【橋(暴風雨)】SSその2


 風吹き荒れる、嵐の夜だった。
 横薙ぎに叩きつける大粒の雨が、カフェ『プラティーノ』の窓をがたがたと鳴らした。

「もう上がったら」

 所在無げに爪を弄びつつ、少女はアルバイトの青年へと告げる。

「お客さんも来れないだろうし。これ以上ひどくなったら帰れなくなるわ」

 天桐鞘一は、その流麗な顔立ちに劣らぬ軽やかな所作を返した。

「おっと、それは望むところだな。神様に貰った二人きりの時間、俺は大切にしたいね。それとも木咲は水も滴る色男の艶姿を拝みたいのかな?」
「アホくさ」

 無言の店内に雨音だけが響く。
 青年はしばし目を閉じ、天上の音楽を聴くかのように耳を澄ませた。

(……ねえ。あんたはなんで)

 少女の問いかけが喉を出る直前。
 長い沈黙を破ったのは、不意の来客を告げる鈴の音であった。

「おや……これは珍しいお客さんだ。俺の評判は、海をも超えて届くと見える」

 現れたのはレインコート姿の若き石油王、アブ・ラーデル18世。
 小さな肩に、息切る侍女を抱えて。

「天桐鞘一。彼女を……ディライトを、頼む」

 少女は青ざめる。
 王の手は自身のものではない、赤い血に濡れていた。





(全て、最初から仕組まれていた……!)

 土砂降りの中を一人、石油王は駆けた。

(闘宴劇を利用し、黒き血を継ぐ者を根絶やしにする。それこそが奴らの狙い)

 もしも死闘に次ぐ死闘に王が敗れていたならば。
 治療事故を装い、人知れず彼女を葬り去ることも簡単だっただろう。
 だが不幸なことに――或いは幸いにして、その機会はついぞ訪れなかった。
 石油王、そして黒羽姉妹の元に訪れた刺客は、敵の焦りを如実に示している。

 一刻も早く、遠くへ。
 侍女を巻き込んだ自責の念に潰されかけながら、長い鉄橋を渡る。
 足下を流れる川は、王の運命をも飲み込まんとする暗い濁流と化していた。

「……そんな」

 対岸へと渡り切る寸前、足が止まる。
 王は橋のたもとに立つ人影を認めた。
 嵐を裂く雷光が、豪雨の銀幕に鎧のシルエットを切り取った。

「クロマック。クロマックなのか」

 騎士は答えた。

「お待ちしておりました、かつての主君よ。然り。オレガ・クロマックです」

 水たまりの中に、王は膝を落とす。

「……なぜだ」
「不要だからです。この美しい世界に、汚濁を撒きちらす臭水は無用。我らが仕えるべきは」

 騎士が外した胸当ての内から、青白い光がこぼれ出た。
 光の中に現れたのは、若き偉丈夫の身体に爪を立てる鋼の心臓であった。

「――《光の水(アグア・ルミエール)》。最も純粋なる太陽の恵みです。次世代のエネルギー……それが、水素核融合」

 うなだれる王へと向けて、騎士は手をかざした。
 内に流れる血液が、皮膚を通して淡く発光した。

「頼む……ディライトは。あの娘はどうか、助けてもらえないか」
「ええ、必ず。この名に誓って……がッ!?」

 にこやかに微笑む、その顔が苦痛に歪んだ。
 ……鍔鳴りがひとつ、嵐に響いた。
 鋼に守られた光の心臓に、奇襲の斬撃がひとつ刻まれていた。

「やれやれ、世間知らずにもほどがある。女の子を泣かせるような男が、約束を守ると思うかい?」

 白い外套に二刀を佩いた青年。
 天桐鞘一であった。

「な、泣いてなど……ええい、そんなことはいい! 天桐! 貴様、ディライトは!」
「安心しなよ。先日、店に心強い新人が入ってね。こんな豪雨じゃ休日出勤は『できない』かな、と尋ねたらすぐ駆けつけてくれたよ。妹さんも一緒さ」

