「……殿方のほうが恋に憶病になるのは、お約束ですわ」
宝条綾果の最後の言葉は、今も彼――安藤歩の、脳内の片隅にこびり付いている。
(俺は本当に逃げたのか? 望のために全てを殴り飛ばすと決めたのに?)
歩は自問する。今となっては、あの時実際はどうだったかを判断することはできない。
(それとも、俺は本当に、彼女に――)
自らの頬を軽く殴りつける。余計な雑念――少なくとも、今、目の前の状況にとっては――を殴り飛ばした。
彼女の思いが……あるいは彼女への思いがそうだ、とは言わないが、今考えるべきことではない。
目を見開く。今考えるべきは、眼前の敵手を打倒する方法だ。
明かりの僅かな、仄暗い廃坑の中に、白い外套がちらつく。二刀を佩いた青年。
次の対戦相手……天桐鞘一。彼は、思いを寄せる女性に捧げるために、戦っているという。
(そうであるならば、決着がつけられるのかもしれない。俺が勝負を逃げたかもしれない、恋心とやらとの闘いに)
浅く、惑い、揺れる枝葉の思考を殴り飛ばして。深く、狭く、強靭な根幹の思考に没頭する。それが安藤歩のルーティーンだ。
「これまでと違って、風情もへったくれもない会場だけど、戦いだけに集中できそうだ。さぁ、俺の二刀と君の両腕、どっちが先に当たるかな?」
鞘一が芝居がかった口上を言い終わる時には、両者は間合いへと踏み込んでいる。剣鬼の妙技による埒外の剣閃と、拳聖の絶技による理外の拳打は、全く互角の速度で正面から激突した。
刀と拳がぶつかりあえば、当然、一方的に傷つくのは柔い拳の側――であるはずがない。『仁義理拳』は、あらゆるものを殴り飛ばせる拳。いかなる攻撃にも傷つかぬ無敵の拳が、たかが剣鬼の斬撃ごときを殴り飛ばせぬはずがない。
鈍い音を響かせて、鞘一の刀は刃先から圧し折れた。半分から先を失った刀身が、鍔鳴りとともに鞘に収まった。
直後。歩は首筋に温かいものを感じた。手で拭い、確認。流血している。刺し傷自体は浅いものの、もう少し深く斬り込まれていれば、首ごと穿ち抜かれていただろう。
鞘一は最初の一撃で、『奇襲二色』による即死奇襲を繰り出していた。自らの納刀と同時に喉を狙ったその初撃は、刀を折られたことで必殺とはなり得なかった。
「なんて理不尽だ。まったく、折れない武器こそは剣士の夢とはよく言ったものでね、その異能は素直に羨ましいよ。けど、どうやら傷つかないのは拳だけかな?」
「理不尽を通してこその異能だろう。俺はこいつで、お前を殴り飛ばす」
「へぇ、渋くて良い声じゃないか。それに、その硬い態度。相対的に俺が軽く見られてしまうか? これは」
歩は拳を構えた姿勢を崩さない。無敵の拳を突き出したこの体勢こそが、攻防において最強の構えであるからだ。
「その声で君も自分の天使にアプローチをかけてるのかな? いや、まさか俺の他にも女の為に闘う奴がいるとはね。シンパシーを感じるよ」
「そんな洒落たもんじゃないさ」
返答と同時、歩は次なる左拳を繰り出した。鞘一はそれを迎撃――せず、一拍呼吸を置いた。拳が無敵であるならば、あえて拳を引きつけ、伸びた腕を斬り落とす。拳撃自体は受ける可能性があるが、必要なリスクだと彼は判断した。
歩の拳は、鞘一に触れる直前に急制動がかかる。鞘一が合わせようとしたカウンターの斬刃は引き戻した腕を浅く撫ぜるにとどまり、本命の右拳が鞘一の左腰に直撃した。
鞘一は衝撃で大きく吹き飛ばされるが、直撃にもかかわらず、本体へのダメージは驚くほど少ない。代わりに、左腰の鞘が豪快にひしゃげていた。最初から歩の狙いはそれだ。
安藤歩は準備を怠らない。天桐鞘一の闘宴劇での試合は、全てつぶさに観察している。クラブでの半沢時空らとの闘いも、夏祭りでの七白ぼたん(何故か宝条綾果の姿をしていることには歩はいささか困惑した)との闘いも。加えて、元ボクサーとしての動体視力と集中力をもってすれば、最初の交錯の瞬間に、鞘一の能力の見立てを容易に確信できる。
攻撃が発生したのは、異常速度の抜剣時ではない。それは確かに殴り飛ばしたからだ。もう片手の抜刀でもない。抜かれていないのを確認できている。それは納刀時――鞘の中に、折れた刀が収まった瞬間。抜刀と納刀で発生する二度の斬撃こそが、天桐鞘一を魔人闘宴劇にてここまで至らせた魔技である。
(あの能力は俺にとって不利だ。体内を直接狙われたら、殴り飛ばせない)
「熱心なお客さんには当然レシピが割れるか、男に注視されるのはどうにもやりにくいね」
(刀は殴り飛ばせる。だから鞘を潰す。あと一本だ)
「とは言えレシピが見破られても、満足させるのがこっちの腕の見せ所。……此処からは特別だ。じっくり味わってもらう為に、まずはブラインドで淹れようか」
連続して響く鍔鳴りの音が、ガラスを破砕する音と重なった。大会のために設えられたランタンが、『奇襲二色』の遠隔斬撃で次々と貫かれる。廃坑は本来の姿――無人の暗黒洞としての姿を取り戻す。
(そう出るか……!)
