雲門因に僧問ふ、如何なるが是れ佛。門云く、乾屎橛
(「無関門」第二十一則)
『――お前が……出海九相になれ。』
『受け取ってくれ、我が一族の当主……出海九相』
――少年は、こうして、最強を託された。
斬撃を掻い潜り、少女の蹴りが青年の脇腹を掠める。
その瞬間、黒衣の剣士――出海九相の記憶に、異物が混じった。
それは、九相とよく似た境遇の少女の過去だった。
身近な大人から、最強を託された子ども。
だからこそ一瞬、九相は自分の過去に、流れ込んできた記憶を重ねた。
右の大刀、左の小刀を振るい、九相は少女と距離をとる。
他人の記憶と、己の過去を切り分けるように。
煮えたぎる溶岩だまりが点在する極限の地で、二人の魔人は改めて向き合った。
黒の和装に身を包む青年。二刀流の剣客、出海九相。
袴姿の上にジャージを羽織る少女。無手の武闘家、市毛ひとみ。
「剣にて敵を解する境地に至った、というわけではないか」
「ご、ごめんなさい。力、制御できなくて」
「戦の中で過去を共有する力か」
少女の答えに、九相は口元を緩めた。
魔人戦闘において、異能の内容が不明であることは大きな利点だ。
それを、市毛ひとみはためらいなく捨てたのである。
駆け引きなどあったものではない。
しかし、真正面からの戦いを望む九相にとっては、好ましい相手ということだ。
「詫びは不要。闘を句とし、戦を対話たらしめん。世界を捻じ曲げるほどの念なら、誰がそれを笑えよう」
九相は靴を脱ぐと、素足で焼ける地面を踏みしめた。
兄より賜りし糞刃『雲』を天に、赤刀『血』を地に構える。
少女と青年の間は一足一刀よりはるかに遠く、両者の間には溶岩の流れがある。
しかし、青年は地を踏みしめたまま、二刀を振るった。
素振り?
否。『雲』『血』の二刃は鞭めいてしなり、長く伸びて少女を襲う。
九相の魔人能力『BENKISH』は、触れたものの強度、硬度を操作する能力。
この力なら、刃の鋭さをそのままに、長さや形を変えることなど造作もない。
しかし、その不意打ちで不覚を取らぬからこそ、拳の達人。
市毛ひとみは鞭刃二閃を身を屈めて避けると、駆けた。
リーチの長さは戦の有利。
しかし、長すぎる武器は懐に隙が生じる。
溶岩の川を飛び越え、なおも少女の体軸は揺るがない。
「――統一躯」
丹田により練られ、全身に行き渡った言霊が、少女の体躯を完全に統御している。
不意の二刃を避けたのも、この身体制御によるものだ。
少女の拳が青年を襲う。
紙一重の回避。
相手に反撃の隙をあたえまいと拳を引こうとしたひとみは、違和感を覚えた。
拳に巻き付く、出海九相の和装の裾。
それが、あまりにも柔らかく伸びすぎている。
まるでつきたての餅。ふりほどけない。
この拘束も、出海九相の魔人能力『BENKISH』の応用。
回避とともに服に能力を行使、敵の拳に巻き付けて封じたのである。
「っ……!」
地面を踏みしめ、少女が力づくで拳を引き抜こうとした、その瞬間。
大地が、豆腐のように崩れた。
脚に込めた力が行き場を失い、ひとみは体勢を崩す。
『BENKISH』の連続発動。
だが、手に握る刀、身にまとう服と違い、出海九相はいつ、地面に触れた?
少女の疑問は、青年の足元を見て解決した。
素足。
彼は足の裏で触れることで能力を発動していたのだ。
このままでは、ひとみは飛び越えたばかりの溶岩流の中に転がり落ちる。
「浮来……っ」
間一髪、和派英語により強化された脚力が、少女の身を宙に浮かせ、溶岩流を跳び越える。
そこを襲う鞭刃連撃。『雲』『血』『雲』『血』!
