【庭園】SSその2


 心地よい薫風が春の終わりを大地へと運び、新緑に薔薇の赤を咲かせた。

 刈り込まれた低木が織りなす迷路を、花籠を抱えて少女は歩く。
 この歴史ある庭園の手入れも、ユデン王家に仕える彼女の日課のひとつである。

「……あれ?」

 噴水のほとりに膝を抱いて腰かける、小さな人影が目に留まった。
 見間違えようもない。
 先日7歳の誕生日を迎えたばかりの第四王女、シエル・デ・ル=ユデンその人であった。

「シエル様! ええと、今の時間は、帝王学のお勉強のはずじゃ……」

 幼き王女は目を地に伏せ、頬を膨らませた。

「……嫌。イヤなの。帝王さんすうも、帝王こくごも……お父様も、だいきらい。我、石油王なんてなりたくない……」

 侍女は困り果て、王女の隣に腰を下ろした。

「どうしてですか? みんなの憧れなのに」
「……我が決めたんじゃない!」

 王女の癇癪に侍女は胸を痛めた。
 生まれた瞬間に運命を定められたという、その心情はいかばかりか。

「シエル様」

 摘み取ったばかりの薔薇の花を手向けると、陽光が泣き顔を照らした。

「心配いりませんよ。たとえ王様でもそうでなくても、シエル様はきっと素敵な大人になりますから。それに、本当に大切なことは――」





「――ディライト」

 今、彼女がその手に携えるは、黒く輝く大剣。
 石油王アブ・ラーデル18世……かつてのシエル王女に幼き頃の記憶が蘇ったのは、この戦いの舞台を懐かしき故郷の庭園と重ね合わせたからであろうか。

 庭園は今、薔薇の花よりも赤く燃え上がっていた。

「火の剣か。だが、ぬるい」

 炎の奥から、黒衣の武人が姿を現す。
 全身あまたの傷口から黒血を流す石油王に対し、いまだ無傷。

 褐色の糞刀『雲』を天に、赤黒の血刀『血』を地に。

 仁王剣(におうけん)の――出海九相(でかいくそう)

「――(ブリ)ッ」

 諸手に繰り出すは鞭斬(べんざ)稲楠(いなくす)が秘剣、魚手裂刀(うおしゅれっとう)
 尋常の間合いのはるか外から、超自然の柔軟を得た二刀が大渦を泳ぐ魚のごとく襲いかかる。
 対し王は原油採掘剣ドヴァット・デマクールを正面に構え、血液より精製したアスファルトでかろうじて身を守る。

「二の奥義……武流裂刀(ぶるうれっとう)!」

 しかし縦横無尽に飛び交う剣撃は防壁を徐々に削っていく。

「どうした! そのまま倒れるまで立ち尽くすか!」
「言われなくとも……!」

 一撃、二撃、三撃。
 直後の間隙を縫って、石油王は駆けた。

 解き放たれた漆黒の宝剣を、一気呵成に振り下ろす。
 渦巻く鞭の相から瞬時に手戻った大刀が、それをがしりと受け止める。
 上下の利を覆す剣士の膂力が、鍔迫り合いを制していく。

「悪くない。かつて対峙した名房(なふさ)堀江捨流(ほりえすてりゅう)の祖、ユデン剣術か」
「ぐ……石油王を舐めるな!」

 王は一歩飛び下がると同時、貪欲な剣に自らの血を与える。
 神秘の機構に精製された黒い濁流がほとばしると、剣士の腕をからめとり、二刀を奪った。
 粘性の液体はたちどころに硬化し、堅牢な手枷と化した。

「コールタールか!」

 両手を封じられた九相へ、石油王は渾身の突きを繰り出す!

「……が、あ……」

 だがそれよりも早く、剣士の裏拳が少女の腹にめり込んだ。
 動きを縛る黒い枷は、ゴムのように伸びきって役割を失っていた。

「俺の力は、森羅万象を柔と為す」

 砲弾を受けたかのような威力に、少女は軽々と吹き飛ばされる。

「石油王。君が火の剣ならば、俺は変幻自在、方円の器に随う水の剣だ。剣の理をも外れた……言うなれば」

 悠々と枷を外し、出海九相は高らかに謳う。

外理鞭(げりべん)

