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一人、吹きすさぶ風を数える。
最も天に近い、ここ飛行船から眺める景色は、眼下の光景が全て絵空事のように思えた。
「――ああ、先生。 何かあったら知らせてくれ。 手術を――妹を、頼む」
通話が途切れる。
病院を視界に納めたまま、安藤は耳に収まる窮屈なイヤホンを外す。
そのままイヤホンごと携帯電話をポケットに仕舞い、自身の胸を軽く叩く。
妹の手術。その不安を、殴り飛ばすかのように。
(……来たか)
振り返ると、遠めに少女の姿が見えた。
まるで、待ち合わせに遅れたかのように、小走りで近づいてくるは宝条綾果。
「お待たせしてすみません」
これから戦う相手。
にも関わらず、宝条は申し訳なさそうに頭を下げる。
(……)
安藤は答えない。
左拳を胸の前に、右拳を首の前に。
名乗りもあげず戦意だけを示す。
困ったように笑った後、宝条は口を開いた。
「……それじゃ。 デートを楽しみましょう?」
戦いのゴングが、今、打ち鳴らされた。
■
先手必勝。
軽く頭を振りながら、安藤は一気に距離を詰める。
軽快なステップワークは、リングに舞い降りた蝶の如し。
足を止めず、先制の左拳を放つ。
それは、格闘技において最速の左ジャブ。
それは、1回戦においてコインの嵐を弾落した神速の左ジャブ。
――散弾銃。
その威力と手数から、見る者に彷彿されるイメージだ。
雨を避けきることの出来る人間等いないように、
この拳を回避することは不可能。
――だが。
「ふふ。 捕まえてみてくださいね?」
――だが、宝条はその弾雨を回避する。
(……能力、か?)
その推察は正しい。
安藤はボクサーである。
ボクシングのパンチに種類はあれど、相手を殴るためには『腕を伸ばす』必要がある。
その行為は、少女漫画にとっては鬼門。
誰しもが見たことがあるはずだ。
浜辺で少女を追いかける男の姿を。
男が伸ばした手は少女を捕らえること叶わず、その追いかけっこがいつまでも続く姿を。
そう。少女漫画では、腕を伸ばしても、決して少女を捕まえることが出来ない。
即ち。
伸ばされた腕からは、”必ず”逃れることが出来る!
「そろそろ、反撃させていただきますね?」
安藤が左拳を打ち抜いた直後の隙、動きようのない体勢の崩れを狙うは必殺の拳底。
――否。
これは、拳底ではない。
「じゃんけんぽんっ」
これは、パーだ!
当然の事ながら、安藤の握った拳はグー。
じゃんけん対決は、宝条に軍配が上がる。
そして。
「それじゃ、罰ゲームはデコピンです」
そして、少女漫画におけるじゃんけんとは、必ず罰ゲームが伴う。
即ち。
じゃんけんで負けた罰ゲームからは、”必ず”逃れることは出来ない。
そう。じゃんけんという一手を踏むことで、宝条は己が攻撃を不可避とした。
ぺちん。
響く乾いた音と眉間に感じた衝撃に面食らうも、所詮はデコピン。
安藤にとって大したダメージではない。
「私、じゃんけんは得意なんです。 勝率3割なんですよ?」
「……じゃんけんは元々そういうもんだろう」
胸の前で小さく、両手でガッツポーズを取る宝条。
鏡に写したかのように、安藤は顎と鳩尾を守るべく両手を胸の前に構える。
そして、再度の接近。
安藤は、愚直にその拳を振り続けるのみ。
だがやはり、標的を捕らえることは出来ず、
無数の乾いた音だけが何度も何度も木霊する。
宝条の攻撃にも制約はある。
不可避の攻撃は、あくまでも罰ゲーム。
殺意を込めた拳や刃物では、その範疇を超えてしまう。
使えるのは、せいぜい、デコピンやしっぺと言った所だろう。
だが、完全回避と不可避の一撃。
これらを組み合わせることで、それは絶対なるカウンターとなる。
ただのデコピンを、しっぺを。安藤自身の速度をも利用し、鋭利な凶器へとその姿を変える。
(……まずは、あのディフェンスを崩す必要があるな)
赤く腫れ上がった額と両手首。
頭を振り拳を構え。
踏み込む。
一歩一歩、ただ前に。
踏み込む。
拳を撃たず、ただ、足を進める。
踏み込む。その先には。
目指すものがあるのだから。
「近っ――!」
