3月21日 5時48分
男性は今月11日、地震が起きたとき、福島第一原発の敷地内にある事務棟で勤務していたもので、その翌日、1号機と2号機の詳しい被害状況を確認しに行きました。男性は「原発施設の中もグシャグシャになっていた」「電源系統が使えるか、確認したが、全部だめで、水没して使えないことが分かった」と非常用を含めて電源がすべて使えなくなった当時の状況について語りました。そのうえで、「原子炉を冷やすためのポンプを駆動するために、何とかして電源を引っ張ってこようとした」と述べ、原発の安全のために電力を確保しようと、外部から電源車を持ってきて、ケーブルでつなぐ作業を行ったことを明らかにしました。
福島第1原発では東電だけでなく原子炉メーカーや下請け企業の作業員らも懸命に復旧作業を続けている。水素爆発や構内火災で一時は約50人にまで減った作業員を、一部の海外メディアには「フクシマ・フィフティーズ」と英雄視した報道もあるが、実際は多くの作業員が交代で危機回避に取り組んでいる。近く現場に入るという下請け会社の30代の男性社員が毎日新聞の取材に応じ「不安はあるが、少しでも(事態の)沈静化に協力したい」と話した。
◇「英雄でも何でもない」30代男性
東電によると、原子炉建屋内は20日午前も照明が消えたまま。安全性を考慮して放水時は放水だけ、電気工事の際にはその作業だけを行い、19日現在の従事者は約500人。一方、3号機周辺の放射線量は19日午後2時の3443マイクロシーベルトが、放水後の20日午前3時40分に2758マイクロシーベルトに下がったものの依然高い。20日午前5時現在、以前の制限値だった100ミリシーベルト以上の放射線を受けた作業員は7人。このため東電は交代要員集めを進めている。
取材に応じた下請け会社の30代男性社員は「東電から元請けに話がきて、そこから1次、2次と下請けに要請があった。私も準備が整い次第向かう」という。海外メディアなどの注目については「残っている人がずっと放射線を浴びながら作業していると思われるかもしれないが、実際は法にのっとった管理で人を入れ替えながら作業を進めているので、英雄でも何でもないと思います」と冷静だ。
一方で「不安は当然ありますね。それだけ高い放射線の中でやっているし、現場もどうなるか分からないですから。また爆発が起こるかもしれないし、放射線量が上がるかもしれない。断る選択肢もありますよね。家族からそういうこと言われますけど。すごく難しい判断で、みんな考えていると思います」。
◇「今後も原発で働きたいから」
それでも現場行きを決めたのは「原発の仕事をしてきた職業人としてのプライドより、沈静化した後のこと」だという。「これからもこの仕事で食べていきたいという気持ち。断ったら後々の立場が悪くなるというか。今の会社で、またこういう仕事を続けていきたい気持ちなんで、少しでも協力し、会社の指示にできることは従って(やっていきたい)」と淡々と話した。
現在、現場で作業に携わっているのは東電と子会社の東電工業、原子炉メーカーの東芝、日立のほか、鹿島、関電工やそれらの関係会社など。電源復旧では送電で4社、変電で5社、配電で3社という。地震発生直後に約800人いた作業員は15日の4号機の爆発による退避で一時約50人まで減ったとされるが、それ以降は300~500人で推移。18日に米軍に借りた高圧放水車で3号機に放水したのも、東電工業の社員2人だった。
現在の急務は原子炉冷却に不可欠な電源の復旧作業だが、東電によると、実際に作業できるのは技術を持つ70人程度。しかも高レベルの放射線を長時間浴びるのを避けるため、20人くらいずつ順番に作業せざるを得ない。「真っ暗な中、投光器や懐中電灯を使いながら、防護服と顔を全部覆うマスク、ゴム手袋での作業になる。大変時間がかかり苦労している」(東電の担当者)
作業員の「命綱」となっているのが、原発の敷地中央付近にある免震重要棟だ。07年の中越沖地震で柏崎刈羽原発の事務本館が被災したことを教訓に昨年7月完成した。2階建てで延べ床面積約3700平方メートル。震度7に耐えられる免震構造で、内部には災害時のための「緊急時対策室」が設置されている。
