『拝啓 亜門洸太郎様 お元気ですか? 私は元気です! 先日──』
選手控え室で便せんに筆を走らせながら、少女は激動の10年間を『思い出す』。
チベットでの修行の日々を。
MIT入学と卒業までの年月を。
南極点、北極点、グリーンランド氷床のスキー踏破の挑戦を。
まだ自分が在りし日の学園の思い出を。
無論その全てが偽物で、されどそれだけが自分の支えだ。
例え何もかもが吹けば飛ぶような幻だったとしても、この恋だけは本物だから。
「選手の方は準備をお願いします!」
係員の声で我に返り、慌てて便せんを収納する。もう行かなくては。
ウィーン…ガコン、プシューッ…
少女──幻坂風美は胸に手を当て、深呼吸した。
やれることは全てやった。ここから先の未来は、自分の手で掴み取る。
ありったけの覚悟と恋心を胸に詰めこみ、戦場への一歩を踏み出した。
ウィーン!ガシャーン!ウィーン!ガシャーン!
☆
「うおおお暑い! 今日はかき氷がよく出るぞ!」
灼熱の日差しにも負けぬ明るい声が砂丘に響く。
黄色のビキニとホットパンツを身に着けた女が、砂丘の中心で叫んでいた。
誰あろう、黒羽イトである! 今回は海の家スタイルだよ!
「ふむ…!」
抜け目ない商人の瞳が、視界の端で砂丘に似合わぬ影を捉えた。口角が上がる。
(素晴らしい取りかかりの早さだ…やる気を感じるな!)
ドルルルルッ!!ドルルルルルルッ!!
やがてそれは物騒なエンジン音を撒き散らしながら、イトへと近づいて来る!
言うまでもなく、この戦場に立っているのは二人の戦士の他になし。
すなわち影の正体は対戦相手に違いない、が…二人の距離が縮まり、その姿が鮮明になるにつれてイトの笑顔がほんの僅かに引きつった。
いかついジェットスキーを乗り回し、こちらへまっすぐ向かってくるそれは…誰がどう見てもパワードスーツ!!
誰あろう、幻坂風美である!!!ウィーンガシャーン!ウィーンガシャーン!
なるほど確かに、伏線は張ってあった。
【MIT】仕込みの知識で開発したパワードスーツ!
【チベット】修行で培った驚異的な身体能力! バランス感覚!
【スキー踏破】のもたらした、砂上でも何ら変わらぬジェットスキー操縦技術!
過去の全てが…この時のために! この女、ここまで見据えていたのか!
一方、風美も動揺していた。
(チベットの村々を襲いまわっていたあの野生の修行僧をも上回るオーラ…この人、強い!)
二人の戦士が互いを認め、己の拳に力を込める! もはや接触まで秒読み!
視線が交差し──戦闘が、始まった!
☆
「柵を乗り越えないで下さぐえーーーっ!!」
イベントスタッフの衣装にチェンジし、何かを叫びかけたイトがジェットスキーに撥ね飛ばされた!
さらに砂上に叩きつけられたバイト女に、チベット僧が追い打ちをかける!
≪hellow works≫
「朝刊です!」
再度の交差! 殺人マシーンと化したジェットスキーの突進を、新聞配達用のママチャリで相殺する! 無論ママチャリは一撃で大破!
(くっ、許せ…轟天丸!)
──大会出場にあたり、イトは破損した備品の買取契約を全職場で結んでいる。
それでも…備品の破損は本意ではない! 本来備品は友達なのだ!
10年来の相棒との別れを惜しむ間もなく、大蛇の如き挙動でジェットスキーが迫る!
≪hellow works≫
「おはようございます!」
またもやたった一度の交差で、牛乳配達用の自転車が大破!
今度は電動のちょっと高いやつだ!
(くっ、許せ…ブラックエンペラー!)
間髪入れず、三度目の交差! その時、突如イトの方からもエンジン音が鳴り響く!
「大変お待たせいたしました!」
砂を捲き上げるのはスクーターのフルスロットル! ピザ配達のアルバイト!
両者猛スピード! ジェットスキーとスクーターが正面衝突し、双方大破!
その刹那──
「チベット式巴投げ!」
パワードスーツとチベット武術の夢の競演!
イトが天高く投げ飛ばされる!
「コォォォォ…ッ!」
さらにチベット式呼吸法! 同時にスーツの背面でジェット噴射が唸り、急加速!
落下地点へ先回りし、チベット式殺人レーザーを放つべく丹田に力を込め、狙いをつける!
