澄み渡った青い空。
降り注ぐ太陽光は足元の氷で跳ね返り、白い地面を輝かせる。
ここに土はない。石もない。あるのは美しい白氷の大地のみ。
非日常の景色に、少女――宝条綾果は思わず声を漏らした。
「まあ」
良家の令嬢といえど、日常ではなかなか見られない景色というものもある。
これもその一つだ。
深呼吸をひとつする。刺すように冷たい空気が肺いっぱいに染みわたる。
この氷海は見た目のエレガントさ、そして冷たい緊張感を兼ね備えた戦場だ。申し分ない。
綾果は目を細め、遠く直線上の人影を見つめた。
あれが、今日のお相手。
さて、今回はどのように踊ろうか。考えるだけでも胸がときめく。綾果は常にときめきを忘れない。
なぜなら――
少女は、改めて口にした。彼女の決意を。己が何者であるかを。
「私は……"恋する乙女"です」
それは「最強」を意味する言葉だ。
◆
「セイッ」
「セイッ」
「ハアッ」
「ハアッ」
「I'ts a show time!」
「I'ts a show time!」
道場に、気合の入ったかけ声が響く。トランプ道を教えている道場である。
畳の敷き詰められた稽古場では、多くの門下生が投擲の型を繰り返している。
壁の掛け軸には、毛筆で描かれた「タネも仕掛けも御座いません」の文字。
さらに、BGMとして「オリーブの首飾り」が何度もループしていた。
「よし。型、やめ! 二人一組になって、対面稽古、始め!」
「ハイッ!」
号令に合わせて、門下生たちは二人ずつ向かい合い、その場に正座してババ抜きを始めた。
それを指導者は腕組みして眺め、「うむ」と見守る。
彼の名は、渡辺"KING"正孝。この道場の師範代を務めている。
風格ある男は道場を練り歩き、門下生に教えを説く。
「いいか。トランプは『最強の武器ではない』」
「最強ではないが、それゆえに最優なのだ」
「トランプは金属探知にかかる事もない。人を狙撃しても銃声がする事はない」
「何より、美しい。心が磨かれる」
渡辺が語るのは、トランプ道の一般的な教えだ。
それだけに……彼はこれを語る時、かつてここで学んだ十三川遊子の事を思い出してしまう。
あの異端児の事を。
親のぬくもりすら知らぬあの子は、以前ここで育ったのだ。
「そろそろ試合か……無茶をやらないといいが」
彼が遠い試合場に思いを馳せる頃。まさに、戦いは始まろうとしていた。
◆
「よし」
見渡す限りの氷原に転送された事を確認し、遊子はトランプを取り出す。
戦いの幕は開いたのだ。視線の先に、対戦相手である宝条綾果の姿も見える。
前方を見据える。一度目が合った、気がした。
綾果が軽くウインクする。遊子が薄く微笑む。
「さあ――試合を」
「試合を」
「「始めましょう」」
瞬間、綾果が地を蹴った。
早速、動いたか。遊子はその動きを目で追いつつ、五枚のカードを空中に並べる。
スペードの5、6。ダイヤ7。クラブ8、9。
「――ストレート」
空中で一度、ピタリと止まったカードは即座に加速し、直線的に綾果を襲う!
相当な速度である。かわせるモノではない。
挨拶代わりだが、決められるならこのまま決めてしまおう。そういう一撃だ。
トランプが綾果に迫る。五枚のカードは無慈悲にも少女の顔面に突き刺さ、
――らない。
綾果の姿が消える。
「えっ?」
遊子が己の目を疑う。だがそれは事実だった。
では、どこへ? 左右を見渡す。姿が見えない。
直後。遊子の耳に、ぞくりとするような声が響いた。
「――だぁーれ、だ♪」
「わひゃあ!?」
間抜けな声を出して遊子がビクリ、と反応する。同時、視界が真っ暗になる。
声の主は、背後。
一瞬にしてそこへ出現した綾果が、両手で遊子の目を隠し、囁いたのだ。
デートの幕開けといえば、これだ。
そのためなら、相手の背後に瞬間移動する事だってできる。
綾果の「デート・オア・アライブ」ならば!