 慮外の闖入者に、騎士は獣の形相で吼えた。

「ぐ……ふざけるな、愚物どもめ! 我らが栄光の下に、消え去れ――」

 暴走した光の渦が、破砕した心臓から騎士の体内を駆け巡る。
 だが伸ばした手は、空を分断する不可視の壁に阻まれた。

「な!? これはまさか、試合場の……亜門!」

 魔人闘宴劇の戦場は、一対一の決闘を汚す行為を許さない。
 如何なる干渉も防ぐ絶対の防壁が今、嵐の橋に立つ二人の戦士と、一介の部外者たる騎士とを分断していた。

「亜門洸太郎! 裏切ったかッ!」





「裏切りとは人聞きが悪いな。僕は最初から、最高に面白いものを作りたい……それだけが望みだよ。本来の予定など些末なことだ。ラプタ。君さえ見ていてくれたなら」

 暗がりの室内に一人、亜門洸太郎はディスプレイに映る友からのメッセージに微笑む。

『最高だよ! 本当にありがとう、洸太郎』

 そして若き主催者は、最後の戦いの始まりを告げる。

「――魔人闘宴劇決勝。戦場は、暴風雨の橋」





「はてさて、人生は舞台とはよく言ったものだ」

 降り注ぐ雨粒に身を打たれ、天桐鞘一は呟く。

「いつ幕が上がるかなんて、その時になるまでわかりゃしない。さあ……踊ろうか」

 雨の中、剣士の右手が揺らぐ。
 抜刀、そして納刀。
 鍔鳴りと同時、石油王は身をひるがえした。
 直前まで彼女がいた場所に、超空間の刺突が穿たれる。

「流石に十八番はご承知か。人気者(スタア)の辛いところだ」

 雨風暴れる橋上にて、避けられぬ戦いを前に、王と剣士は向かい合う。

「……先程はなぜ我を助けた」
「確かにあのまま放っておけば不戦勝だったかもね。でも天使の機嫌を損ねてしまったら、せっかくの栄誉に何の価値もないんだ」
「では、勝利の果てに何を望む」

 天桐は口元に手を当てて考え、答えた。

「そうだな、言うなれば君と同じだよ。国さ。国が欲しい」
「な、貴様……?」
「日本国全土。もちろんたった50億じゃ、買えるのはほんの10秒ほどさ。でも、その10秒が必要なんだ。彼女に奉げる誕生日ケーキの夜景(キャンドル)には」

 意表を突かれ、張り詰めた王の表情が、きょとんと緩んだ。

「馬鹿だと思うかい? でも全力で馬鹿をやらないと、どうにも天使は振り向いてくれそうになくってね」
「ふ……」

 続いて唇を割ったのは、朗らかな笑い声。

「はは、何だそれは。言うに事欠いて、お主。そんなことで女がなびくとでも……はあ、可笑しい。可笑しいな」
「……ようやく笑ったな」

 それは彼女が故郷を離れて以来初めて見せた、一人の少女としての、屈託のない笑顔だった。

「眉に皺寄せて泣いたり説教するより、そっちの方がずっと魅力的だぜ。もちろん木咲には遠く及ばないがね」
「……言うたな!」

 返答と同時、石油王は駆けた。
 血もしがらみも地位も無く、ただ強者と向き合う高揚だけをその胸に抱いて。

 彼我の距離はおよそ10メートル、王は狭い橋梁を一直線にひた走る。
 その直情的な攻撃に、剣士は疑問を抱く。
 納刀の絶技《奇襲二色(くがさねふたついろ)》。
 動く標的を苦手とするとはいえ、予測可能な動作であれば何ら支障はない。

 果たして、剣士がその柄に手をかけた瞬間であった。
 王がコートの内より取り出した黒剣ドヴァット・デマクールが、紅蓮の爆炎を放った。
 鍔鳴りに続く斬撃は、甲斐なく炎の残渣を突く。
 王の軽い身体は、爆風に吹き飛ばされてその直線軌道を曲げた。

 二撃、三撃。
 鍔鳴りのたびに雨中に炎の花が咲き、嵐に踊る木の葉のように宙を舞う。
 欄干を蹴って、王は跳んだ。
 豪雨に奪われる視界の中、幽鬼のごとく浮かび上がる炎が剣士へと迫る。

 天桐は二本を抜く。
 だがその切先が、此度は鞘に収まることなく。
 眼前の炎を意に介せず、剣士は振り向いた。
 そして背後の闇から繰り出された王の渾身の剣撃を、交差した大小でがしりと受け止めた。

「ぐ……」
「危なかったよ。だが男というやつは、素敵な女性から目を離せないものさ」

 劣悪な視界を利用した身代わり。
 風に翻弄されるレインコートは、染みた油に身を燃やしながら、やがて吹き飛ばされて川に没した。

 鍔迫り合いを制しつつ、天桐は石油王の無防備な腹部を蹴り飛ばす。
 同時、王は自ら飛び離れてその衝撃を逸らした。
 狙い違わず、自由になった刀身をふたつ、剣士は鞘に納める。
 奇襲の斬撃が襲うは、素早い動きに長ける王ではなく。
 それは嵐に震える橋梁を支える、鋼鉄のケーブルを容易く切断した。

「ご用心。揺れる吊橋に男女が二人、間違いがあっても不思議じゃない」

 破壊されたのは無数の内のたった二本、橋が落ちることはない。
 だが大質量の張力から解放された強靭なケーブルは、音を切ってしなる鋼の鞭となって石油王の背をしたたかに打った。

「があっ……!」

 想像を絶する痛みに、肺の中の空気がすべて絞り出される。
 しかし、王は倒れなかった。
 大剣を地に突き立て、震える足で立った。

 その絶好の隙への追撃を遅らせたのは、剣士が覚えた、自らの絶技に対する一抹の違和感だった。

(納刀の折に、ザリザリと嫌な引っかかりがあった。打ち合いのせいで刃がこぼれたか。さすがは王家の秘宝、大した業物だ)

