『(前略)
こんにちは、風美です。先日に続けての手紙、お許しください。
わたし達にとって一番の転機と言えば、やはり貴方が進路にMITを選んだことでしょうか。しかも学費まで全て自分で稼いでしまって。
わたしも沢山アルバイトをして追いすがりましたが、あの時期が貴方との最も忙しい時でした。一時期は目の回る忙しさに、お客様が止まって見えたほどです(笑)。
MITの暮らしは、思い返しても驚きの連続でしたね。工学に理学、経済学。触れる機会のなかった、高次元な学びの数々。とても楽しかったです。
けど亜門くんに自覚はないでしょうが、貴方のさりげない一言や行動がどれだけわたしを助けてくれたか。わたしだけだったら、勉強の苦しい一面に挫けてしまったでしょう。
貴方のようになりたい。いつか貴方に胸を張って誇れるような力を持つ自分になりたい。そう思って勉強に打ち込めた日々です。
そう考えれば、わたしは頑張った時に少しだけ、前に進む応援を貰えるような、そんなささやかな幸運に恵まれているのかもしれません。
……亜門くんはあの大学生活は楽しかったですか? 君が健やかに過ごしている姿を見るだけで、わたしも元気が湧いてきます。今も変わりなければ幸いです。
それでは。
2018年7月9日 幻坂風美』
「……暑い」
鳥取大砂丘。
視界一面に広がる砂、日本最大規模の砂漠地帯を、一人の少女が歩いている。
夏物ジャージに、身長よりも長い棍。その棍で定期的に地面を突きながら、砂丘の西から東に向かって進んでいる。
幻坂風美である。
その余りに自然な所作は、ともすれば昼下がりの散歩にすら見えるが、無論違う。
索敵である。
トーン、トーン、と。
練り上げた気を棍の先から地面に撃ち込み、拡散する気の流れから、ソナーのように周囲の地形と生物を探っている。
既に風美は自分が転送された試合場の西端から、この調子で敵の位置を探し続けていた。
黒羽イト。
幻坂風美の一回戦の相手である。
予選後に多少ではあるが彼女の戦いぶりを知った風美は、勝算が極めて低いことを悟っていた。
予選でも一、二を争う、異彩の戦闘能力。チベット武術マスタークラスの腕をもってしても、おそらくその差を埋めることはできないだろう。
しかし諦めるわけにもいかない。
戦うと決めたのだ。勝っても負けても全力を尽くすと。
作戦がある。その為の『手紙』であり、この索敵だ。探しているのはイトだけではないのだが――。
「でも……」
おかしくない?
そこまで来て風美は感じた。既に捜索範囲は会場の半分以上に達している。一突きで100mはくだらない範囲をカバーできる『気』だ。人体の大きさが地表を動けば、すぐに判る。探し物も、今ちょうどいい反応があった。後はここにイトを誘い出し――。
そのイトである。ここまで探り続けて、彼女の方は全く、何も反応がないのだ。
罠を張っての『待ち』だろうか? 相手の策も判らないのに? それだけ自信があるのか――。
その時、風美のやや前方の砂に染みが現れた。
彼女がそれに気づいたのは、MITで修めた自然科学の賜物だろう。水滴である。地面からしみ出したものではない。上から降ってきたのだ。
同時、上空からの丸い影が風美を捉えた。
弾かれたように頭上を仰ぎ見た風美の眼に、信じ難い物が写る。
船である。
全長18.5m、幅4m、総排水量10t。
最寄りの網代港を拠点とする遊漁船、爆釣丸。
空に浮かぶには余りに不似合いなその『船』が、船首から地面に激突した。
鳥取大砂丘。
海岸線に面しながらも、そのまま内陸にまで向かって大きく広がる砂漠地帯を眼下に捉え、黒羽イトはハンググライダーの手を離した。
彼女が「おねがいします!」と始業の挨拶をし、飛び発ってから数十分。
見つけた! 運がいい。もっと掛かると思っていたが、こうも早々に見つかるとは。これも観測バイトで鍛えた忍耐力のお陰だ!
鳥取砂丘はその柔らかい砂地を利用し、スカイスポーツの場としても親しまれている。
当然、黒羽イトもバイトとして門戸を叩いている。
ヘルメットにトレッキングウェア、スカイスポーツインストラクターのスタイル!
その服装がすぐさま解かれ、次のユニフォームが現れる。
青のサロペットに漁師ガッパ。釣り船バイトのスタイル!
