
 私の視界の先には、身体から骨が突き出し頭部が潰れた、ノッポの死体があった。そして私は理解した。
 絶対強制サクリファイス。私の魔人としての能力が、私の身代わりとしてあの男を死に追いやったのだと。


「――――ッ!!」
 悪夢は突如として終わりを告げ、私はベッドから跳ね起きた。全身から脂汗が吹き出し、タンクトップに張り付いていた。
「イツっ……」
 勢いよく身体を動かしたせいで、背中に鋭い痛みが走った。数日前の任務で受けた刀の切り傷は、まだ塞き切っていないらしい。
「いつになったら私は……」
 あの悪夢から開放されるんだ。人を殺した悪夢。己の弱さを思い知らされる悪夢。
 結局私はあれから何も成長していない。魔人としての能力は得た。武術も学んだ。経験を積んだ。魔人自衛官にもなれた。だが、何も変わっていない。
 結局肝心な所で、私は何かを取りこぼす。助けられた筈の命を。殺さずに済んだ筈の命を。
 私は誰かの身代わりになって守った気になっているが、別に私が居なくともどうとでもなっていたのでは無いか?
「フン……」
 私は気だるげにカーテンを開ける。爽やかな朝日が部屋に差し込むが、うっとうしい事この上なかった。
 床に転がっていたタバコとライターを拾い上げ、火をつける。いつもと変わらない、安心するまずさだ。
「こんなんじゃあ、駄目だ……私は、弱い。私は……」
 早々にタバコをもみ消した私は足早に冷蔵庫に向かうと、冷えたビールを取り出し一気に飲み干した。
「ゲフッ……私は……強くならなくてはならない。強くなくては、誰も守れない……強くなくては……!!」
 その為なら、何にだって縋ってやる。金持ちの道楽に付き合って真の力が手に入るというのなら、喜んで道化にでも鬼にでもなってやる。
 たとえ私の能力で、誰かが傷つくことになったとしても。




最終更新:2018年06月30日 23:10