都内某所、某事務所にて。
「お疲れさん、今回のギャラだ」
「ああ……って、随分と多いな」
受け取った封筒の分厚さと重みに、安藤歩は若干の困惑を覚えた。
顔馴染みになった雇い主だけに、相場もわかっているつもりだった。
「いつも先生にゃ世話になってるからな。
ちょっとした気持ちさ」
「……すまない」
魔人闘宴劇の対策を練るためにも、最愛の妹・望の治療費の支払いの為にも。
まとまった金が必要になることを思えば、好意を突き返すのも無粋だろう。
「いいってこった、それよか奴さんの情報だが――
ほんの少し前まで、本当にただのガキだったようだな」
歩の雇い主が、一枚の写真と束になった書類を歩に渡す。
写真には、琴平くがねの凶悪な笑みが焼き付いていた。
都内某所、某高校にて。
「おう、ご苦労さん。駄賃だ、受け取りなァ!」
下僕から報告を受け取ったくがねは、その掌から小銭を十数枚生み出し、乱暴に投げ渡す。
欲望の金貨は世を巡る――くがねが手に入れた、埒外の異能。
身体を自在に貨幣に換え、金銭を無尽蔵に量産し、カネで万物を売買する。
ごくありふれた高校は、今やくがねの欲望の集積場と化していた。
「なんでも殴り飛ばす用心棒、ねぇ……ケッ、いかにも禁欲的なツラしてやがる」
注文したピザを行儀悪く貪りながら、対戦相手の写真を一瞥する。
そんなくがねに、意識下で呼びかける声があった。
(……ねえ、お願い。こんな、ひどいことしないで――)
『オイオイ、俺に指図すんなよ。それともお前がコイツを殴り飛ばすか?』
“琴平くがね”の良心の呵責を、
“ゴールドタワー”は一顧だにしない。
少女に、亡霊の暴虐を止める方法はない。
亜門流通センター中央倉庫。
様々な物品が所狭しと詰め込まれた、物流の拠点。
金欲の魔女と禁欲の拳士の、試合開始から一分。
早くも、青年の拳が、少女を抉り抜いていた。
歩の魔人能力“仁義理拳”は――あらゆるモノを殴り飛ばす。
琴平くがねの変貌は、覚醒直後の精神性のせいだと考えた歩は――
くがねの“欲望”に狙いを定めた。
肉体を金に変える能力があることは調査済み。
物理よりも精神に攻撃をかけるほうが有効だろう、と。
安藤歩は徹底的に琴平くがねを調査したが、ゴールドタワーの存在には辿り着いていない。
しかし“欲望”を削ぐ拳は『琴平くがね』にとって有効打となった。
肉体にさえダメージが通ってしまうほどに。
「て、めえ……!」
「今ので肉体が吹き飛ぶようなら――俺の拳に、お前は勝てない」
「ひ、ヒヒっ…… 悪いが、テメエとまともに戦う気はねえよ」
欠けた左半身から零れる金貨に構わず、くがねは後退りながら嘲笑する。
「調べたぜぇ、テメエの妹さんのコト」
くがねの言葉に、歩の表情が微かに歪む。
「勝って妹さんを救いたい、いやあ兄貴の鑑って奴だねえ?
――つまり! その妹が、いなくなっちまったら!
テメエは戦」
歩が殴り飛ばした空気の拳が、言葉を遮った。
派手な金属音と共に、くがねの上半身が金の飛沫をあげる。
「貴様。望に、何をした」
拳を振り抜いた姿勢のまま、歩が怒気と共に問う。
有効打にならぬとわかっていても、物理的に殴り飛ばしてしまう程に。
歩の頭に血が上っていく――
「……まだ何もしてねえさ。まだ、な」
飛び散った金貨が、再びくがねの身体を形作る。
「俺が負けた瞬間――病院でちょっとした医療ミスが起きるかもしれねえけどなぁ?」
「……!」
少女の形をした悪魔の言葉に、歩の拳が止まる。
「カカッ、来ないならこっちからいくぜ? 黄金飛沫!」
くがねの金貨が、騒霊現象よろしく飛び回り――歩の身体に叩き付けられる。
「ギブアップすりゃ、このカネもくれてやるぜ? ギャハハハッ!」
周囲の物品ごと、歩が次々と舞い飛ぶ金貨に嬲られる中――
歩が、己のこめかみを殴り抜く。
「あぁ? ついにプッツンしちまったかぁ?
まあいいさ、これで終わりだァ!」
くがねが嘲笑し、金貨を空中に集める。狙いは、歩の脳天!
