緑なす木々から降り注ぐ柔らかな日差しが、渓流のしぶきを白く輝かせた。
荒い砂利の敷き詰められた木陰にて、表情に幼さのかけらを残した少女はひとり耳を澄ませる。
彼女――石油王アブ・ラーデル18世が聞く音はしかし、谷川のせせらぎではなく、自らの内に流れる血潮の脈動であった。
王は太陽に手のひらをかざした。
陽光を通して、皮膚の下を漆黒の血液が巡っていた。
《アグア・イグニス》。
それは石油王の体内より湧き出る、大地の真髄たる神秘の原油。
先祖代々受け継がれてきた、王の証である。
「父上……」
そっとつぶやくと、王は意を決した表情で一歩足を進め、彼女の血の色と同じ黒色に染まった大剣を高く掲げた。
剣の名を、原油採掘剣ドヴァット・デマクールという。
「さあ! 聞こえておるのだろう、卑しき暗殺者よ。正々堂々と姿を見せよ! 我こそは、石油王アブ・ラーデル18世! ユデン王国の正当なる王位継承者にして、最も偉大なる……」
その時、清閑な谷に乾いた破裂音が響きわたると同時に、漆黒の血しぶきが咲いた。
朗々と謳われる口上は、一発の銃弾によって遮られた。
『……殺ったの?』
暗殺者、河渡六文の手の内で、小銃が白煙を上げた。
銃口から響く甲高い問いかけに彼は答える。
「いや、浅い。ああ見えて狙撃を警戒している」
川を挟んだ山間の草木に身を隠しながら、様子をうかがう。
大剣で守られた頭部を避けて少女の心臓を狙った銃弾は、とっさに身をひねった左肩を貫通した。
彼我の距離は、およそ200メートルといったところか。
38口径のリボルバーでは致死の間合いとはならないだろう。
『でもでも、一発あたったよね!』
「ああ」
しかし彼にとっては、その限りでない。
「残りあと五発」
河渡六文の、六発の弾丸。
それは命あるものを冥府へといざなう《三途の川の渡し賃》。
死という現象そのものを強制する、絶対のルールである。
彼岸と此岸。
両岸の距離は果てしなく遠いようでいて、驚くほど近い。
『楽勝ね! さあバキュンバキューンと殺っちゃいなさい、六文!』
「わかってるさ、論華。だからもう少し静かにしてくれ」
論華と自称する己の銃と場違いな会話を交わしつつ、殺し屋は膝をつく標的に狙いを定め、再び六分の一の死を放った。
『……えっ!? 何あれ!』
だが、銃弾が少女の体に届くことはなかった。
それは王の前方を守るように突如出現した黒色の石壁に、ひび割れひとつだけを残した。
壁の中心には、河原の砂利に突き立てられた大剣があった。
「あの剣だ。一瞬で原油からアスファルトの盾を精製した! これが石油王の力か……」
そのまま王は剣を手に、転がるように茂みへと身を隠し木々の中へと消えた。
「……誘われているか。どちらにせよ、もっと近づかないとダメだな」
『そうね、賛成。ゴーゴー、六文ちゃん! サクッとぶっ殺しちゃいましょ!』
耐えかねたように、六文は眉をひそめる。
「あのなあ論華。さっきから、一国の王様とはいえ14歳の女のコだぞ? それを躊躇なく殺れだのぶっ殺せだの、いくらなんでもさ……」
『ふーん……そういうこと言うんだね、六文さん』
急激に空気が冷え込むような感覚を、六文は肌で味わった。
論華と名乗る声は、怒りもあらわに彼に吐き捨てた。
『あたしのことは、殺せたのに』
六文は大きくため息をつき、失言を後悔した。
先日の亜門との会話を聞かれて以来、『彼女』の機嫌はすこぶる悪い。
「わかったよ。真面目にやろう」
彼は腰を上げ、敵のあとを追った。
論華は死を望む。
そして六文は、殺すことが人より少しばかり得意だった。
彼は彼女の欲するままに、他人の命を奪い続けてきた。
「しかしまあ、社長も全く人が悪い。フリー時代の経歴まで掘り返されるとは」
河原に点々と残された常ならざる漆黒の血痕に、彼は見覚えがあった。
死神の脳裏に蘇った光景。
それは黒き血を滂沱と流して斃れ伏す老王と、その体にしがみついて泣き叫ぶ幼い少女の姿であった。
「大きくなったもんだ。シエル王女……それが今や石油王、アブ・ラーデル18世、か」
