【袖師町誌 (袖師町誌編纂委員会) 1961.6 抜粋】



石ヶ谷家家系図(石ヶ谷五郎造蔵)
 嶺の石ヶ谷五郎造家に石ヶ谷一族の系図がある。近世に古い系図から書き写したものと思われる。天児屋根命から藤原不比等を経て遠江権介為憲に至り、その子孫にあたる西郷太郎太夫行清が、遠州佐野郡西郷、五谷、五明にて千六百貫の知行を領し、その孫石ヶ谷十郎左衛門政清より代々石ヶ谷を姓とした。その長男は石ヶ谷十助清道と言い、幕府御書院御番をつとめ七百石を領した。政清の三男清重は海野又太夫と称し五百石御書院御番をつとめたが、病身の故をもって駿州足久保に退去した。その孫弥兵衛清勝は正徳六年二月八日没し(法名禅得現清信士)、清勝の次男清升は朽木周防守(六千石旗本)の家臣となり百石を領したが、病を得て駿州に退去し、その子孫が現在の石ヶ谷五郎造であり、当町の石ヶ谷一族はみなその血統であると誌されている。掛川誌によると、「西郷村上西部に江戸南町奉行石谷十蔵貞清の故宅地がある。石谷十蔵は代々西郷に住し、中島に石ヶ谷の古墳ありその辺りを宅跡と言い、石谷の山に九つの大石があり、名字石と呼び、兜石、ごばん石などの名がついている。石ヶ谷氏の九曜の家紋はこの石によると言われている。石ヶ谷十蔵は十郎右衛門の次男五郎太夫清定の次男で、後左近将監と称し、寛文十三年(一六七三)九月十一日江戸に没した。行年七十七」とあり。幕末の旗本、石谷鉄之丞(三百俵)、石谷帯刀(千百石)はその子孫であろう。この系図の本紙は東京で焼失した由である。この石ヶ谷十蔵貞清と袖師の石ヶ谷一族は同一家系に属する。

【袖師町誌 抜粋】



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最終更新:2012年05月20日 12:00