束ねられた金貨が、一塊となって歩の頭を割る――よりも早く。
歩の拳が、飛来する金貨を一枚残らず粉砕した。
「……な」
「――もう、迷わない」
くがねを射竦める歩の瞳に、決意の光が宿る。
「俺はお前に勝って、全てを殴り飛ばす力を掴む!」
「テメエ! 妹が死んでもいいってのか!?」
「……やってみろ。そのときは、時間を殴り飛ばして巻き戻してやるさ」
憧れの原風景。
ヒーローが、恋人を救う場面を脳裏に思い浮かべながら、歩は迷わずにくがねに迫る。
「その前に、お前が吹き飛ぶがな!」
長年培ったステップワークで、くがねの懐へと潜り込む。
歩の拳は、くがねの金貨を全て砕かんと、決断的に握り締められている!
拳が加速し、くがねを捉えた――筈だった。
「……!」
拳が生んだ突風に乗って、無数の紙切れが舞い飛ぶ。
「貨幣に化ける――紙幣も、か!」
金貨を殴り飛ばし、砕く勢いで放った拳は――紙を殴り破くにはあまりに速すぎ、重すぎた。
飛び散った紙幣は天井近くまで舞い散り、遠くの荷物の陰へと集まっていく。間一髪の、緊急脱出。
「だが、同じ手は食わない」
迷いを殴り飛ばした拳士に、もはや死角は無い!
金の悪魔の逃げた先へと、真っ直ぐに向かう。
道中の遮蔽物を、全て殴り飛ばしながら――!
「ハァッ、ハァッ…… クソッ」
倉庫内のモノが、次々と殴り飛ばされる中。
辛うじて歩の追撃を逃れて隠れるくがね――ゴールドタワーが毒づく。
切り札は、ある。だが、そのカードを切るには、隙を作らねば。
対抗策を練ろうとした矢先、魂の同居人がささやく。
(ねえ……もう、やめよう)
『あぁ!? アホか!ここで退いたら五十億がパーだ!
それに、テメエにも願いがあんだろ?』
弱々しいくがねの諦めに、ゴールドタワーは苛立ちを隠せない。
(だって、あの人の願いは妹さんのため、でしょう?
わたしの願いは、わたしのためで……そんなの、だめだよ)
自分が救われたいために、他人を踏みつける。
くがねの弱音への返答は――
『バカ言うな、くがねェッ!!』
怒声だった。
『利己的なら卑しい?利他的なら美しい? んな訳あるか!
願いも欲望もコインの裏表だ、大した違いなんざねえ!
お前は! 幸せになりてえんだろうが!!
なら、自分からもう何も捨てるんじゃねえよ!!』
削られても、尚尽きず収まりきらぬ欲望を抱えた亡霊の言葉に、
ささやかすぎる欲望を捨て去ろうとした少女は、静かに頷いた。
(ごめん、なさい)
『死んだら終わりだ、何もねえ!
……前にも言ったろ?』
亡霊が、怒りを押し殺して嗤う。
それは自分に言い聞かせるようでもあった。
(……死んだら、終わり)
だが、亡霊が己を顧みる前に。少女が、ある考えに至る。
『ああ。そうか』
そして、聡く狡賢い亡霊が少女の思考にシンクロし、確信する。
『何だ、あの野郎――もう、詰んでるんじゃねえか』
少女の困惑をよそに、亡霊が会心の笑みを浮かべると同時に。
歩の殴り飛ばしたコンテナが、くがねの身体を直撃した。
「……ケッ、壊しも壊したり、勿体ないねえ」
瓦礫と化した貨物の下から金貨の群れが這い出て、再び少女に戻る。
眼前には、堅く拳を固めた歩の姿。
「隠れんぼは、終わりか」
「ああ。隠れる必要もなくなった。もうテメエは、俺の敵じゃあねえ」
だらりと腕の力を抜いた、ノーガードの姿勢から攻撃を繰り出す。
自分がされたのと同様に、精神を揺さぶる一撃を。
「妹の命より己の強さに固執した、欲望に振り回されたテメエなんかな」
「……何だと?」
歩は拳を――打たない。
先程のようにこちらを煽って、冷静さを失わせるのが狙い。
なら、一々言葉を遮るまでもない。聞き流す。
だが、歩の澄み切ったはずの精神に。
くがねの言葉は、小さな棘のように突き刺さった。
「本当に妹が大事だったら、あそこは棄権一択だろ!違うか?
『時間を殴り飛ばして巻き戻す』? ウケるウケる、漫画かよ!