おびただしい量の黒血を零しながら、少女は激痛に歯を噛みしめた。
撃たれた左肩から先が、だらりと垂れて動かない。
銃創には、方形の穴が穿たれた真円の痣がくっきりと浮かび上がっている。
それは三途の川の渡し賃、六文の冥銭が内のひとつ。
コスモ・デ・ル=ユデン……彼女の父、アブ・ラーデル17世を殺めたものと、同じ。
「はぁっ……ぐ……河渡、六文ッ……! やはり、あいつが……!」
稀代の暗殺者、河渡六文の実力と能力は裏社会に広く知れ渡っている。
黒幕たる雇い主は未だに不明ながら、彼が先王暗殺の下手人であることはもはや間違いない。
亜門洸太郎が支援の見返りとして魔人闘宴劇への出場を要求した際、彼女は何かの冗談と考えた。
しかし六文の名を聞いたとき、それは彼女にとって越えねばならぬ試練へと変わった。
父を失った悲しみに暮れる中、何もわからぬまま王位を授かり、傀儡とそしられ。
それでも己に流れる血と天賦の才を信じ、傾きかけた王国を復興させた。
今再び訪れたこの苦難を乗り越えてこそ、かつての傀儡は真に民から認められる王になるだろう。
後ろを振り返ると、地に流れ落ちた血液が、少女の足跡を黒く染めていた。
「父上。どうか、天国よりシエルを見守っていてください。アブ・ラーデルの名に懸けて、必ず成し遂げてみせます」
たとえ己自身を餌としようとも。
そう言いかけたとき、何ゆえか、目に涙をためた侍女の顔がまぶたの裏に浮かんだ。
「……たわけが。心配など要らぬぞ。我は死なぬ。死んでたまるか……なにが六文。なにが冥府への渡し賃だ。高貴なる我が命、たかが六文程度であがなえるはずもなし!」
王は、吼えた。
「この命もらい受けたくば、5000兆円を持ってまいれ! ……石油王だぞ!」
獲物を追い、死神は草土を踏みしめて山間に分け入る。
血痕を辿り歩みを進めるごとに、鼻をつく油の異臭は濃くなっていく。
「……さて、どこで仕掛けてくるか」
『えー? なになにどういうこと、六文? あたしにも教えなさいよ!』
「ああ、わかったから。もうちょい静かに。見つかっちま……」
彼の視界の隅に、赤い光が揺らめいて見えたのはその時だった。
蛇のようにくねり迫るその光は、彼の周囲を取り囲むと、一瞬ですべてを紅に染めた。
「……やはりな! 油を撒いて火を放ったか!」
足元から吹き上がる炎を避け、支流の水辺へと逃げ込む六文。
暗殺者の目は、その水流の中に細く渦巻く黒い汚濁を見逃さなかった。
(ってことは――)
山が燃える。
王の印たる黒き血の流れを遡り、六文は浅い水の上を駆ける。
そしてただちに彼はその源にたどり着いた。
だが、そこに少女の姿はなく。
川の中央にはただ……黒く輝く大剣が、突き立っていた。
剣から流れ出す漆黒の油が、渓流を染めていたのだ。
(――本命は後ろだ!)
六文は振り返り、燃えさかる炎の中に銃を向けようとした。
しかし既にその目前。
「……河渡六文!」
燃え立つ怒りを全身にまとう暴君が、拳を固く握りしめていた。
六文は少女の瞳の奥に燃ゆる憤怒を見据えた。
「父上の……仇だッ!」
(ああ。惜しいな。こいつには……)
石油王の拳は、六文の手中の銃をしたたかに打った。
(……人を殺す覚悟はない)
『ちょ、ちょっと!? 六文ーっ!?』
「悪いな、論華!」
論華の声をさえずるリボルバーは彼の右手を離れ、砂利の上を転がって水中に没した。
死神はその唯一の武器、命を刈り取る大鎌を失ったかに見えた。
「ひとつだけ忠告だ、石油王」
だが、もう一方の左手。
その手のひらの内には、河原の小石が握り込まれていた。
「殺し屋は、道具を選ばない」
彼女がその言葉を理解した時には、手遅れだった。
六文は親指をはじき、手の中の小石を次々と無防備な姿勢の少女へと撃ち出した。
「二。三。四。五。ああ……惜しい」
王はかろうじて、飛んでくる石つぶてのひとつを袖の端で払った。
だが、四発。
痛みすら感じないほどのかすかな――それでいて致命的な弾丸を四発、体に受けた。
「冥府の渡し守は意外と気前がいい。弾だろうと石だろうと区別はないんだ」
「くッ……」