 少女はうずくまり、激しくせき込む。
 だが、その目から闘志は失われていない。

「我は……負けぬ。栄光ある我が王国を、滅ぼしてなるものか……」

 悲劇の王への同情を、九相は心を殺して断ち切った。
 武人として真正面から向き合うことこそ己の定めと言い聞かせて。

「有難い。君と戦うことで、俺はまだ強くなれる。昨日の俺ではなく、今日の俺が最強となる」
「出海九相……なぜそうまで最強の名にこだわる」
「兄のためだ」

 腹の内を、包み隠さず出し尽くす。

「兄は、志半ばにして死した。この渾身の二振り『雲』と『血』と、出海九相の名を遺して。兄貴の果たせなかった夢を、俺が代わりに叶えるのだ」

 だがその信念が、石油王の導火線に触れた。

「……ふざけるな! そんな下らないことのために、我が野望を邪魔立てされてなるものか!」
「下らぬだと!」

 九相は怒りに目を剥いた。
 火炎を吐くがごとき忿怒をたたえた形相は、まさに仁王。

「その侮辱、捨て置けん。我が兄の悲願を。思いを。生きざまを愚弄するか!」
「それこそが、下らないと言っておるのだ!」

 石油王とて一歩も引かぬ。
 意志なき傀儡であったかつての己を、その内に見たのだ。

「……それは貴様のものではない。貴様の兄の望みだ!」

 虚を突かれ、出海九相は、はっと息を呑んだ。

「貴様の夢など所詮借り物に過ぎぬ。なにが出海九相、なにが『雲』『血』だ! 押し付けられた名、お仕着せの刀。貴様はただそれを振り回しているだけだ!」

 九相は雷に撃たれたかのように身をこわばらせた。
 決して気迫に気圧されたのではない。
 少女の啖呵が、図らずとも、彼が心の奥底で恐れていたことを引きずり出したのだ。

 大小を握る手に汗がにじむ。
 兄の形見たる二刀はいまや己が身の一部のように馴染んでいる。
 だが……





 武人にとって、剣とは肉体の一部である。
 なれば己が肉体より剣を生み出せし者こそ、最強の剣士たる道理。
 出海阿光……兄はそれを成し遂げたのだ。

 己の腸にて練り上げた大刀『雲』を。
 己の生命を絞り出した小刀『血』を。

 では果たして、それを託された者。
 かつて出海雲光であった己は何者か。

 血を分け合った兄弟といえど、所詮他人ではないか――





「貴様のような弱き者の振るう剣で、崇高なる石油王が倒れるなど許されぬ!」

 王は剣を振り上げ――自らの胸を突き刺す。

「なっ……!?」
「う……ぐうっ……」

 少女の全身が激しく痙攣する。
 見開かれた両目から、漆黒の涙がとめどなく溢れ出す。
 それと呼応するように、原油採掘剣を染める黒色が、根元から徐々に消えていった。

「輸血……否! これは! 給油か!」

 九相は寸刻遅れて会得する。
 漆黒の大剣の内には初めから、14歳の少女の小さな身体に通常入りうる血液量よりも多くが蓄えられていたのだ。

石油王(オイル)……」

 王は剣を手放した。
 同時に、足元で爆炎が上がった。

拳撃(ショック)!」

 一瞬。
 炎を上げる拳が、九相の目の前に迫る。

「ぬ……ッ!」

 剣士は赤刀『血』にてかろうじて拳を受け止める。
 無敵の柔性を得る間もなく、刀にみしりとひび割れが走った。

「馬鹿な……!」

 これこそが先の強敵、河渡六文をも一突きで倒してみせた爆雷の拳撃。
 だが燃料を過積載された暴君の力は一撃に留まらぬ!

「うおおおおッ!」

 王は吼える。
 細い両腕に、傷口が開く。
 内に流れる黒血に火が灯り、爆炎となって噴き出すと、怒涛の如き連打を加速させる!

「――石油王連撃(オイル・コンビナート)ッ!」

 繰り出される拳撃の嵐、秒に二十を超える!
 無数とも思える炎熱の威迫に、剣士はただ小刀を盾にして耐える!

(柔化が……間に合わぬ……!)

 『血』がきしみ、悲鳴をあげる。
 九相はそれを己が兄の慟哭が如く耳に受け止めた。

 かの出海阿光の妄念がごとく研ぎ澄まされた業物。
 だが、吹き荒れる力は、ついにそれを上回り――






「――受け取ってくれ、出海九相。お前の今までの名より一文字。大刀『雲』」

 ああ。任せてくれ、兄貴。

「そして、もう一振り。俺の名を冠するはずだった、これを――」






 ――赤刀『血』は、真っ二つに折れた。



 石油王は荒く息を吐きつつ、再び原油採掘剣を拾い上げた。
 燃料をつぎ込み一度の攻勢で勝負を決める覚悟であったが、目論見は外れた。
 奪えたものはわずかに一刀のみ。
 だが目前で膝をつく武人はまるで満身創痍の体で、砕けた刀を手にうなだれたまま。

「どうした。体より先に心が折れたか。戦えぬ者など、この場には……」
「く……は、はは……」

 呼びかけには応えず、出海九相は喉の奥より空笑を絞り出した。
 その顔はまるで幽鬼の如く青白く、一切の生気を失ったように見えた。

「……感謝する」
「なんだと?」

 狼狽する王の前、剣士はどかりとあぐらをかいて胸元をはだけた。
 すべてを捨て、ただ朽ち果てる運命を受け入れた者だけが到達しうる悟りの極地が、そこにあった。

 死儀の作法――喪礼茶蔦(もれちゃつた)の型。

「兄貴が死んでから、俺はずっと考えていた。なぜ兄貴は俺に『二刀』を託したのか。なぜ己の命を懸けてまで武を追い求めた兄貴が、自らの名ではなく仮の銘をそれに与えたのか。今、それがようやくわかった」

