【飛行船】SSその2



 一人、吹きすさぶ風を数える。
最も天に近い、ここ飛行船から眺める景色は、眼下の光景が全て絵空事のように思えた。

「――ああ、先生。 何かあったら知らせてくれ。 手術を――妹を、頼む」

通話が途切れる。
病院を視界に納めたまま、安藤は耳に収まる窮屈なイヤホンを外す。
そのままイヤホンごと携帯電話をポケットに仕舞い、自身の胸を軽く叩く。
妹の手術。その不安を、殴り飛ばすかのように。

(……来たか)

振り返ると、遠めに少女の姿が見えた。
まるで、待ち合わせに遅れたかのように、小走りで近づいてくるは宝条綾果。

「お待たせしてすみません」

これから戦う相手。
にも関わらず、宝条は申し訳なさそうに頭を下げる。

(……)

安藤は答えない。
左拳を胸の前に、右拳を首の前に。
名乗りもあげず戦意だけを示す。

困ったように笑った後、宝条は口を開いた。

「……それじゃ。 デートを楽しみましょう?」

戦いのゴングが、今、打ち鳴らされた。




 先手必勝。
軽く頭を振りながら、安藤は一気に距離を詰める。
軽快なステップワークは、リングに舞い降りた蝶の如し。
足を止めず、先制の左拳を放つ。
それは、格闘技において最速の左ジャブ。
それは、1回戦においてコインの嵐を弾落した神速の左ジャブ。
――散弾銃。
その威力と手数から、見る者に彷彿されるイメージだ。
雨を避けきることの出来る人間等いないように、
この拳を回避することは不可能。
――だが。

「ふふ。 捕まえてみてくださいね?」

――だが、宝条はその弾雨を回避する。

(……能力、か?)

その推察は正しい。
安藤はボクサーである。
ボクシングのパンチに種類はあれど、相手を殴るためには『腕を伸ばす』必要がある。
その行為は、少女漫画にとっては鬼門。
誰しもが見たことがあるはずだ。
浜辺で少女を追いかける男の姿を。
男が伸ばした手は少女を捕らえること叶わず、その追いかけっこがいつまでも続く姿を。
そう。少女漫画では、腕を伸ばしても、決して少女を捕まえることが出来ない。
即ち。
伸ばされた腕からは、”必ず”逃れることが出来る!

「そろそろ、反撃させていただきますね?」

安藤が左拳を打ち抜いた直後の隙、動きようのない体勢の崩れを狙うは必殺の拳底。
――否。
これは、拳底ではない。

「じゃんけんぽんっ」

これは、パーだ!
当然の事ながら、安藤の握った拳はグー。
じゃんけん対決は、宝条に軍配が上がる。
そして。

「それじゃ、罰ゲームはデコピンです」

そして、少女漫画におけるじゃんけんとは、必ず罰ゲームが伴う。
即ち。
じゃんけんで負けた罰ゲームからは、”必ず”逃れることは出来ない。
そう。じゃんけんという一手を踏むことで、宝条は己が攻撃を不可避とした。

ぺちん。
響く乾いた音と眉間に感じた衝撃に面食らうも、所詮はデコピン。
安藤にとって大したダメージではない。

「私、じゃんけんは得意なんです。 勝率3割なんですよ?」

「……じゃんけんは元々そういうもんだろう」

胸の前で小さく、両手でガッツポーズを取る宝条。
鏡に写したかのように、安藤は顎と鳩尾を守るべく両手を胸の前に構える。
そして、再度の接近。
安藤は、愚直にその拳を振り続けるのみ。
だがやはり、標的を捕らえることは出来ず、
無数の乾いた音だけが何度も何度も木霊する。

 宝条の攻撃にも制約はある。
不可避の攻撃は、あくまでも罰ゲーム。
殺意を込めた拳や刃物では、その範疇を超えてしまう。
使えるのは、せいぜい、デコピンやしっぺと言った所だろう。
だが、完全回避と不可避の一撃。
これらを組み合わせることで、それは絶対なるカウンターとなる。
ただのデコピンを、しっぺを。安藤自身の速度をも利用し、鋭利な凶器へとその姿を変える。

(……まずは、あのディフェンスを崩す必要があるな)

赤く腫れ上がった額と両手首。
頭を振り拳を構え。
踏み込む。
一歩一歩、ただ前に。
踏み込む。
拳を撃たず、ただ、足を進める。
踏み込む。その先には。
目指すものがあるのだから。

「近っ――!」

吐息がかかる程の超至近距離。
安藤は、向き合った姿勢のまま、宝条の肩に顎を乗せた。
折り畳んだ左腕は、宝条の腰を強引に引き寄せる。
まるで抱きしめられているかのよう。
宝条がそう思うのも無理はない。
『クリンチ』とは、本来、抱擁する、という意味なのだから。