海に面した砂丘として、砂漠地帯であると同時に一部ビーチとしての面も併せ持つ鳥取砂丘。その名物が一つ……イカ釣り漁! 周囲の漁港には釣り船屋が居を構え、気軽に利用が可能となっている。
当然、黒羽イトもバイトとして門戸を叩いている! その備品たる漁船だ!
「おはよう! ございまーす!」
元気のいい挨拶と共に爆釣丸が地面へ墜落、真っ二つに裂ける!
半ば以上砂中に埋まった船体の片割れに立つ黒羽イト。無傷!
「船上で走るのはご遠慮ください!」
振り向く! 立ち込める砂塵の中、不意を打って現れた棍を折れた手すりで受けた。
「――ひゅっ!」
風美だ。死角からの一撃を当然のように防がれた形だが、そのまま呼吸を練り上げ、二段三段と棍を繰り出す。チベット武術、侠家槍!
「ぬううっ!」
押し込まれるイト。まずい。船上は漁師の舞台とは言え、そこは破壊され最早船とは呼べない足場。相手の熟達ぶりを見るまでもなく不利。加えて――。
「わ。知ってはいたけどわたしも初めて遭ったよ。こうなるんだね……」
風美だ。口調こそ呑気だが、その声色にはイトが抱くもの同様の焦りがある。
爆釣丸が傾き、沈み始めていた。船だけではない。地面そのものが傾き、一定方向へ流れているのだ。
(流砂か!)
砂漠では度々ある、部分的な崩落現象だ。脆くなった地盤に急激な圧力が加わることにより起こる。
皮肉にも爆釣丸の落下というイトの手により、引き起こされてしまったと言うべきか。だが。
「……いいぞ! ピンチはチャンス! ミスの挽回こそがバイトの真髄だ!」
イトが嗤う!
「っ!? う、わ!」
爆釣丸が消失した。
空中で体勢を崩した風美を、更にイトの蹴りが襲う。既に職種変更を終えている。そも漁師の相手は魚! 人に対する職種ではない! ならば!
弾き飛ばされた風美が見たのは、赤と黄のセパレート水着に同じカラーのキャップ。そしてその手に現れたセービングボードを砂上に浮かべ、器用に直立しているイト。
流砂を切り裂き、ボードが駆ける。
ライフセーバーのスタイル! 時に大時化の如く荒れ狂う鳥取大砂丘にとって、ライフセーバーの活躍は海上に留まらない!
怒涛のスピードに対し、流砂に足を取られた風美は反応が一瞬遅れた。
「やるべき仕事は! 思い立った内に!」
超人じみた集中力にイトの瞳孔が細まり、風美の動きが止まった。いや、止まって『見える』。
そう、黒羽イトにとって相手は、否、目の前の人間全てが、畢竟バイトの客だ。
この全てが静止した世界こそ、彼女が神に愛されたアルバイターの証!
異変を察した風美は懐へ手を伸ばし――。
「力を抜いて! 楽になさってくださーい!」
間に合わぬ! 閃烈のスピードで繰り出されたイトの変形合掌――ライフセーバーの基本にして骨子"心肺蘇生”、その第一技法『心臓マッサージ』が風美の胸を直撃した。
「げ、ふっ――」
風美の体が引っこ抜かれるように吹き飛ばされ、砂上を跳ねた。未だ勢い衰えぬ流砂に、少女が沈み始める。
「……ふう」
一仕事終了か。
横たわった風美は、既に胸元まで沈んでいる。勝負あったと見ていいだろう。アルバイトとして最後の挨拶だ。相手が沈み切ってしまっては意味がない。
退勤時も誠意を込めて。バイトの基本だ。大きな声で、元気よく!
「お疲れさまで」
「……待って」
最後の礼が止まった。
「よかったぁ気がつけて……負けた後じゃ遅いもんね……」
絞り出す声で、伏した風美が言った。懐から出した手には、一枚の紙が握られている。
「わたしもね、昔バイトでちょっとだけお客さんが止まって見えたことがあったんだ……手紙に書いたのはほんの冗談だったんだけど、ラッキーだね……少しだけ"ズラせた”……」
確かにそれは幸運だったのだろう。
――わたしは頑張った時に少しだけ――そんなささやかな幸運に――。
だが息も絶え絶えに微笑む風美と対照的に、イトに衝撃が走った。
客の止まった世界に入門! 私以外にもこの世界が見える者がいたのか!?