 穏やかな笑みをたたえ、九相は二つに折れた小刀を、己の腹に突き刺した。

「君が教えてくれたんだ」
「……!」

 王は直ちに理解した。
 先程彼女自身が見せたものと、同じ。

「石油王。俺の夢が、ただの借り物だと言ったな。そうかも知れぬ。だが……それはもはや、分かち難い俺の一部なのだ」

 九相は玉のような脂汗を浮かべながら、自分自身に語りかけるように呟く。

「我が兄の鍛えし『血』は、今再び血液へと還る。兄貴の血が、俺の血となる」

 腹部に刺さる小刀へと、力を込める。

九相(あにき)の夢は、九相(おれ)の夢だ」

 剣士は、一息のもとに朱の小刀を腹に飲み込んだ。
 その姿はもう、どこにも存在しない。
 出海九相の肉体の一部となり、その内を巡っている。

 剣士は血を流しながらも立ち上がった。
 一面赤く染まった肌は、まるで地獄の鬼を思わせた。

 石油王は震えた。
 目前に立ちふさがる異形の武人に、本能が畏れを発していた。

 鬼は残された一刀『雲』をその手に取る。
 夜露を払うかのように、手先で軽く振るう。

「わかる。これは俺の刀だ。俺の肉体の一部だ」

 大地が、砕けた。

「最強の二文字。それを手に入れるためならば、俺は朱に燃ゆる地獄にも落ちよう。俺の剣は、今ここに極地へと至った」

 二身一体の剣士はただ一刀を、高く高く掲げた。
 振りかかる火の粉を浴びて、そびえ立つ糞の刀に、炎が宿った。

「――朱獄(しゅごく)仁王剣(におうけん)

 王は問いかける。

「出海九相。それが貴様の生き方か」
「ああ」
「……先の非礼を詫びよう。ただ、剣にて語り合うのみ」

 最後の血を振り絞り、石油王は原油採掘剣に火を灯した。 

「逝くぞ!」

 炎の剣と、炎の剣。
 力と力、意志と意志が、ぶつかり合った。

 風雅流麗な庭園は、燃える油と焼けた糞の臭いが充満する地獄と化した。
 地獄の炎に焼かれながら、二人の戦士は舞った。

 剣士の流刃を、王の剛剣を、互いに捌き、躱し、受け止める。
 時間にしてわずか十数秒。
 だが二者にとっては永劫とも思える死闘の果て。

 炎が消えたのは、石油王の剣であった。

「……ここまでか」

 いまや純白に燃え尽きた剣を手に、王は立ち尽くす。
 終わりをもたらす炎刃が目前に迫る。

 その時である。

 それは幻であろうか。
 王は確かに、白く輝く刀身から渦巻く風鳴りの音を聞いた。





「……大切なこと?」
「はい! シエル様、偉大な王様というのは、生まれた血筋や地位で決まるものではありません。みんなを想い、幸せにする。それこそが――」





「何であるか、ではなく……何を為すか」

 体が自然に動いた。
 間合いの向こうに立つ最強の武人へと、ただ一振り。
 その剣は、空を切った。

「そうか。お前もそうなのだな。ドヴァット・デマクールよ」

 鬼面の剣士は、ただ一言。

「……見事」

 その胸に大きく、赤い袈裟斬りの傷が咲いた。
 不可視の空刃が、出海九相の胸元を深く切り裂いたのだ。

「これが、原油採掘剣のもう一つの姿」

 自らの血を極限まで燃やし尽くして得た、その力。

「CO2排出剣……ドヴァット・デマクール!」

 戦場に立つは、石油王ただ一人。





「……我は、王となることを自ら選んだ。血ではない。民を助け、迫りくる影を討ち滅ぼすためだ。それを果たすまでは決して……石油王は斃れぬ」

 王の言葉に、出海九相は仰向けに倒れたまま、憑き物が落ちたように晴れ晴れとした顔で答えた。

「遠いものだな。最強とは」

 梵の律法経(スートラ)によれば、糞を練り乾かした燃料が灯す炎は罪を清め、邪気を祓うといわれる。
 彼がそれを知っていたかどうかは、定かでない。

「出海九相。汝は強い。我の知る誰よりも」
「慰めなどいらん! だが……目標ができた。俺はさらに強くなる。君よりも、今日の俺よりも。俺の……俺自身の夢だ」

 剣士は高らかに笑う。

「それが九相。出海、九相だ」
最終更新:2018年07月29日 23:39