「捕まえたぞ。 この状態なら逃げられないよな?」

宝条の華奢な腹部に押し当てていた右拳を僅かに引くと、拳一つ分の隙間が生じた。
ワン・インチ・フィスト。
折り畳んだままの腕で、少女の横腹、肝臓めがけて打ち抜いた。



 宝条の身体がくの字に折れる。
追撃の右拳は顎先を掠め、一撃で意識を刈り取っていく。
膝から崩れ落ちそうになる姿は、さながら糸の切れた操り人形の如し。

「ッ!」

唇を噛み締め、バックステップで距離を取る宝条。
糸の助けを借りず、己の足で耐え凌いだ。

――朦朧とした意識で宝条は考える。
先の右拳。何故、回避出来なかったのか。
クリンチからの胴打ちは、安藤の腕が折り畳まれていた。
ならば、当たるのは当然だ。条件を満たしていなかったのだから。
では、何故。伸びきった腕で放った右拳を避けられなかったのか。

「悪いが、俺は少女漫画のことは詳しくない。 だから、一発目で殴り飛ばさせてもらった」
「避けられるという結果を」

宝条の能力は、”必ず”事象を引き起こす。
『能力発動の無効化』であれば、事象の起こる確率に何の変動もない。
1回戦で十三川が使用した8切りもこのタイプだ。
だが、安藤が殴り飛ばしたのは『結果』。
『必ず引き起こされる』結果が殴り飛ばされれば、即ち、その事象は『必ず引き起こされない』。
故に、今。
伸ばされた腕からは、”必ず”逃れることが出来なくなってしまった。

(――なら!)

接近戦を仕掛けるのみ。
腕を伸ばせない程の超至近距離に、次は宝条が活路を見出す。
だが、安藤にとってそれを迎撃することは容易い。
コインの雨を、爆風を。
それら全てを撃ち落した安藤の拳は、少女の突進など容易く蹴散らす。
安藤の拳はその全てが必殺だ。
それを五発。宝条の顔面に、胸に、胴部に叩き込む。

(――ここ!)

途切れそうになる意識を無理やり抑え込み、安藤が伸ばした左腕に己が肉体を絡ませる。
少女漫画の世界でよく見る光景、やたらと腕を組んでくる少女。
即ち。
伸ばした腕は、”必ず”組むことが出来る。
安藤の伸ばした左腕。その肩を、肘を極めたまま回るは背後。
そのまま、安藤の所持していたイヤホンをお互いの耳に入れ。
「だ~れだ?」からの目隠し。
イヤホンは”必ず”共有される、目隠しは”必ず”成功する。
矢継ぎ早に繰り出される能力。安藤の両目と鼓膜、片腕を支配する。

 腕を折るか?鼓膜を潰すか?眼球を砕くか?
どれだけ肉体が傷つこうとも、必ず勝利を掴む。
安藤には覚悟があった。
しかし、安藤の心を折ったのは悪夢のような電話。
少女漫画では、悪いニュースは”必ず”最悪のタイミングでやってくる。

「安藤くん! 急いで来てくれ! 妹さんの容態が――」

耳に捻じ込まれたイヤホンからは、見知った医師の声が響いていた。

(……何を言って)

安藤に動揺が走る。
その身は、暗闇に投げ込まれたように震え出す。
強く、強く拳を握る。この震えを殴り飛ばすように。
だが。安藤の震えを止めたのは、優しく重ねられた宝条の掌。
共有していたイヤホンを外した宝条はただ、微笑み。

「行きましょう?」

行く?どこへ?

「妹さんの下へ。 ……私は、この試合を」


「棄権します」


何を言っている?