対する風美は紙を掲げたまま、言葉を続ける。
それはMIT工科大学卒の肩書も眩しい、名刺であった。
「……株式会社『幻』代表として提案します。『私と一緒に働いてみませんか?』」
「!!」
イトの動きが止まった。
理由は明白である。
彼女がアルバイターだからだ。
(こ、これは……スカウト!?)
そう、アルバイターだからである! たとえ真剣勝負の場であろうと、一企業の人間が仕事を持ちかけて来たら、まず条件を聞いてしまう!
天性のアルバイター故に背負ってしまった悲しき業であり、譲れぬ誇りであった。
――こちらは新しい仕事も軌道に乗り、経済的にも安定してきました――。
――経済学。見たことも聞いたこともなかった高次元な学びの――。
そして風美は参加者であると同時にMITで経済学を学び、近年事業を起こした才媛……そんな彼女が、直々にバイトの誘いをかけて来た。
これは試合を忘れ耳を傾けてしまうのも道理だろう。
いや、だが!
「ふ、ふんだ! 魅力的な条件を提示してくれそうだがな! 生憎私はこの大会という『バイト』に来ているんだ! 時間稼ぎには乗らないぞ!」
「……はは……ばれちゃった? さすがぁ……」
突っぱねたイトに、風美が力なく笑って応える。
「そうだよ、時間稼ぎ」
瞬間、大地が揺れた。
「ッ! 地震!?」
否!
「探してたのはこの地盤だったんだ……後はイトさんを何とかして呼び込む……そして崩れかかった今なら……時間を掛ければ、ボロボロのわたしでも……っ!」
風美だ。そう、時間稼ぎであった。
鳥取大砂丘が広大な砂漠なら、どこかに流砂を起こす弱い地盤もある筈。MITで自然科学を学んだ風美はよく知っていた。それを利用すれば、格上のイト相手に勝算が生まれえることも。
しかし、そこで心臓へ一撃をもらってしまった。
呼吸と血流を司る臓器の不調。この状態で一度に大地を通す気を練るのは、功夫のみでは難しい。だが……MITで学んだ高度医学で補えば!?
故に時間を稼いだ。少しづつ、勁を撃つ。点滴が体にしみ込むように……少しづつ!
イトが風美へと跳んだ! だが横たわる風美の掌は、既に大地に接している! 今度はイトが間に合わぬ!
MIT医学×自然科学×チベット武術寸勁×浸透勁!!
最新の科学と、深奥の秘拳の融合。砂丘を揺らす音が轟音と化す。
ついに地盤は限界を超え、上層の砂諸共周囲を崩落させた!
「うおおおおっ!?」
落下!
一気に数mほど落ち窪んだ大地に、大量の砂が流入する。このままでは数秒と持たず二人共生き埋めである!
イトの姿が変わる。
ツナギにメット、備品のブルドーザー! 土木バイトのスタイル!
これで脱出する。そして相手の脱出も封じる。それで勝ちだ。勝ってnew super swichに近づく! 『できない』は嘘つきの言葉!
駆け出すイトの前に立つ影があった。風美だ。チベット武術侠家拳の構え。
目の前の相手は、脱出など考えていなかった。
(――しまった!)
イトは己の失着を悟る。土木バイトは、人と相対する仕事ではない!
すぐさま姿を反転させる。ライフセーバーのスタイル! だが一瞬遅い!
心臓マッサージと、MIT人間工学に基づいた最速の侠家拳。
紙一重の差、風美の突きがイトの胸に突き刺さった。
その瞬間、二人の視線が交差した。
瞳で語ったその言葉は、極限下の錯覚か、それとも。
(この状況で、心中覚悟で向かって来たのか)
(……ううん、イトさんなら何とか出来ると思ったから。出来るなら、やるよ。そこに賭けたの)
(私の出来ることと、やることを信じたのか? ふふっ、何だそれは)
(信じるよ。だってわたしは、わたしのなりたい姿は……)
(そうか。お前は私と同じ『労働者の見る世界』にいたと思ったが、違ったんだな)
(えっ)
(そうだったな。お前が見てた世界、それは――)
「『経営者目線』、か」
医務室の天井を仰ぎながら、イトは笑った。
何だ、最初から自分とは対照的な相手だったんじゃないか。
しかし悪くない。何せ経営者が労働者を『信じる』と言ったのだ。胸がすく。
ごめんなマキ。swichはもう少し待っててくれ。でも必ず手にいれるから。
『できない』は嘘つきの言葉だ。