薄暗い部屋で、安藤は拳をゆっくり握りしめる。百の練習より一の実戦とはよく言ったもの。安藤は一回戦で自身の能力が一段高みに上ったことを実感していた。迷いなく概念を殴りぬけることができた。このままいけば、能力の完成も夢ではない。
そのためにも、次の一戦、宝条綾果との戦いの準備を怠るわけにはいかない。幸いにして宝条は能力を隠すタイプではなかったので「少女漫画のお約束を作り出す」という能力はすぐに把握できた。
では今すべきことは何か。安藤は準備を怠らない。故に、安藤は漫画喫茶にて少女漫画をひたすらに読み進めている。
『マスカレード・ボーイ』、『コソボのおもちゃ』、『夏目バロック朝』を全巻読破した。
『マラカスの仮面』全49巻、『儲けの王将』全50巻、『パタリと!』全99巻の前に心が折れそうになっているが、負けるわけにはいかない。傍から見れば滑稽この上ないかもしれないが、安藤は本気だ。既に戦いは始まっている。
■ ■ ■ ■
硬式飛行船。合金の骨格を持った巨大な航空物。航空機の進歩により歴史の表舞台から姿を消した遺物は、面白そうという一点で亜門グループの手により天空の決闘場として空にぽかりと浮いていた。
陣営により戦場に送られた安藤は、すぐさま宝条を探しにかかる。今回の安藤の戦略は先手必勝。一回戦の映像を見る限り、宝条の能力は自身か環境にしか作用しない。相手すら因果の制御下に置けるとしたならば、十三川の爆撃に晒されたときにもっと早く反撃できていたはずだ。
能力発動の条件が読みにくい以上、条件が整う前に殴り飛ばす。現在主流の軟式飛行船であれば、硬式に比べ小型なため早く索敵できたとは思うが、そんなifの話は戦いの場において邪念へとつながる。手加減抜きで暴れられる舞台だと前向きにとらえ、安藤は敵を探す。
阿修羅像のごとき肉体と菩薩の拳を併せ持つ安藤が近づいてきても、宝条は笑みを絶やさなかった。
「…準備はよろしくて?それじゃ、デートを楽しみましょう?」
ここに二回戦のゴングが高らかに鳴った。
安藤は熟練のステップワークで一瞬のうちに間を縮める。安藤は迷わない。ためらわない。壁際に逃げ行く宝条の顔面に狙いを定め、ぎりりと力を込めた拳を真っすぐに打ち抜く。得意の右ストレート。ぐしゃりと嫌な破壊音が飛行船内に響き渡った。
(…!?)
安藤の拳は宝条の頬をかすめ、壁に突き刺さっていた。
(俺がこの距離で間合いを見誤った!?そんなはずは…)
困惑する安藤自身の口から、意志に反して言葉が紡がれる。
【なんだよ他人行儀だな…昨日みたく可愛く歩君って呼べよ】
まさかの壁ドン&俺様全開の台詞が安藤の口から零れる!
(…!?『殿様ティーチャー』の1巻!?馬鹿な!他人にまで干渉を!?)
嗚呼、安藤よ、世界の認識を揺さぶる魔人よ。それだけの力を持っていながら、何を思いあがっていたのか!実戦により能力を高めたものが、何故自分だけだと思っていたのか!
宝条の能力は一段高みに上っていた。相手が恋する乙女ならば、お約束の制御下に置けるように進化していた。宝条の認識では安藤は強者であり、紛れもなく立派な恋する乙女であった。さらに安藤は事前予習により少女漫画の世界観を十全に理解してしまっている。
…ここに、凄烈なるデートが始まる。
■ ■ ■ ■
一進一退。下馬評では圧倒的に安藤有利と思われていたが、勝負は拮抗していた。宝条がパンを出し、ジュースを出し、何か兆しがあるたびに安藤は攻撃を仕掛ける。しかしその度に安藤は行動を制御され無力化される。
【お前が話しかけたくないならさ…もう話しかけないからそういえばいいじゃん】
(今度は『アスハライド』の壁ドンか!宝条が壁を背にしている限り拳は無力化されてしまう!ならば!)
ウィービング。上体を上下左右に動かし的を絞らせないディフェンステクニック。さらにステップワークを駆使、宝条を幻惑し瞬く間に後ろに回り込む。繰り出すは左フック。逃げる相手を追いやすい、近代ボクシングにおいて最もKO率の高い一手。しかしその一手は、他ならぬ安藤自身によって無意味な一手となっていた。
【なーーにイジけてんだよっ!】
後ろから包み込むようなハグ。
(『快楽フレーズ』3巻!背後からの攻撃も無力化か!)