身を捻って着地するも、腕を、脚を、浅く刃が掠めた。
「出海さんは、自分の意志で、武を継いだのですね。少し、羨ましいです」
「俺の過去も……対話なら当然か」
九相は彼我の力量を分析する。
膂力は九相が上。技の冴えは同等。体捌きは少女に分。
本来なら互角の戦いを青年が制しているのは、心のあり方によるものだ。
少女には闘気が乏しい。
体が闘争のアクセルを踏むのと同時に、精神がブレーキをかけている。
最強たれと継承された武を、九相は心から肯定し、少女は心の中で恐れている。
このまま戦えば、出海九相が勝利するだろう。
だが、九相はそれを物足りなく感じた。
彼が求めているのは、最強の称号ではなく、最強の自分であり、
勝利ではなく、「死闘の果てに至るさらなる高み」であるのだから。
「市毛殿よ。俺は優勝に興味はない」
「え?」
「金は力だ。あれば救えるものも増える。だから不要とは言わないが……自ら積み上げた技と比べれば、たやすく奪われ、失われるものだろう。
俺は強欲だからな。手元に残りやすい武が好きだ。だから俺は、全てを出し尽くす戦いをしたい。その先に、新たな武の境地があると信じるゆえな」
突然語りだした九相に、ひとみは目を白黒とさせている。
年相応の精神。身に刻まれた武。いびつな純粋さであった。
そこを、九相は突いた。
「つまり、目の前の強者が全力を出さぬのは、我慢ならん。
後生だ。俺では市毛殿の全力には見合わぬかもしれぬが、それでも、音に聞こえし『一撃必倒斎』の力、見せてはもらえぬか?」
「そ、そんなつもりは……」
少女は、あまりにも優しい。
ならば、怒りでなく、その心根に働きかけて全力を出させる。
相手を打倒するためでなく、乞われたからという言い訳を彼女に与える。
「そ、そうです、よね。拳でわかりあおうとしてるのに。怖がっちゃ、ダメですよね」
果たして、市毛ひとみは、小さく頷き、息をついた。
『独り……一人……吾、唯孤人』
少女は、暗示の言葉を口ずさむ。
言い聞かせるように。
すがるように。
恨むように。
三度、ヒトリと口にしたところで、少女の様子が「化けた」。
姿はそのまま、呪いの市松人形めいて陰を帯びる。
肌の白さが死を装い、瞳の黒さが死を寿ぐ。
控えめな闘気が変わり果てた、刺すような殺気。
『吾、必倒――』
その一言が、出海九相の認識全てを変容させた。
視線が死線に。
音声が怨声に。
言葉が事刃に。
脚が、腕が、手が、指が、首が、肺が、動かない。
己は、ここでこの少女に必ず倒される。
そんな確信が、少女の言葉を通じて、九相を縛っていた。
出海九相は、理解する。
和語と英語。多重含意暗示による自己強化、標的の身体機能の束縛。
これぞ、和派英語流衆、一撃必倒斎の奥義であると。
本来、達人同士の正面からの死合いにおいて、一撃必倒などありえない。
虚を突くことに終始すれば威が足らず、威に専ずれば当に至らぬ。
故に、『一撃必倒斎』など、大仰な名だと考えていた。
しかし、確かにこれであれば、一撃必倒は成立する。
丹田で練り上げられた氷の如き殺意でもって、今、市毛ひとみ――一撃必倒斎の和派英語は、九相の心身を束縛し、硬直させていた。
暗殺者は、動きを止めた獲物を前に、渾身の一撃のため、無感情な殺意を練り上げている。
動かねば。
出海九相は自問する。
どうやって。
出海九相は自答する。
決まっている。
出海九相は魔人である。
その力は「触れたものを柔らかくする」。
和派英語の暗示は、九相の心を縛っている。
ならば。今ここに強張った精神をこそ、ほぐせばよいだけのこと。
形がない? 知ったことか。
触れられない? 知ったことか。
試したことがない? 知ったことか。
「――ウンコ ブリリ ブリリ ソワカ」
痺れた肺と喉とを震わせ、出海九相は声を絞り出す。
「――オン ボロン ウンコ ハッタ」
其は、清浄・満願・放出を意味する真言。
奇しくも、彼の兄、先代出海九相こと出海阿光が、糞刃『雲』を鍛えたときに口にしたのと、全く同じ言霊であった。
九相の魔人能力は触れたものに発動する。
なれば、この身は元より己の心に触れ続けている。
糞刃『雲』。赤刀『血』。そして、家伝の真言。九相の名。
全てが、出海九相と兄とを繋ぎ、彼に世界を捻じ伏せる力を与える。
音にならぬ破裂音を幻聴する。