元ボクサーである歩にとっては、これは致命にもなりかねない手立てだ。彼の武器は、類い稀なる動体視力。その上、足場が悪い状況で暗闇では、フットワークにおいても支障をきたす。そして、最大の問題は。
(この暗さでは、追えない……! もし奴が負けても構わないと考えているならば、逃げ切られる!)
調べによれば、鞘一は思いを寄せる女性に捧げるため――つまりは賞金のために、大会に参加したという。だが、彼は前回の試合において、ベストバウトを獲得。既に5000万円を手中に収めている。歩とて詳しいわけではないが、贈り物の相場としては十分すぎる額だろう。
大会のルールでは、3時間が経過して決着がつかない場合、両者敗北と扱われる。歩の側としては、それでは非常に困る。彼は魔人闘宴劇で、必ず優勝しなければならない事情がある。
「……前の試合を見た」
明かり一つ無い暗黒の中、歩が口を開いた。無論、それは自らの位置を晒すリスキーな行為だ。だが、逃げられるよりは、わざと隙を見せ、勝ちを拾いに来たところを殴り飛ばす方が可能性がある。
「ベストバウトだってな。5000万円、何に使うんだ?」
「色々出来そうだけど、それじゃ天使の笑顔と釣り合わなくてね。本命は50億の方だけさ」
鞘一は誘いに躊躇なく乗った。彼は元より、ここで降りる気など毛頭無い。索敵が必要なのは鞘一とて同じ。会話を続けられるならばそれでよい。
「でも仮に、優勝したら50億は譲るから降りろ。と言われても、それは無理だ……『欠片でも無様を晒さない』って口にしたばかりでね。君の方は欲しいのは願いだけかな。確か、それで妹さんを救うつもり?」
「降りろなんて言わないし、そんな軽々しいものじゃない。救うのは俺だ。優勝して世界一だと胸を張り、世界を救うだけの力を手に入れる」
歩は言葉を紡ぎながら、こまめに位置取りを調整する。
「……そのために、お前のような強者を殴り倒す」
そうしなければ、天使の笑顔とは釣り合わない。彼女の気高い闘病を殴り飛ばすには、それだけの物が必要だと、安藤歩は考えている。
「……この全国大会に優勝して、それは果たして本当に世界最強かな?」
鞘一の言に、歩は硬直する。
(それは……その通りなのかもしれない)
確かにこの大会は、無双の強者が集まっている。だが、あくまで参加者の殆どは国内からだ。それだけではない。この大会にすべての魔人が参加しているわけではない。参加動機がない者。手の内を晒したくない者。不参加の魔人の中に、参加者を凌駕する実力の持ち主は存在して当然である。
参加した際には認識こそしていなかったものの、歩は今、それを認めてしまいそうになった。
彼は自らの頬を――硬直と、懊悩を殴り飛ばす。
(だからなんだというのだ。この戦いだけを、本気で見据える)
現実として、一戦を経るごとに、安藤歩は高みへと上り詰めている。世界一の敵を倒して世界一になるのではない。あくまで自分自身の研鑽をもって、さらなる高みへと到達するべし!
「仁義理――」
そう、さらなる、高みへ――!