吐息がかかる程の超至近距離。
安藤は、向き合った姿勢のまま、宝条の肩に顎を乗せた。
折り畳んだ左腕は、宝条の腰を強引に引き寄せる。
まるで抱きしめられているかのよう。
宝条がそう思うのも無理はない。
『クリンチ』とは、本来、抱擁する、という意味なのだから。
「捕まえたぞ。 この状態なら逃げられないよな?」
宝条の華奢な腹部に押し当てていた右拳を僅かに引くと、拳一つ分の隙間が生じた。
ワン・インチ・フィスト。
折り畳んだままの腕で、少女の横腹、肝臓めがけて打ち抜いた。
■
宝条の身体がくの字に折れる。
追撃の右拳は顎先を掠め、一撃で意識を刈り取っていく。
膝から崩れ落ちそうになる姿は、さながら糸の切れた操り人形の如し。
「ッ!」
唇を噛み締め、バックステップで距離を取る宝条。
糸の助けを借りず、己の足で耐え凌いだ。
――朦朧とした意識で宝条は考える。
先の右拳。何故、回避出来なかったのか。
クリンチからの胴打ちは、安藤の腕が折り畳まれていた。
ならば、当たるのは当然だ。条件を満たしていなかったのだから。
では、何故。伸びきった腕で放った右拳を避けられなかったのか。
「悪いが、俺は少女漫画のことは詳しくない。 だから、一発目で殴り飛ばさせてもらった」
「避けられるという結果を」
宝条の能力は、”必ず”事象を引き起こす。
『能力発動の無効化』であれば、事象の起こる確率に何の変動もない。
1回戦で十三川が使用した8切りもこのタイプだ。
だが、安藤が殴り飛ばしたのは『結果』。
『必ず引き起こされる』結果が殴り飛ばされれば、即ち、その事象は『必ず引き起こされない』。
故に、今。
伸ばされた腕からは、”必ず”逃れることが出来なくなってしまった。
(――なら!)
接近戦を仕掛けるのみ。
腕を伸ばせない程の超至近距離に、次は宝条が活路を見出す。
だが、安藤にとってそれを迎撃することは容易い。
コインの雨を、爆風を。
それら全てを撃ち落した安藤の拳は、少女の突進など容易く蹴散らす。
安藤の拳はその全てが必殺だ。
それを五発。宝条の顔面に、胸に、胴部に叩き込む。
(――ここ!)
途切れそうになる意識を無理やり抑え込み、安藤が伸ばした左腕に己が肉体を絡ませる。
少女漫画の世界でよく見る光景、やたらと腕を組んでくる少女。
即ち。
伸ばした腕は、”必ず”組むことが出来る。
安藤の伸ばした左腕。その肩を、肘を極めたまま回るは背後。
そのまま、安藤の所持していたイヤホンをお互いの耳に入れ。
「だ~れだ?」からの目隠し。
イヤホンは”必ず”共有される、目隠しは”必ず”成功する。
矢継ぎ早に繰り出される能力。安藤の両目と鼓膜、片腕を支配する。
腕を折るか?鼓膜を潰すか?眼球を砕くか?
どれだけ肉体が傷つこうとも、必ず勝利を掴む。
安藤には覚悟があった。
しかし、安藤の心を折ったのは悪夢のような電話。
少女漫画では、悪いニュースは”必ず”最悪のタイミングでやってくる。
「安藤くん! 急いで来てくれ! 妹さんの容態が――」
耳に捻じ込まれたイヤホンからは、見知った医師の声が響いていた。
(……何を言って)
安藤に動揺が走る。
その身は、暗闇に投げ込まれたように震え出す。
強く、強く拳を握る。この震えを殴り飛ばすように。
だが。安藤の震えを止めたのは、優しく重ねられた宝条の掌。
共有していたイヤホンを外した宝条はただ、微笑み。
「行きましょう?」
行く?どこへ?
「妹さんの下へ。 ……私は、この試合を」
「棄権します」
何を言っている?
「私を信じてください。 さあ、早く!」
……
「どんなに拳を強く握っても! 掌の中の大事なものを握りつぶしては意味がありません!」
!!
安藤は、拳を己の胸に叩きつける!
迷いを、疑惑を殴り飛ばすように!
安藤にとって、大事なものなど妹以外にない。
そのためならば、この少女を。
「信じよう」
花が開くように満開の笑顔を見せた宝条は、安藤の腕を取り、飛行船から飛び降りる。
眼下の病院目掛けて。
自らの意思で。故意に落ちていく。
風を一身に浴びる二人。
安藤が手を伸ばすと、その手は、宝条に繋ぎ止められる。
空中で手を差し出せば、”必ず”手を握ることが出来る!