川に突き立てた原油採掘剣を手に、石油王は暗殺者と正面から相対した。
その肌には今や、左肩の銃創に加えて、死への渡しを勘定する四つの銭紋が新たに刻まれていた。
両者の距離は、およそ3メートル。
「……残り、あと一発。頼むぜ、論華」
抜いた剣を上段に構える石油王に対し、六文は懐から二連装のデリンジャーを取り出した。
不測の事態に備えるための、予備の隠し銃である。
『ふん! もっと他に言うことがあるんじゃないの?』
再び響いた甲高い声は、川に沈んだリボルバーではなく、その銃口から聞こえた。
「すまん。いや、悪かったと思ってるよ。でも囮に使うのが一番確実だったんだ」
『あーそうですか! 結局六文ったら、論華ちゃんがいないと何もできないんだから!』
……論華とは、銃の名ではない。
それは河渡六文の手を介して人々に死をもたらす、冥府の川の渡し守である。
『ほら! さっさとぶっ殺して!』
「ああ。俺がしくじるわけないだろ。黙って見ててくれよ」
『六文。殺して。あいつも……あたしみたいに』
「わかってる」
そして、河渡六文の、かつての恋人の名でもあった。
「……貴様」
石油王は剣の構えを解かぬまま、目の前で語られる会話を咎めた。
「さっきから、なにを一人でぶつぶつと!」
死神は、悲し気に目を細めると、薄い笑いを口の端に作った。
「仕方ないだろ」
河渡六文は、戦闘において、ひとつだって無意味な動きはしない男だった。
「俺だって本当は怖いんだよ。人間の命を奪うなんてさ」
殺し屋はつとめて己の思考をシンプルに保った。
手中のデリンジャーには、弾丸が二発。
あと一発で、終わる。
その時。
「さあ」
『さあ』
それは偶然だった。
『殺して!』
「殺してみよ!」
銃口から響く論華の声と、敵が発した声が、重なりあった。
目の前に立つ少女の上に、なぜだか似ても似つかない女性の姿が浮かんで見えた。
かつて彼が命を奪った、それが。
「論――」
刹那にも満たない、一瞬の戸惑い。
生じた隙の間に、石油王は大きく踏み込んでいた。
上段から振り下ろされる漆黒の大剣。
その刀身に、赤く炎が燃え上がった。
(ならば……!)
銃声が響く。
放たれた銃弾は剣の側面を撃ち、少女の手元から弾き飛ばした。
死神の目前には、大きく開かれた無防備な的だけがあった。
(終わりだ。石油王――)
だが、その指が再び引き金に掛かるより早く。
「が、ハアッ……!?」
六文は、自らの身体が砕ける音を聞いた。
肋骨が折れ、肺に食い込むほどの衝撃が、彼の胸に打ち込まれていた。
それは、銃弾ではなく。
剣でもなく。
「……石油王拳撃」
漆黒の血に濡れた、王の左手だった。
彼自身が少女に刻み込んだ左肩の銃創から先が、ちぎれかけて黒煙を上げていた。
(……傷口から流れる油に、自ら火を。ハ、ハ……なんて奴だ)
膝折れ地に倒れる彼の元に、王は立った。
「殺せ」
血の混じった咳を吐きながら、河渡六文は言った。
「……父親の仇をとるんだろ。あんたにはその権利がある」
だが、石油王は凛とした声で彼にはっきりと告げた。
「ふざけるな。貴様のような下賤な者と一緒にするな。己の利欲や激情に任せて人を殺めるなど……そんなものは真の王のありかたではない。真の王とは、民を導くものだ」
六文は、二度まばたきをした。
「貴様を裁くのは、法であり、民だ」
「はは……」
彼は、この幼い少女に人を殺す覚悟などないと、そう判断した己の過ちを悟った。
その小さな両肩には、彼が抱え込んでいたものよりずっと重いものが背負われていたのだ。
論華の声が、なぜだか今は、聞こえなくなっていた。
「――『自然派』だ」
「……なんと言った?」
耳慣れないその単語に戸惑い、王は聞き返した。
「石油王アブ・ラーデル17世の暗殺。依頼主は、自らを『自然派』と……そう名乗った。それが、あんたの敵さ。おそらくは、今も――」
渓流に、一陣の冷たい風が吹いた。
「……ええ。計画に遅れはありません」
人気のない、荘厳な城の一室にて。
重厚な鎧に身を包む男の声が暗がりに残響した。
「共に祝福いたしましょう。我らが『太陽王』の帰還を……!」