「――拳ッ!!!」
歩は中天へ拳を突き出し、天井を殴り飛ばした。さらなる高みへと上り詰めた彼の拳は、殴り飛ばす、と決めたものを必ず殴り飛ばす。天井を殴り飛ばすと決めたのであれば、それは天井の岩壁を吹き飛ばし、青空まで突き抜ける!
破砕された岩盤が雪崩のように暴れまわる。廃坑の中心にポッカリと穴が空き、青空から陽光が突き刺した。
直後。けたたましい掘削音が、歩の眼前で鳴り響く。落石が、剣突で穿ち砕かれた。
「声を頼りに寄って来るか、光を得た瞬間に決着の腹積もりだったんだけどね。いや、出鱈目にも程がある、少しは加減ってやつを覚えた方が良い」
「……こっからはこれで語らせてくれ」
歩はそう告げると、飛び上がり、鞘一へと踊りかかった。元ボクサーにあるまじき3次元の動きと、差し込んだ逆光が、鞘一の迎撃を遅らせた。
「おおおおっ!」
咆哮と共に放たれた歩の左拳が、鞘一の右腰――抜かれる前の刀ごと、鞘を強かに殴り飛ばした。勢いのまま、鞘一は地面へと叩きつけられた。
「ボクシング引退してからサーカスにでも居たかい? なんて言ってる場合じゃあないな。この不利は拳だけの男と見誤った俺の失態か」
折れた刀を支えに、鞘一は立ち上がる。彼の得物は折れた刀一本。鞘は折られ、相手は万全に近い。
「まだやるのか?って顔をしてるね。なに、心配はご無用。剣は折れたけどね、まだ心も命も折れてはないよ」
歩がじりじりと迫る。彼に一分の油断もなく、拳の届く範囲へとにじり寄り――
瞬間。鞘一は、自らの腹に、折れた刀を突き立てた。
「何を――」
歩の言葉が、血とともに吐き出された。直後、激しい胸の痛み。彼が自らの胸を見下ろしても、外傷一つ存在しないが。
(繋げたのか……! 自分の体を鞘として、俺の体内に!)
「前から……薄々出来るんじゃないかとは思っていたんだ。奇襲二色は鞘さえあれば成立するからね。ほら、最後の切り札は鞘一ってやつさ。流石にこんな事を試そうなんて今の今まで思ったことはなかったけど」
無論、それだけで成立する話ではない。名だけではなく、実として自らを鞘と認識するためには、状況が必要だ。本来納めるべき鞘を失い、使い手が絶対の窮地に陥った時のみ、“刀の納めるべき場所”――すなわち鞘――は、自らの腹となる。
「こんなところで、俺は……」
心臓を穿たれてなお、歩は立ち上がろうと呻く。
傷口を殴り飛ばすことは叶わない。それでもなお、彼は起き上がらなければならない。だが、意志に反して、体は動かない。全身の血が失われていくのを感じる。全てを殴り飛ばせるはずの拳は、握り込む血流さえ得られず開かれたままだ。
「望……ごめんな……」
思わず漏れた悔悟の声を、腹に刀の突き刺さった青年は耳聡く聞き咎めた。
「君の異能なら、すでに病を殴り飛ばせるんじゃない? 大体、世界一にならなきゃ無理なんて悠長な自己満足でしょ」
「……違う。望の努力は、俺が殴れるようなちっぽけなものじゃ……」
「例えば、この試合途中にも容態が悪化して死ぬかもしれない。解決を何時までも先延ばしにするのは妹さんが可哀想じゃない。君がやるのは妹さんの前で拳を握る事だと思うけどね」
鞘一の顔色も優れないが、彼はなおも言葉を継ぐ。
「お兄さんがそんなんじゃ、妹さんは恋の一つも出来やしない。それは、家族として誇れる事かい?」
恋、と言う単語に歩は眉根を寄せた。誰のことを想ったかは定かではないが、絞り出すように最後の言葉を吐き出す。
「……望はまだ、折り紙で喜ぶような歳だ」
「朴念仁もここに極まれりだ。女の子の事を何も解ってないね。もう恋を覚えるには十分な年齢だよ。そう、一番尊くて、何の打算もない、初恋ってやつをね」
準決勝戦:【廃坑】STAGE
安藤歩 VS 天桐鞘一
勝者――天桐鞘一
「しかし、折り紙で喜ぶような子だったら俺も苦労はしなかったんだけどな。俺の狙いは世界一の強敵だ。誕生日に50億の夜景で喜ばせられるかな」
鞘一はそれだけ言い終えると、歩に遅れて倒れ伏した。