「な……なんだコレぇ!?」
遊子は顔を真っ赤にして綾果を振り払おうとする。
「あら、可愛らしい」
余裕ある反応で、綾果は遊子の腕をかわす。そして右腕を構えた。
そのまま相手の背中に鋭い掌底を打つ。
遊子はなんとか、その攻撃をかわした。格闘の心得くらいはある。
ドキドキと脈打つ鼓動を抑えながら、遊子は一度距離を取った。
「あ、あっぶなぁ」
「ふふ。気に入って頂けたかしら」
「くっそぉ。負けないからな」
再び、空中にカードを並べる。
ハートの2、3。クラブの4、5、6。ストレート!
「……同じことです」
だが、またしても綾果の姿が消える。どこへ? 遊子の視界にはいない。
答えは簡単。また、背後だった。
「お飲み物でもいかがでしょう?」
「ひゃっ!?」
悪戯っぽい声とともに、缶ジュースを頬に押し当てられる。
遊子は再度、情けない悲鳴をあげながらその場を逃れる。距離をとり、角度を変える。
そして、三度目の正直。カードを空中に並べる。
ダイヤの8、9、10、J、Q。
「今度は――同じじゃないぞ!」
並べたカードは一気に加速しながら……まばゆく光った! 閃光が綾果の視界を白く染める。
光で目潰ししながらの直線攻撃、ストレートフラッシュ!
三度同じと見せかけての、変則手。相手の裏をかく攻め手。
相手の心を惑わし、利用する。これがトランプ使いだ。
飛来するトランプは、今度こそ綾果の体に突き刺さっ――
て、いない。
綾果の姿がない。
「――だぁーれ、だ♪」
再び、あの声がした。
「確かに今、私は目が見えません。しかし、それは関係ないのです」
背後から、遊子の耳に顔を寄せ。綾果は甘い声で伝える。
そう。関係ないのだ。シチュエーションという「結果」を得るのが綾果の能力。
自身の目が見えてなかろうと、確実に「相手の後ろから目隠しをする」ことができる。
「こうして貴女の目も隠してしまえば……あは、これで同じかしら」
「く……そぉ!」
遊子は苦し紛れに、後ろに向けてトランプを投げた。
綾果はくるりと身を翻してこれをかわし、体を反転させて遊子の正面へ。
まるでダンスのような動きだ。国内トップのお嬢様は、もちろん舞踏も堪能である。
「お顔を、よく見せてくださる?」
「う……うわっ」
そっと、綾果の手が遊子の頬に触れた。遊子が慌てる。ずっとペースを狂わされっぱなしだ。
「調子が悪いのかしら。お熱でも測りましょうか?」
綾果は額を寄せ、コツンとおでこを突き合わせる。まるで、恋人同士がそうするように。
遊子がますます頬を朱に染める。が。
その直後。
ゴッ。
衝撃とともに、綾果は、遊子の額を押しのけた。頭突きのような形だ。
当然である。なぜなら宝条綾果はここに、デートをしに来ているとともに……
この戦いに、勝ちにきているのだから。
「いっ……たァ!?」
「あら。ごめんなさいね」
綾果はクスリと笑い、油断なく前を見た。優位でも、隙をさらす真似はしない。
しかし……。同時に、綾果は考える。彼女は疑問に思っていた。明らかにおかしい。
なぜ、十三川遊子はここまで弱いのだ?
傭兵派遣会社「日常」が誇るトップエージェント。
少女ゆえのメンタルの不安定さが指摘される事はあるが、戦闘能力は折り紙つき。
綾果も常に自分を磨いてはいるが、それでも苦戦を覚悟していた。
それがなぜ、こんなにも……上手くいっているのか。
綾果がそのように訝しんでいる頃。
遊子は。
――全く同じ事を思っていた!
(私……いったいどうしちゃったんだ???)
◆
「――やはりな」
テレビ中継を見ながら、渡辺"KING"正孝は仁王立ちし、ひとりごちた。
どうやら遊子の弱さが出てしまっているようだ。
渡辺は遊子の直接の師匠ではないが、兄貴分のような存在だと自負している。
その彼だからこそわかる。
遊子は、母のぬくもりを知らない。
親の愛を知らず、この道場で育ち、さらには生活のために傭兵稼業にも手を出している。
彼女を抱きしめてやれる女性は、残念ながらこれまで存在しなかった。遊子には母も姉もなかった。女友達すらいなかった。そんな遊子が。
背後から密着され、目かくしで遊ばれ、頬に手を当てられ、おでこをくっつけられる!
だから遊子は混乱しているのだろう。
彼女の人生に、冷たい戦場に存在しなかったぬくもりを、温かさを。
よりによってトーナメントの対戦相手がぶつけてくるなんて!