死を確定する和派英語を、運呼の真言が清め浄化する。
魔人能力『BENKISH』が、九相の金縛りを解くのと同時。
限界まで殺気を研ぎ澄まし、一撃必倒斎が動いた。
『――吾、斬』
唇をかみしめた青年の胸に、技鋭く、少女の手刀が突き立てられる。
辛うじて動いた体で致命傷は避けた。
が、一撃必倒の名に相応しいその突きはあばらを折り、臓腑を穿つ。
それでも、九相は耐えた。
幼き日、同じ箇所に打たれた兄の拳と比べれば、熱は比べるべくもなかった。
無表情に青年の体に手をめりこませながら、少女は涙を流していた。
傷口を通じ、少女の魔人能力『闘句鳴歌』が彼女の人となりを青年へと伝える。
今の市毛ひとみにとっての全力とは、一撃必倒斎としての殺しの業だった。
一度発動すれば対象を殺すまで解放されぬ自己暗示『吾必倒・吾斬』。
十年以上かけて刻まれ続けた、キーワードで発動する後催眠暗示。
対象の命と、彼女の心を共に殺す、四百余年の妄念の結晶。
それを振るうことで、彼女の心は傷ついていた。
彼女は殺したいのではない。戦い、理解しあいたいのだから。
心中で九相は詫び、そして感謝した。
断ることもできたはずだ。
それでも、少女は、九相の望む「全てを出し尽くす戦い」のため、一撃必倒斎としての技を繰り出した。
おそらくは、九相の過去を能力で垣間見て、その望みに根差すもの……兄との誓いを知ったからこそ、市毛ひとみは九相の申し出を無視できなかったのだろう。
継承者としての立場は相似。継承者としての精神は対極。
だからこそ、二人の魔人は互いに無関心ではいられない。
ならば、その想いは無駄にできまい。
出海九相には、この力に応える義務がある。
胸に突き立てられた拳を骨と筋とで絡めとり、九相は刀を構えた。
先代、出海九相は、己が糞刃をもって刀との合一を目指した。
彼は知っていただろうか。
南宋の禅書『無関門』曰く、名僧雲門が仏に等しいと断じたもの、乾屎橛。
それは「乾いた棒状の糞」の意であることを。
自分と鏡写しのような少女との共鳴。生の実感。
暗示による疑似的な生命活動の停止。死の実感。
己が魔人能力により心に無尽の柔を得た青年は、圧縮された生死を越え、糞刃――乾屎橛――即ち、仏に合一する無碍の境地へ至り、新たな技を見出した。
変わり八相――九相の構え。
武の八相に仏の一相、もってこの身を九相と為す。
奥義、開眼。名付けて、
「仁王剣――九相・乾屎橛」
かくて糞刃『雲』が閃く。赤刀『血』が輝く。
出海九相の修練の果て、極めた武理は、ここに一つの仏利へ至る。
その一振りは肉を斬らず。骨を断たず。
ただ、少女の魂を縛る、和派英語流衆四百余年、その空疎たる迷妄を裂く――。
――斬。
一瞬の交錯の果て。
そこには、胸を穿たれて倒れ伏す青年と、それを見下ろす少女の姿があった。
傍から見れば、青年が最後の一閃を仕損じたように見えたろう。
少女は無傷だったからだ。
故に審判は、市毛ひとみの勝利を告げる。
しかし、当事者二人は理解していた。
技をもって相手を制したのがどちらであるかを。
出海九相は死んでいない。だが、ひとみから殺気は消えた。
『吾必倒・吾斬』の呪縛は解けている。
青年の放った活人の剣気は間違いなく、一撃必倒斎の妄念を断ち斬ったのだ。
「ご、ごめん、なさい。最後。普通に斬っていれば」
あなたの、勝ちだったのに。
その言葉を、九相は遮った。
「無形の念を斬ったのは初めてだ。一人では触れられぬ境地に至った。十分な戦果よ」
「そ、それは、やせ我慢、では」
「武士は食わねど高楊枝。そも、好敵の為に刃を振るえぬでは、仏様にも顔向けできないだろう」
仏、という言葉に、ひとみの表情が曇る。
「仏様も、神様も。お祈りしても、私を助けてくれませんでした。私を助けてくれたのは、道場破りの女の人と、……多分あなたで、人です。なら、仏様って、なんなんでしょう?」
これが、少女の傷。
運命への不信と、人への盲信だ。
出海九相にそれを癒すような説法はかなわない。
やはり、この大会において、さらなる強者との出会いは、彼女にこそ必要だろう。
彼女が、殺気でなく、闘気をこそ振るい。
その拳を、句とし歌として、人と真に理解しあうために。
「知れたこと。……『長く乾いた一本糞』だ」
軽やかに笑い、出海九相は眠るように意識を手放した。