1~4号機の中央制御室は放射線レベルが高すぎて誰もいない状態。普段は緊急時対策室にいる作業員が、定期的に交代で制御室に行き、監視や操作をしている。作業に出る時はやはり防護服を着て現場へ向かい、作業を終えると免震重要棟に入る前に脱ぎ捨てる。大量の防護服が必要とされている。
毎日新聞 2011年3月21日 東京朝刊
2011年3月21日8時5分
東京電力の福島第一原発では、東電社員や消防隊員らが、放射線被曝(ひばく)も覚悟しながら懸命の作業を続けている。
東電によると、20日午前5時の時点で社員7人の放射線被曝が100ミリシーベルトを超えた。この数値は従来の線量上限で、今回は250ミリシーベルトに緩和されているが、そのうちの1人は19日夜、本社との電話で「法律上問題がない範囲でできるだけ作業を進めたい」と語ったという。地震発生以来、原発内の緊急対策室で寝泊まりし、炉心に水を注入したり、放水のために現場を調査したりする作業を指揮している。
一時期の危機を脱し、4基全ての原子炉が冷温停止中の東京電力福島第2原発(楢葉、富岡町)。東日本大震災発生直後からの所内の様子が20日、分かった。
同原発に勤務する複数の職員によると、発生直後からほぼ徹夜で復旧作業に従事。「なんとか電源が復帰し、最悪の事態を避けることができた」ものの「万全ではなく予断は許さない。頑張る」としている。
緊急時対策室が入る免震重要棟では、女性職員でも風呂に入らず、同室の床で寝起きしながら働いているという。「福島第1の事故で何を言っても言葉が軽いが、ひたすら持ち場で働くことしかない」としている。
発電所で働く東電社員、関連企業社員のほとんどが双葉地域の出身者ばかり。家が流された社員も多数いるというが、「帰宅することもなく、わが子とも会えないが、口を一文字に結んで仕事をしている」という。
(2011年3月21日 福島民友ニュース)
< 2011年3月21日 12:25 >
現場での作業は、依然として放射線量が高く、施設内の電話が使えないなど、厳しい条件の下で続けられている。
福島・いわき市の小名浜港に福島第1原発の作業員ら9人が到着 「海王丸」で休憩へ
福島第1原発で作業を行っている作業員らが、いったん休憩などを取るために用意された福島・いわき市の港に着いている「海王丸」に、作業員ら9人が到着した。
小名浜港には、福島第1原発で震災発生直後から復旧作業を続けていた作業員ら9人が、21日午後5時半現在、到着している。
21日は、このあとさらに10人ほどが到着するという。
午後4時10分ごろ、まず第1便として6人が、その30分後に2人、さらに1人と、これまで男性9人が到着している。
手にはわずかな食料やタオルなどをビニール袋に入れて持ち、震災直後から作業を続けてきた疲れの見える表情、ひげも濃く残ったままで、恐怖と戦ってきた極限状態を物語っていた。
被ばくに関するスクリーニングを受けたあと、第1原発で作業をしていた人は、「最初に比べると、落ち着いた状態になってきたというふうに考えています。電源の復旧作業など、そのあたりに従事していました」、「ずっと24時間、復旧作業に対応してまいりました。大変ご迷惑をおかけしたと思っています。最大限、復旧の方に素早く取りかかりたいと思っています。国とか消防庁の方々に支援をいただきまして、原子炉の冷却の方には十分寄与できて、助かっていると感謝しております」と話した。
「海王丸」には、食事もしっかりと準備されていて、2週間分の食事は備蓄されているという。
携帯を持っていた作業員は、「やっと家族に連絡ができる」と話していた。
(03/21 17:42)
福島第1原発で復旧作業にあたっている東電社員らの休憩・宿泊場所を確保するため、独立行政法人・航海訓練所の練習船「海王丸」が21日、福島県いわき市の小名浜港に接岸した。同日夕、乗船する作業員らのうち2人が毎日新聞の取材に応じ「誠心誠意、復旧に努める。前向きに頑張る」と語った。
海王丸は20日午前10時に東京港を出港し、21日午前9時ごろ小名浜港に接岸した。定員は乗組員を除き128人で、作業員は食事や入浴をして過ごす。27日まで停泊する予定。