油断をしないつもりだった。しかしそれでも安藤は、どこかで宝条を甘く見ていたと気付き歯噛みをする。一回戦を見る限り、少女漫画のお約束を再現するといっても攻撃手段は肉体による物理攻撃。
自分ならば捌ききれると思っていた。しかし今、頼みにした体を制御しきれていない。初めての感覚に安藤は翻弄されている。
そんな安藤を尻目に、宝条は心から楽しんでいる。箱入り娘故に経験のできなかった、自分が夢見て焦がれた少女漫画の世界に浸っている。私は恋の世界にいる。だから強い。強いから恋の世界にいる。恋が力を生み力が恋を生む。世界はこんなにも輝いている。加速度的に宝条の能力は進化していった。
(…こちらの攻撃は無力化される。しかし向こうの機先もこちらは潰している。このままでは泥試合のはずだが…何故焦る様子が欠片もない!?)
疑問にはすぐに答えが出た。凄まじい衝撃が飛行船を襲い、安藤の足元がぐらつく。対する宝条はこの衝撃を知っていたかのように悠然と構えている。
尾翼付近の浮揚ガスに着火したことにより、飛行船はどんどんと高度を落としていく。『魔女の卓球台』で、『蒼き翼』で、古今東西の恋物語で繰り広げられた光景。すなわち、訳ありの二人が乗る飛行船が、“落ちないはずがない”。
地上まで100m。外壁が破れ、気圧差から一気に飛行船内部の空気が外に吐き出される。それとともに宝条が中空に投げ出される。落ちる飛行船。投げ出されるヒロイン。なれば、次の展開は安藤にも予想が出来ていた。…出来てはいたが、止めるすべがない。
投げ出されたヒロインを守るべく、本当の気持ちに気付いた王子様は宙へ身を投げる。壊れ物を慈しむように、優しく宝条を抱きしめ、衝撃に備える。
【守るってさ…言ったろ…?】
(『其れ物語』5巻!だけどあのシーンは…5階からだったはずでは!)
どんどん拡大解釈されていく宝条の能力の前に、律義にツッコミを入れながら安藤は地へと落ちていく。覚悟を決めた直後、安藤の体を衝撃が襲った。宝条を守りながら、強烈に地面に叩きつけられた。
■ ■ ■ ■
飛行船の戦闘領域は飛行船から1km四方という条件が、首の皮一枚で安藤を救った。宝条の能力はあくまで再現であり、殺しが目的ではない。「身を挺してお嬢様を救った男」は死んではならないのだ。だからこそ武闘派魔人であり強靭な肉体を持つ安藤にダメージを与え、かつ死には至らない高度100mで能力は発動した。戦闘領域がもっと狭ければ、十三川の二の舞、リングアウト負けを喫していただろう。
それでも深手には違いない。ゴボリと大きく血の泡を吐く。意識が一気に薄らいでいく。能力発動条件が揃っていない状態で安藤と密着するは危険と判断したか、宝条は安藤と距離をとる。
宝条の慎重さに助けられ、安藤は回復を図る。側頭部に拳を一発。飛びかけていた意識を殴り戻す。両拳を脇腹に。痛みを殴り飛ばす。ぜえぜえと呼吸を荒げながらも安藤は立ち上がる。この程度で歩みを止めるわけにはいかない。
飛行船が落ちることも亜門グループは織り込み済みであったか。飛行船が落ちた先は荒涼とした平野。もうもうと煙を放ち燃え落ちる飛行船をバックに、最後の逢瀬が始まる。
「…歩はさ、どこまでも先に行っちゃうんだね」
ゆったりと、寂し気に宝条が言葉を紡ぐ。
(!『パラライズ・キス』、ラストシーン!これはまずい!)
【ああ、もう日本には未練がないからな】
愛し合っているにもかかわらず、“病気の妹を”助けるために男は渡米する。女の気持ちも全て飲み込み、傷を浅くするため敢えて冷たい言葉をかけ、男は姿を消す。
安藤の歩みが止まらない。戦闘外領域へと、足を進めていく。
待て。止まれ俺の足よ。動け俺の腕よ。
来る日も来る日も体を鍛え、拳を振るってきた。
こんなところでは終われない。まだまだ先に進まねばならない。
強くならなくちゃあいけない。強くあらねばならない。
愛は重いか。恋は重いか。愛は軽いか。恋は軽いか。安藤には分からない。しかし、自身に根差した偽りの恋心、そんな作り物に負けるわけにはいかない!