宝条綾果は、あの美麗で柔和なお嬢様は――遊子にとって初めての女性なのだ。
「これは……負けても責められまい」
渡辺は目を伏せ、テレビから目を離した。
彼は道場の門下生たちに向き直ると、次の稽古の指示を飛ばした。
「次! 各自ソリティア百本……始め!!」
◆
「うぅ、ちくしょう……当たらない」
トランプを投げる。だが、目が曇る。狙いがさだまらず、何度攻撃しても回避される。
避けられても、トランプは足元の氷を割る事はない。
この氷海ステージの戦闘領域は「氷上」とだけ定義されている。つまり氷が割れれば、落下してエリアオーバー。敗北の危険があるという事だ。
そういう意味でトランプは破壊力が低く、優秀な武器と言えた。
遊子の混乱はおさまらない。
おでこをくっつけた時の体温が、甘い声が、髪の良い匂いが忘れられない。
落ちたトランプを拾って攻撃に使おうとしゃがむ。
だがその瞬間、綾果はすでに真横にいる。
「「……あっ」」
氷上のトランプに伸ばした、二人の手が重なる。これもまた、出会いのシチュエーション!
宝条綾果の最も怖いのは、この「接近」だ。どこからでも確実に距離を詰めてくる。
バシ、と綾果のビンタが遊子の頬に入った。
「ふふ、落とし物にはお気をつけて」
綾果は「勝てるのならこのまま勝ちきる」と決めていた。容赦なく攻撃するのみだ。
「くっ、そぉ」
遊子はどうしても攻めきれなかった。相手が回避に長けているのもあるが、そもそも攻撃に身が入らなかった。この相手を傷つけてやろう、という気にならなかったのだ。
だが。それでも、遊子は戦いをやめなかった。なぜか?
綾果を傷つけられないのと同じくらい、彼女を支配する思考があった。それは。
「そろそろ、諦めてみては? これ以上貴女を痛めつけるのは本意ではありません」
「それは……いやだ」
「なぜ?」
「トランプは……最強だからだ!」
遊子は言い切った。それが。それだけが、彼女を戦わせる理由だった。
(私は、なぜかこの子を傷つけられない。ならば)
(傷つけずに、勝つ!)
彼女には、一つだけその手段があった。自らが敗北するリスクもあるが、やるしかないだろう。
遊子はトランプを空中に並べた。5枚のカード。本日何度も放ったストレート。
「いっ……けぇ!」
カードは超スピードで直進した。やはり速い。だが。
当然、綾果はそれをかわす事ができる。
「もう、同じことですのに」
「――だぁーれ、だ♪」
そして、あの声がする。
それが合図だった。
「今、だ」
遊子は後ろ手に、1枚のカードを隠し持っていた。
それを背後の、氷の床に、放つ。
そのカードは、スペードのエース。
遊子のトランプで唯一、鉄の切れ味を持つ「剣」のカード。
彼女の「剣」は氷を砕いた。遊子の背後に立っていた――綾果の足元の氷を!
「えっ」
さしもの綾果も余裕を失い、声を漏らすのがせいいっぱいだった。足場が崩落する。氷の裂け目に、落ちる――!
二人の距離は近い。遊子も巻き込まれて落ちてくる。だが、氷の下の海水に触れるのは、綾果が先だ。
綾果は敗北を悟って目を伏せた。
「どうやら私、はしゃぎすぎたようね」
油断があったのだろう。あまりに初々しくリアクションする遊子を相手に目隠しするのを、楽しんでいた。それは……否定できなかった。
「楽しいデートでしたわ」
◆
「あ……」
「気が付いた?」
冷たい海面に投げ出され、気を失っていたのだろうか。
目を覚ました綾果は、遊子に抱きかかえられているのに気が付いた。
「なんでだろうね。必死で、助けちゃったよ」
遊子はそう言って笑った。
綾果も微笑みを返した。見事だった。海に落ちた彼女を助ける……。
まるで、少女漫画ではないか。
「なんかさ。君を見ると……うう。ドキッとして攻められなかった」
「わかっていましたわ」
会話する二人の背後には、美しい花がいくつも咲き始めていた。
この氷海で花が咲くだろうか? 咲くのである。綾果の能力をもってすれば。
「貴女、きっと強くなりますわ」
「?」
綾果は優しい声で言った。彼女にはひとつの真実が見えていた。
意味がわからず首をかしげる遊子に、綾果は伝えた。彼女なりの、最大限の応援の言葉を。
「だって貴女――恋する乙女の顔をしていますもの」