「私を信じてください。 さあ、早く!」

……

「どんなに拳を強く握っても! 掌の中の大事なものを握りつぶしては意味がありません!」

!!
安藤は、拳を己の胸に叩きつける!
迷いを、疑惑を殴り飛ばすように!
安藤にとって、大事なものなど妹以外にない。
そのためならば、この少女を。

「信じよう」

花が開くように満開の笑顔を見せた宝条は、安藤の腕を取り、飛行船から飛び降りる。
眼下の病院目掛けて。
自らの意思で。故意に落ちていく。

風を一身に浴びる二人。
安藤が手を伸ばすと、その手は、宝条に繋ぎ止められる。
空中で手を差し出せば、”必ず”手を握ることが出来る!
1回戦で宝条が使った能力だ。

「……はしたない、だなんて、思わないでくださいね?」

そのまま、安藤の首に手を回し、抱きしめる。
耳元で作戦を呟くその頬は、僅かに朱に染まっていた。

「……試してみる価値はあるな。 一先ず、この状況はどうする?」

「大丈夫です。 抱きしめ合いながら落ちる男女は、”必ず”生還するんです」

「少女漫画には詳しくないが。 確かにそういうのはありそうだな。 なら、しっかり掴まっていろ」

「はい!」

瞬間、鳴り響くは激突音。
土煙を上げながら。
生還した男女は、目的に向かって走り出していた。




 二人が目指したのは、敷地に植えられた一本の大樹。
葉はそのほとんどが枯れ落ち、僅か1枚だけが力無く揺れている。
最後の葉が、今、その身を落とす。まるで、命を散らすかのように。
――即ち。
最後の葉が落ちれば、”必ず”手術は失敗す 仁義理拳!
宝条の能力により引き起こされる結果を殴り飛ばす!
それは、事象の反転。必ず起こる結果を殴り飛ばせば、その結果は起こり得ない!
その効果は、先の戦いでも証明済みの事だ。

事象を必ず引き起こす宝条と、その結果を殴り飛ばす安藤。
二人だからこそ成し得る、未来改変!
少女漫画では、不幸な結末が多々ある。その全てを、安藤は殴り飛ばす!

手術中に容態が急変した患者は、”必ず”息を引き取 仁義理拳!
病院に駆けつければ、”必ず”最愛の人は死んで 仁義理拳!
仁義理拳! 仁義理拳! 仁義理拳! 仁義理拳!

無駄かもしれない。無意味かもしれない。
沸き起こる迷いを殴り飛ばしながら、安藤は拳を振るう。
腕の感覚は失われ、その足に力が入らなくても。
それでも、安藤は殴り飛ばすことを止めはしない。
――どれ程の時が経ったのだろうか。
手術室の上部に淀んで光るランプ。
手術中であることを知らせるその光が消えたのは、二人が部屋の前に来たのと同時だった。
ゆっくりと開かれた扉からは、担当の医師が力無く出てくる。
安藤の姿を視認した医師は、長時間の手術による疲労も見せずに告げた。

「――奇跡だ。腫瘍も全て消えていた。もう、心配はいらない」

そう。
少女漫画の世界では、”必ず”奇跡は起こる。




病院の廊下は薄暗い。
声だけが反響する静かな空間で、安藤と宝条は並んでシートに座っていた。
誰も居ない。二人の他には。

「ご存知……でしたか……? 少女漫画は、必ずハッピーエンドなんです……」

宝条は、眠気を噛み殺して告げる。
安藤との死闘に加え、あれ程能力を酷使したのだ。
疲労を感じても無理はない。

「生憎そっちには疎くてな。 ……だが、本当に負けて良かったのか? お前にも願いはあったんだろう?」

「……私は、恋を学びたいと思いました。 自分よりも大切なものがある。 そんな想いを知りたいと思って……いました」
「この大会に参加している人は、皆、自分よりも大切なものを持っています。 そういう人たちに触れ合うことで、私にもその気持ちが……分かると思っていました。でも」
「貴方の”大切”を見過ごしたら、きっとその気持ちを分かることは出来ない。 そう……思ったんです……」

(……強いな)

その言葉は、重く安藤の胸を打った。
その言葉は、この少女には敵わないと悟らせるには十分すぎるものであった。
こてん、と宝条がもたれかかってくる。
その重みを心地よく感じ。
寝息を立てる少女の顔を一瞥すると、安藤は携帯電話を取り出した。

「……運営か? 俺は――この大会を棄権する」

安藤の目的。それは、最強の称号。
だが、自分よりも強いと認めた少女とは、最早この大会で戦うことは叶わない。
優勝しても、世界一と胸を張ることは出来ない。
ならば、安藤にとって。
この大会を続ける意味など、残ってはいない。

「……ああ。 代わりに、お嬢さんを次の試合に上げてくれ。 勝者無しよりも、そっちの方が大会としても良いだろう?」

ならば、少女の願いを叶えよう。
出会いを求める少女に、道を譲ろう。

「……そうか。 感謝する。 ……ん? 棄権の理由? そうだな……」

安藤は、少女の顔を覗き込み、薄く笑う。
少女漫画では、こう答えるのだろうか。
そんな事を思いながら、可笑しそうに笑った安藤は穏やかに告げる。


「――惚れた弱み、だ」


<飛行船 結果>
安藤歩:勝利。しかし、大会を棄権
宝条綾果:敗北。しかし、安藤の棄権により準決勝進出
最終更新:2018年07月29日 21:10