21日午後4時20分ごろから、同原発で除染を受けた作業員らが続々到着。被ばく線量を測るスクリーニング検査を船の前で受けた後、次々と乗船した。
地震発生時に原発敷地内の事務本館にいたという男性は、上下とも灰色のスエット姿。「現場の士気は高かった。(発電所の)所長が『頑張ろう』とよく声を掛けてくれた。電源が通った時や給水車が来た時には、大きな拍手がわいた」と話した。
男性によると、地震で事務本館室内には大きな損傷はなかったが、津波で各施設の被害が広がったという。建物に居続ける生活が続いたが「国を守ろう、地域を守ろうとの思いだった。協力企業の皆さんも手伝ってくれた」という。「皆様には本当に申し訳ない。このような船まで用意していただき、ありがとうございます」と頭を下げた。
オレンジ色の帽子をかぶり送迎用のワゴン車から降りた男性はビニール袋に入れた荷物を抱え、やや疲れた表情ながらはっきりした口調で取材に答えた。男性は、作業の拠点となる原発敷地内の免震重要棟で支援業務にあたり、放射線量を記録するため、防護服を着て外に20~30分出る作業もした。3度の水素爆発については「振動はありましたが、重要棟では影響はありませんでした」と話し、「誠心誠意、復旧に努めています。この状況をできるだけ収めるため、これからも前向きに頑張ります」と語った。
作業員は海王丸で1泊し、22日朝から作業に戻る予定。海王丸では今後、作業員が交代で休むほか、避難所にいる市民への開放も検討しているという。
毎日新聞 2011年3月21日 19時49分(最終更新 3月21日 20時11分)
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。
1 :名無しさん@お腹いっぱい。(長屋):2011/03/22(火) 00:54:15.44 ID:RkMAYSob0
海外のメディアからは、福島第一原発の危機回避にあたる作業員らの行動をたたえる報道が相次いでいる。
米ニューヨーク・タイムズ紙が15日、原発にとどまって危機回避の作業を続けた東京電力の社員ら50人を「最後の砦(とりで)」として取りあげた後、メディアは「フクシマ50」という名称を使い始めた。英スカイニュース(電子版)は、日本人の少女がネットの簡易投稿サイト「ツイッター」に「お父さん原発行っちゃったよ。母さんがあんなに泣いたの初めて聞いた。お父さん、生きて戻ってきて」と書き込んだ内容を紹介した。(ニューヨーク 吉形祐司)
◇
中国では「福島50勇士」などと呼ばれている。国内のインターネット上では、「日本の勇士に敬意を表する。現代の人類の英雄だ」などと称賛の声が多く寄せられている。
中国紙「中国青年報」は21日、「福島決死隊、現代日本の武士」と題して紹介。「原発で管理に当たる『決死隊』は、日本ばかりではなく世界も救うという重大な任務を担い、最高の称賛を受けている」とたたえた。(北京 関泰晴)
◇
21日付の韓国中央日報は、外部からの送電線をつなげる作業に、東京電力のほか東芝や日立製作所の社員が危険を顧みずにあたっていることに焦点をあて、「希望の電力つないだ」と報じた。(ソウル 門間順平)
(2011年3月22日09時28分 読売新聞)
2011年3月22日18時51分
放射線医学総合研究所(千葉市)は22日、福島第一原発で注水作業や復旧作業にあたった184人、周辺住民193人を対象にした21日までの検査の結果、全員、放射線被曝(ひばく)の程度は軽く、治療が必要な人はいなかったと発表した。184人は12~20日に作業した人たちで、東京電力社員ら166人、自衛隊員5人、警視庁機動隊員13人。
「放射線量はいつもより多く、怖かった」。
東日本巨大地震発生時に東京電力福島第一原子力発電所の敷地内に居合わせ、その後も、5、6号機の修復作業に参加した作業員が22日、現場の様子を語った。
作業員は東電の下請け会社に勤務する50歳代の男性。地震発生時は原発敷地内の事務所におり、強い揺れを感じた。自宅が避難指示区域にあったため、家族とともに福島市内の避難所に身を寄せていたが、会社からの呼び出しを受け、17~19日、現場に出向いた。