≪hellow works≫
「ハンコかサインお願いします!」
突如、晴天に影がさす。 中空に宅配トラックが出現し、風美めがけて自由落下!
(大丈夫…トラック程度なら受け止められる!)
ガシャン! ガシャン! ガシャン!
何らかのカートリッジが消費され、スーツが熱を帯び赤銅色に染まる。
並々ならぬエネルギーに呼応し、周囲の砂に波紋が立つ!
≪hellow works≫
瞬間、トラック消失!
目標物を失った風美にわずかな硬直が生じる!
「お荷物こちらでよろしいですか!」
隙を突き、イトの両椀が高熱を帯びたパワードスーツを掴んだ。
掌が焼け焦げ、営業スマイルが苦痛でゆがむ!
「くっ、チベット式──」
振り払おうと思ったときには、風美の視界は反転していた。
──それは、最速の積み込み術。
かつて何よりもスピードを優先した配達員が遺した魔技。
≪佐川投げ≫と呼ばれるそれは、荷台へ投げ入れた精密機械を必ず破壊する!
受け身不可のキリモミ回転を経て、風美が固い砂地へと突き刺さった。
☆
「かっ…はぁ…!」
関節があらぬ方向に曲がり、呼吸すらもままならぬ重傷。
激痛によって意識を保てたことのみが不幸中の幸いか。
だが息を整える暇もなく、前方からウェイトレス姿の女が駆けよってくる!
その手には禍々しき銀のトレイ!
バラバラになったパワードスーツから抜け出し、ふらりと立ち上がった風美は、胸の谷間から一通の手紙を取り出した。
ご存知、チベット式収納術だ! ご存知じゃない? 馬鹿な! ちゃんと冒頭で使ったもん!
(この想い──君に届け!)
ペチンッと手紙が彼女の≪手を離れ≫砂へと叩きつけられる!
「コォォォォォォ!!」
瞬く間に全身に力が漲る! 見るからに元気!
折れた骨も、切れた腱もすべてが≪なかったこと≫になった!
自らの手を離れた恋文を真実に変える、現実改変能力!
今投げ打った手紙の冒頭は「お元気ですか? 私は元気です!」。
この戦いに持ち込んだ手紙は残り5通。
回復が2通、ドーピングが1通、遠距離攻撃が1通、そしてとっておきの──
──ばしゃり!
風見の全身が濡れた。
目の前にはバケツを振りぬいたイトの姿。誰がどう見ても、清掃業のアルバイト!
呆気にとられて固まった風美は、しかしすぐに事態を飲み込み顔を青くした。
彼女の覚悟と恋心が詰まったラブレターは今、胸の谷間の中でずぶ濡れになっている。
インクがにじんで読めないそれは──もはや手紙ではない。
(…今の一瞬で…そこまで…)
──当然これは、偶然ではない。
風美の見せた不審な動作、その直後に訪れた異常回復。
詳細までは分からずとも、脅威を感じるには十分! ならば次が来る前に手を打つ!
現場では、考えるより先に動けた者のみが生き残る!
幻坂風美──準備した手紙が濡れたため、能力使用不可!
黒羽イト──衣装を変えると手紙に吸わせた水が消失するため、能力使用不可!
そう、ここからは純然たるチベットとバイトの力比べになる!
☆
「いらっしゃいませ!」「またのお越しを!」「アンケートにご協力ください!」
次々と叩き込まれるバイトの神髄! 衣装や備品に頼らずとも、その身には膨大なバイト経験が宿っている!
チベット僧は防戦一方!
(なんで…! こんな!)
「ありあとやっした!」「身分証のご提示を!」「骨なしチキンのお客様!」
(私は超人的なチベット武術の使い手で、MITの卒業生なのに…!)
嵐のような連撃を必死で捌きながら、幻坂風美は思考を巡らせる。
辛かった修行の日々を、徹夜で書いた論文を、その足で立った南極点を…いくら思い出しても、目の前の現実が超えられない!なんたる理不尽か!
「こちらセットでお得です!」
「ぐああっ!」
数発目の有効打が入った!
──それを不幸な巡り合わせといわずして何というのか。
風美が想像し、捏造した荒唐無稽な過去。リアリティのない10年間!
そのどれよりも荒唐無稽でリアリティのない10年間を、黒羽イトは経験している!
こちとら両親が仕事のし過ぎで爆発してるんだぞ!
(それ…でも!)
実力で劣っていても、この気持ちにケリをつけるまでは負けるわけにはいかない。
この恋心だけは誰にも負けない本物だ!