 直後、石油王は再び地を蹴った。

 足を止めれば敗北する。
 動かねば、死ぬ。

(……強い。紛うことなき、強敵)

 狙撃の間合いと斬撃の必殺を兼ね備えた正確無比な納刀術。
 目前の剣士へと至るただ一本の橋梁は、無数の刃をその懐に重ね合わせた死の茨道に等しい。

「だが――それがどうしたッ! いずれ劣らぬ傑物との死闘。それを三度と勝ち抜いたからこそ、今ここに、我があるのだ!」

 死地にあって、王は自らを奮い立たせる。
 そして今一度剣士と真正面から向き合うと、天高く吼えた。

「天桐鞘一よ、心せよ! そなたの眼に映るは、かつての愚昧なる傀儡にも傾国の暴君にもあらず。我こそは、アブ・ラーデル18世! ユデン王国を栄光へと導く、最も偉大なる石油王である!」

 天桐は余裕ある笑みと芝居がかった口調を崩さず、だが真摯に王の威迫を受け止めた。

「そいつは身に余る光栄だ。謁見の誉れ、誠に恐悦至極。偉大なる王よ、されば御身に触れうるは、卑小なる道化の刃のみ。存分に躍らせてもらうよ」

 石油王はその双眸に剣士の姿をしかと見据える。
 両手に握るは、自らの血を宿した漆黒の大剣。

 雨風強く吹き荒れる中、距離という概念を無に帰す、絶技の剣士に届くものは何か。
 それは炎ではなく、空でもなく。
 閉じた瞼に浮かんだものは、闘宴劇にて出会い、剣を交わした強者たちの姿だった。

「……その魂。受け継いでみせる!」

 剣士が刀を鞘から抜き放つと同時、王は構えた大剣を横薙ぎに振り下ろした。

石油王六文弾(オイル・バレット)!」

 剣先から放たれたのは、油圧によって高速射出された油滴の弾丸。
 命あるものを冥府へといざなう六発の黒い銃弾が、咄嗟に身をかわした剣士をかすめてアスファルトに弾痕を残した。

石油王(オイル)

 体勢を立て直す暇は与えない。

流刃鞭(ブレイド)ッ!」

 研ぎ澄まされた黒血の鞭が、雷雲を駆る舞龍のごとく剣士を襲う。
 雨粒を切り刻む流刃を、剣士は捌き切る。
 かの鞘が再び剣を呑み込む前に、石油王は加速した。

 極限まで集中した意識の下、鈍化した時間感覚の中で、ついに王は二刀を繰る剣客(・・)を間合いの内にとらえた。
 今まさに剣先を腰に戻さんとするその姿が、降り注ぐ雨粒と共に止まって見えた。

 客の止まった世界に、石油王はいた。

 すべての現実が凍り付くように静止した刹那の時。
 王は、残酷な事実を認めた。

 上段より袈裟斬りに振り下ろす、石油王の黒剣。
 鞘の内に消えていく、剣士の長刀。

 先に動作を終えるのは、後者である。

(ああ――)

 鞘の空洞と重ね合わされた石油王の左胸に、刃が差し込まれる。
 王の目はその一部始終を、刃文のうねりに至るまで委細漏らさず見据えていた。
 皮膚を裂き、肉を掻き分け肋骨を潜り、切先が王の心臓に触れた。

(――我の、勝ちだ。天桐)

 ザリ、と音が鳴った。
 ほんのわずかな、剣の刃こぼれと鞘の内壁が擦れて生じた火花だった。
 同期した空間の内で、その火種は王の胸からあふれ出る漆黒の血に触れた。

《アグア・イグニス》。

 その名は『火の水』を意味する。

「……!」

 天桐は、信じられぬものを見る表情で剣士の生命たる鞘を見つめた。
 内部に生じた小さな爆発で、一筋の、だが致命的なひびが走っていた。
 剣が納められた鞘の内側は、もはや壊れた鞘の内側でしかなかった。

 剣士の胸には、深々と赤い死線が刻まれていた。

「天桐鞘一。想い人の笑顔を真に望むならば、見せてやる」

 水たまりを朱に染め、仰向けに倒れゆく剣士は雨降り注ぐ空を仰ぎ見た。
 いつしか雲には切れ間が生じ、銀色に輝く裏張りから満月の光を差し伸べていた。

「ひとときの夢に溶けゆく幻燈の灯ではなく、永劫の光を。輝ける未来を、その目に」

 天高く掲げた王の大剣が、月光を浴びて夜の帳を貫いた。
 剣士は目を閉じ、深く息を吐いた。

「そいつは――鞘一(おれ)の腹には納まりきらないな」

 かくして狂乱の宴に魅せられた55名。
 舞台には、ただ一人が残る。



 魔人闘宴劇――終幕。
最終更新:2018年08月26日 23:36