与えられた任務は、5、6号機内の使用済み核燃料の一時貯蔵プールの冷却装置を冷やすこと。原炉建屋から50~60メートルまで近づき、海水をくみ上げてホースで送水、冷却装置の機能を回復させる作業だった。
建屋の外での作業で、通常は普通の作業着でも作業できるエリアだったが、今回は防護服に身を包み、放射線量測定機器を身に着けた。4~5時間の作業を終えると、体に受けた放射線量の値は、平時に建屋内で仕事をしていた時よりも高かった。建屋の周辺には、津波を受け、ひっくり返った車や作業用の足場に使われていた鉄パイプが散乱していた。国内各地の原発の仕事に約30年間携わってきたが、「津波の恐ろしさを知った。見たことのない光景で、いつもの仕事場とは違う所に来たようだった」。
作業の前に1、3号機が水素爆発した様子を避難先のテレビで見ていたため、現場に入る前は「放射線は目に見えない。管理不能になった状況は怖い」と感じていた。一方で、「貯蔵プールの温度を下げるのが俺の使命」と気持ちを奮い立たせた。作業が終わり、海水をくみ上げるホースに手を当てた時、水の流れる感触が伝わってきた。プールの温度も下がったと聞いた。「役割を果たせてホッとした」という。気がかりは、いつ自宅に戻れるのかということ。自宅周辺の放射線の汚染がどの程度なのか。避難所での暮らしは当分続く。
(2011年3月23日09時18分 読売新聞)
1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/09(土) 21:57:53.43 ID:d/Bi4Oc/0
特定されると嫌だから詳しい作業内容とかは勘弁な
総レス数 354
2011.04.14
収束への見通しがつかない東京電力福島第1原発で、水素爆発や汚染水漏れよりも重大な事態が起きていた。その勇敢さから「フクシマ50」と称賛された現場の作業員が、事故対策統合本部が強引に指示した1号機への窒素注入を「危険だ」と猛反発。ボイコット寸前だったというのだ。『週刊文春』の最新号が伝えたもので、原発の状態は決死の作業員に支えられているだけに事は深刻だ。
同誌によると“反乱”の一部始終はこんな具合だ。
「もう、やってられねぇ!」
声の主は第1原発の吉田昌郎所長。5日、現地の免震重要棟にある会議室と、東電本社に設置された事故対策統合本部を結んだテレビ会議中だった。
この前日、テレビ会議で吉田所長は原子炉へ窒素注入を実施するのか質問した。東電幹部は「いち早く1号機に実施しなければならない」と、準備を開始するよう指示。これに対し、吉田所長は「予想もつかないことをやることは大きなリスクだ」と事故後初めて声を荒らげた。
そして5日。吉田所長は抗議の意味も込めたのか、サングラス姿で会議に臨んだ。前日に続き、本部が窒素注入開始への説得に入ると、「危険なところへスタッフを行かせられない」「それでも窒素封入(注入)をやれというのなら、俺たちはこの免震棟から一歩も出ない!」と怒りを爆発させたという。
1979年に東電入りした吉田所長は、入社直後に第1原発2号機の建設にかかわった。本社で原子力設備部長などを歴任したが、社歴の半分以上は福島で生活した。昨年6月25日、第1原発所長に就任。大事故が「第2のふるさと」という福島で起きたやりきれなさ。そして、震災後の対応による疲労がピークに達し、感情的になってしまったのかもしれない。
結局、7日未明になり、1号機への窒素注入は「新たな水素爆発をふせぐため」として敢行。この間、東電本社は本部で説明にあたっていた技術者を第1原発に派遣し、吉田所長を説得、予定された作業は本部の指示通りに実施された。
1~3号機の制圧に手間取るなか、4号機でも燃料損傷とみられる現象が起こった。また、経産省の原子力安全・保安院は14日までに相次ぐ余震を受け、原子炉建屋の耐震補強工事を行うよう東電に指示。現場は、また新たな作業に追われることになる。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。
1 :自動人力車φ ★:2011/04/15(金) 01:32:37.51 ID:???0 ?PLT(12281)
2011年04月19日 15時30分
最終更新:2011年03月25日 05:48