彼への想いが脳内を駆け巡り、恋する乙女の力に変わる!
初めて見た日、存在を意識した日、惹かれていることを自覚した日。
そしてあの日の告白事件!揃って受けた夏季補習!二人で回った文化祭!
楽しかった修学旅行!第二ボタンを貰い損ねた卒業式! …卒業式?
(──っ!)
ああ、それは──4通目の。『まだ自分が在りし日の学園の思い出』に違いなくて。
当たり前のように思い出せる偽物の学園生活が、彼女の心に当たり前の疑問を抱かせた。
たった一つの本物の恋は、自分を突き動かすこの感情は…本当に10年前のそれと変わりないのだろうか?
ふと、目の前が真っ白になった。今更過ぎるその疑問に、満足できる答えが出せない。
心の支えを見失い、一瞬体の力が抜けかける。チベット仕込みの型が崩れる。
そして敵は、その最大級の隙を見逃してくれるほど甘くはなかった。
「何かお探しですか!」
気付けば顔と顔が近い! ブティック店員特有の距離感だ!
「うわっ!?」
風美が咄嗟に放ったチベット式正拳が顔面にめり込み、イトの鼻柱を砕いた!
しかしーー軽い! イトを止めるに至らない!
密着状態からイトの放った掌打が、風美の胸へと吸い込まれていく!
両掌を重ねたそれはーー紛れもなく心臓マッサージ!
かつてライフセイバーのバイトで修めたその技を、全身全霊を込めて叩きつけた!
トゥンク!!トゥンク!!胸が張り裂けそうな衝撃が広がりーーそして実際に張り裂けた!!ハートブレイク!!
崩れ落ちる彼女を支える寄る辺は──もはや何もない。
胸からこぼれた恋心が、意識と共に乾いた砂へと吸い込まれていった。
☆
試合終了後、治療を終えた黒羽イトは人を探して会場を練り歩いていた。
決着の直前、対戦相手が見せた茫然自失といった表情が気にかかっていたのだ。
ややあって、ベンチに腰掛けている対戦相手の姿を認める。
──幻坂風美の胸中は乱れていた。
魔人能力の暴発で10年の時を超えてしまってから、頼りになるのは皮肉にもその魔人能力だけだった。だから頼った。戦うためには、それが必要だったから。だけど。
(私はどうして、あの4通目の手紙を書いたのかな…)
勿論、それが戦うために必要だと思ったからだ。
だがそれはつまり…私はあの平凡な学園生活を、彼に片思いして一喜一憂していた日々を、修正したいと願っていたのだろうか。
…違う。違うんだ。私はただ、急に遠くへ行ってしまった日常を忘れたくなかっただけなんだ。
手紙に書いて、能力を使ってでも…私の居場所は確かにそこにあったんだと証明したかったんだ。
「会いたい、な…」
浮かぶのは10年を経た辣腕社長の姿ではない…冴えない見た目の、10年前のあの姿。
「──でも…そんなの…≪できっこない≫…っ!」
「…できない、だと…?」
不意に零れたその言葉に、過剰反応する者がいた!
ふと見れば黒羽イト! 顔と顔が近い! ご存知、ブティック店員特有の距離感だ!
「本当か?本当にできないか?できないは…嘘つきの言葉なんだが!?」
「ひぅっ…!」
怖い!つい先ほど自分を絶命させた相手が、致命の距離で話しかけてくる!
震え上がる少女の肩にイトの手が乗せられ、跳び上がりかけた体を押さえつける!
無論、イトは風美の事情など知らない。何ならさっきまで優しい言葉をかけるつもりすらあった。
だが、聞き捨てならない言葉が聞こえた! 考える前に体が動く!
「うおー! で、できないのか!? 嘘だと言ってくれ! 本当はできるんだろう!?」
「うっ、うわあああっ!!?できっ、でき…っ!?」
い、命の危機! なんたる理不尽! 駆け巡る走馬灯!
脳裏に浮かぶ両親の顔! 彼の顔! チベットの師匠! MITの名誉教授! 北極にいた雪男!
なんだこいつら!なんでもありか!
…なんでもありなのでは? 雪男も頷いた!
「でき…ます!」
イトの動きが止まる!
「やっぱりな! そうだと思った!」
一転して笑顔! 怖い!
だがもはや風美は震えていない。彼女にはなんでもありの魔人能力があるのだから。
☆
後日、亜門カンパニーに一通の手紙が届いた。
『拝啓 亜門洸太郎様
お元気ですか。MITで共同開発していたタイムマシンの件ですが…