1回戦で宝条が使った能力だ。
「……はしたない、だなんて、思わないでくださいね?」
そのまま、安藤の首に手を回し、抱きしめる。
耳元で作戦を呟くその頬は、僅かに朱に染まっていた。
「……試してみる価値はあるな。 一先ず、この状況はどうする?」
「大丈夫です。 抱きしめ合いながら落ちる男女は、”必ず”生還するんです」
「少女漫画には詳しくないが。 確かにそういうのはありそうだな。 なら、しっかり掴まっていろ」
「はい!」
瞬間、鳴り響くは激突音。
土煙を上げながら。
生還した男女は、目的に向かって走り出していた。
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二人が目指したのは、敷地に植えられた一本の大樹。
葉はそのほとんどが枯れ落ち、僅か1枚だけが力無く揺れている。
最後の葉が、今、その身を落とす。まるで、命を散らすかのように。
――即ち。
最後の葉が落ちれば、”必ず”手術は失敗す 仁義理拳!
宝条の能力により引き起こされる結果を殴り飛ばす!
それは、事象の反転。必ず起こる結果を殴り飛ばせば、その結果は起こり得ない!
その効果は、先の戦いでも証明済みの事だ。
事象を必ず引き起こす宝条と、その結果を殴り飛ばす安藤。
二人だからこそ成し得る、未来改変!
少女漫画では、不幸な結末が多々ある。その全てを、安藤は殴り飛ばす!
手術中に容態が急変した患者は、”必ず”息を引き取 仁義理拳!
病院に駆けつければ、”必ず”最愛の人は死んで 仁義理拳!
仁義理拳! 仁義理拳! 仁義理拳! 仁義理拳!
無駄かもしれない。無意味かもしれない。
沸き起こる迷いを殴り飛ばしながら、安藤は拳を振るう。
腕の感覚は失われ、その足に力が入らなくても。
それでも、安藤は殴り飛ばすことを止めはしない。
――どれ程の時が経ったのだろうか。
手術室の上部に淀んで光るランプ。
手術中であることを知らせるその光が消えたのは、二人が部屋の前に来たのと同時だった。
ゆっくりと開かれた扉からは、担当の医師が力無く出てくる。
安藤の姿を視認した医師は、長時間の手術による疲労も見せずに告げた。
「――奇跡だ。腫瘍も全て消えていた。もう、心配はいらない」
そう。
少女漫画の世界では、”必ず”奇跡は起こる。
■
病院の廊下は薄暗い。
声だけが反響する静かな空間で、安藤と宝条は並んでシートに座っていた。
誰も居ない。二人の他には。
「ご存知……でしたか……? 少女漫画は、必ずハッピーエンドなんです……」
宝条は、眠気を噛み殺して告げる。
安藤との死闘に加え、あれ程能力を酷使したのだ。
疲労を感じても無理はない。
「生憎そっちには疎くてな。 ……だが、本当に負けて良かったのか? お前にも願いはあったんだろう?」
「……私は、恋を学びたいと思いました。 自分よりも大切なものがある。 そんな想いを知りたいと思って……いました」
「この大会に参加している人は、皆、自分よりも大切なものを持っています。 そういう人たちに触れ合うことで、私にもその気持ちが……分かると思っていました。でも」
「貴方の”大切”を見過ごしたら、きっとその気持ちを分かることは出来ない。 そう……思ったんです……」
(……強いな)
その言葉は、重く安藤の胸を打った。
その言葉は、この少女には敵わないと悟らせるには十分すぎるものであった。
こてん、と宝条がもたれかかってくる。
その重みを心地よく感じ。
寝息を立てる少女の顔を一瞥すると、安藤は携帯電話を取り出した。
「……運営か? 俺は――この大会を棄権する」
安藤の目的。それは、最強の称号。
だが、自分よりも強いと認めた少女とは、最早この大会で戦うことは叶わない。
優勝しても、世界一と胸を張ることは出来ない。
ならば、安藤にとって。
この大会を続ける意味など、残ってはいない。
「……ああ。 代わりに、お嬢さんを次の試合に上げてくれ。 勝者無しよりも、そっちの方が大会としても良いだろう?」
ならば、少女の願いを叶えよう。
出会いを求める少女に、道を譲ろう。
「……そうか。 感謝する。 ……ん? 棄権の理由? そうだな……」
安藤は、少女の顔を覗き込み、薄く笑う。
少女漫画では、こう答えるのだろうか。
そんな事を思いながら、可笑しそうに笑った安藤は穏やかに告げる。
「――惚れた弱み、だ」
<飛行船 結果>
安藤歩:勝利。しかし、大会を棄権
宝条綾果:敗北。しかし、安藤の棄権により準決勝進出