ああ出来るだろうさ、テメエならその境地も夢じゃあねえよ。 けどなァ!」
自ら命を捨てようとした少女と、望みが叶わぬ無念を知る亡霊。
二人の言葉が、重なる。
「『死んだら終わりだ、何もねえ!』」
くがねの言葉の拳が、容赦なく歩に浴びせられる。
「生き返るからオッケー? テメエは妹に虚無を味わわせるつもりか!?
結局、テメエは妹なんざどうでもいいんじゃねえか!
自分が強けりゃなんでもできる、どうにかなる! その傲慢こそ、テメエの本質だ!」
「黙れ。俺は――!」
歩は、湧き出る不安、苦悩、迷いを殴り飛ばし、ここまで来た筈だった。
妹の病苦に比べれば、自分の苦難など軽い、と。
それらと一緒に、妹を想う気持ちまで殴り飛ばしたなどと――思いたくない。信じたくない。
「違わねえ! テメエが殴り飛ばしたのは迷いじゃねえ、想いだ!」
想いを殴り飛ばした拳士に、もはや資格はない。
妹を想う、資格など。
そう言わんばかりに、くがねが吐き捨てる。
想いを捨てる者を、強欲は軽蔑する。
「想いを捨てた拳なんざ、重いわけがねえ!
違うってんなら、示してみろよ。その拳でなァ!」
この戦いの本質は――欲望のぶつかり合い。
強欲だからこそ、くがねは全力を尽くす。
じゃらりじゃらり、と広げた腕から煌めきが零れる。
「テメエへの餞別だ、受け取りなァ!!
金波銀波!!」
くがねの生んだありったけの金貨が、一斉に歩へと襲いかかる!
「――俺は、」
苦悩も、憤怒も、躊躇もない。
では、心中に湧き上がる靄のような感情を、何と呼べばいいのか。
歩は、握った拳を己の胸に当てようとして――やめた。
代わりに、くがねに向けて構える。
わだかまる感情も、己の一部。ならば、それも含めて自分の想いなのだ、と
今だけは、愚直に信じることにした。
歩が、渾身のストレートを放つべく右腕を振り抜く!
迫る金貨の波に向かって放たれた、渾身の指さし確認が決まった。
「!?」
歩が異変に気付いたときには、もう遅い。
拳を固めようとするが――真っ直ぐに伸びた人差し指が、動かない!
「悪いな、“両人差し指の操作権”――買い取らせてもらった」
金波銀波はあくまで、膨大な貨幣の重量で相手を潰す技だ。
歩の懐に入ってはいない――なら、買ったのは。
「……いつだ」
「数日前の仕事代。働いた分より余計に、受け取ったよな?」
金貨を殴り返すことのできぬまま、歩が悟る。
『欲望の金貨は世を巡る』の名の通り。
裏社会にまで、既にくがねの魔手が及んでいたことを。
「ま、テメエの腕っぷしの相場からすりゃあ指の二本くらい、二百万もありゃ十分だろ?」
欲望の金貨が、拳闘士を押し潰した。
試合終了後、医療室。
負傷を治療し終えた敗者・安藤歩の元に、勝者・琴平くがねが訪れていた。
「指の操作権、返品に来たぜ。あと、もう一言ばかし余計なお世話を、な」
無言で睨み付ける歩に構わず、くがねがニヤリとほくそ笑む。
「自分の強さの方が、テメエにとって重いんなら――
妹の病気くらい、もう殴り飛ばせるだろ?」
「……俺、は」
心の奥底に閉じ込めていた、殴り飛ばしきれぬ迷い。
歩が、言葉の続きを絞り出せずにいると――
ぽふ、と少女の柔らかい拳が歩の鳩尾を叩く。
「えっと……拳を、一人で握るくらいなら。
妹さんの手を、握ってあげてください」
先程までの悪党ぶりが信じられないほどに弱々しく――優しい、拳だった。
「そう、だな。 たぶん俺は、欲張りすぎたんだろうな――」
憑き物が落ちたように、安藤歩はようやく心から笑むことができた。
無論、歩にとってこれがハッピーエンドとはいかない。
妹を救うことはできたとしても――彼はこの先ずっと悩み続けるだろう。
だが、それは歩が自力で切り開くべき道だ。
「ありがとう。妹のところへ、行ってくる」
医療室を後にする歩を見送った後、くがねは凶悪な眼光を甦らせる。
『へっ、本当に殴り飛ばすとはな』
(ありがとう、一瞬だけど返してくれて)
『……返してねえよ、貸したんだ』
『琴平くがね』は苦虫を噛み潰したような、しかしまんざらでもない表情を浮かべた。