今迄踏みにじってきた敗者の想いを無駄にせぬためにも、拳を振るわなくてはいけない。
…なぜだか、自分に向け、懸命に、涙目で、初めての拳を振るう少女の顔が脳裏をよぎった。
「ヴォアァァァア!」
獣じみた雄たけびとともに、拳を自らの顔面に叩きこむ。安藤は自身に干渉してきた『デート・オア・アライブ』を殴り飛ばした。追い詰められた故の無我夢中の一撃。ここにきて、安藤は一段高みに上った。
■ ■ ■ ■
―――勝負あり。他者への干渉という手を失った宝条に勝ち目はない。安藤も、宝条自身も、痛いほど理解している。
「終わりだな。悪いが薄っぺらい恋心なんかに負けるわけにはいかん」
――ピシリと。空気が凍るような感覚が広がった。勿論安藤は自身への干渉について言ったつもりだった。しかし客観的に見てその言葉は宝条への禁句。恋心を軽んずる、決して許してはならない言葉。
「…恋を馬鹿にするな」
宝条の顔が朱に染まる。今までどこか超然としていたお嬢様は、年齢相応の表情を見せていた。感情をむき出しにし、うっすらと涙まで浮かべている。
「恋は、儚いかもしれない。雨上がりのように、淡雪のように、消えて何も残らないかもしれない。運命の相手なんて、一目惚れなんて幻想で、馬鹿馬鹿しいものかもしれない。」
それは、安藤へ向けた言葉か、自身へ向けた言葉か、世界へ向ける言葉か。
「永遠の恋なんてないかもしれない。――それでも、私たちは、恋する乙女は、この胸の高鳴りを信じている!いつだって!今の恋が最高で!きらきらと眩いものだって信じている!!」
宝条は拳を握り、ぐわっと、背が見えるほどに大きく振りかぶる。
【宣戦布告よ】
宝条は自己に干渉を始めた。『花よりも断固』の名場面。いじめっ子のお坊ちゃま集団にヒロインが殴りこむシーン。守られるだけじゃない、強いヒロインという新境地を切り開いたエポックメイキング的場面。
瞬間、全身全霊を込めた拳が安藤に襲い掛かる。宝条が再現した場面の意味を痛いほどに安藤は理解していた。しっかりと読み込んだから。宝条の恋への思いを理解していた。しっかりと調べたから。だからこそ、その拳は重い。想いが込められていることが分かってしまうから、安藤には重く重く響く。
これが安藤の弱点。相手を調べ準備することは諸刃の剣。『かつての手下どものために』『名をくれた恩人のために』『王権の奪還のために』…。相手の事情を、支えるものを知れば知るほど、安藤は相手の攻撃を重く認識してしまう。
(それが、どうした)
それでも、安藤は準備を怠らない。相手を軽んじ、全力を尽くさない行為こそが、己の拳を軽くすると認識している。何もかもを知ったうえで、想いを知ったうえで乗り越えなくては、到底全てを殴り飛ばす境地になぞ立てない!
(受けて立つ!)
宝条の想いを込めた拳。安藤の想いを込めた拳。全身全霊をかけた拳は、轟音を上げて衝突を―――しなかった。
両者の拳は、すれ違っていた。過剰な進化を遂げた宝条の能力が誤作動したのか、本能的に安藤が恋心との勝負を避けたのか。それは分からない。
分かるのは結果だけ。拳がすれ違った結果、生じたのはクロスカウンター。同時に打ち合ったならば、リーチの差が物をいうのは必定。宝条の顎に安藤の拳が突き刺さり、宝条は糸を切られたマリオネットのように、ガクリと膝から地に倒れた。
倒れこむ宝条に、安藤は信じられないものを見るような目を向ける。
(俺は…俺は逃げたのか?それとも…能力?…俺は、俺は!)
安藤は宝条を見下ろす。宝条は安藤を見上げる。しかし表情はまるで逆の立場のようで。いっそ慈悲深く、宝条は告げた。
「…別に構いませんのよ。殿方の方が恋に憶病になるのは、お約束ですわ。」
終
安藤歩:満身創痍ながら準決勝進出。
宝条綾果:能力が発動したかどうかは彼女のみが知っているが、安藤に伝える気はない。小悪魔的悪戯心。
恋心:無敗。