【寛永諸家系図伝 第十 (太田資宗/ほか編 斎木一馬/ほか校訂) 1986 抜粋】



藤原氏爲憲流

石谷(いしがや)
家伝にいはく、もとは二階堂と号す、大織冠(藤原鎌足)十一代遠江守爲憲の後胤なり、政清遠江国石谷村に住す、村の西南に大岩石あり、其岩側に八幡の庿あり、是村の氏神なり、政清氏神のましますところを崇、このゆへに二階堂をあらためて石谷と称す。

行秋(ゆきあき)
二階堂因幡守 法名行欽。

行晴(ゆきはる) ※行秋の後
右馬允
遠州西江(さいごう)庄の住人西江民部少輔が二男。民部少輔は行秋が妹婿なり。そのいもうと行晴をうミて死す。行秋、行晴をやしなひて子とし、家督をつがしむ。文明十六年、六十七歳にて死す。法名宗印。

行清(ゆききよ) ※行晴の後
西江太郎大夫 遠江西江の庄に生る。
二階堂をあらためて西江と称し、祖父民部少輔の称号をもちゆ。行清が弟行捷は二階堂と称す。永正元年九月十三日、五十九歳にて死す。法名三休。

清長(きよなが) ※行清の後
二階堂左馬助 西江庄石谷村に生る。
祖父行晴、清長を養育しそのひとヽとなるにをよびて元服せしむるとき、太刀をゆづりあたへ、二階堂をもつて称号とす。天文二年二月九日、六十一歳にて死す。法名宗月。

政清(まさきよ) ※清長の後
石谷十郎右衛門尉 生国同前。
元亀二年三月十日、政清ならびに嫡男政信・二男清定一同にめされて東照大権現につかへたてまつる。
天正二年四月十五日、七十二歳にて死す。法名龍月道隆。

政信(まさのぶ) ※政清の後
十右衛門尉 生国同前。
元亀二年三月十日、父政清ならびに政信・二男清定父子三人めされて大権現(家康)につかへたてまつる。
慶長十年二月より台徳院(秀忠)殿につかふまつる。
元和五年六月五日、七十五歳にて死す。法名、良完。

清定(きよさだ) ※政清の後
五郎大夫 生国同前。
元亀二年三月十日、父政清とともにめされて大権現(家康)につかへたてまつる。
慶長六年五月二日、五十五歳にて死す。法名道無。

清正(きよまさ) ※清定の後
友之助 生国同前。
慶長七年、めされて大権現につかへたてまつる。元和二年より台徳院殿・将軍(家光)家につかへたてまつる。

貞清(さだきよ) ※清定の後
十蔵 武州多東和泉村に生る。
慶長十四年、めされて台徳院殿につかへたてまつり、今将軍家につたふまつる。

清充(きよみつ) ※清正の後
七之助 尾州那古屋に生る。
寛永十年八月十五日、将軍家につかへたてまつり、御小姓の番をつとむ。

政勝(まさかつ) ※政信の後
市右衛門尉 生国同前。
慶長六年九月、台徳院殿に謁したてまつり、御小姓の番をつとむ。
慶長十一年十月より大御番をつとむ。
寛永十八年三月、御裏門の番頭となる。
将軍家にいたりて四十一年の間つかへたてまつる。

成勝(なりかつ) ※政勝の後
兵四郎 武州江戸に生る。
寛永七年六月、将軍家の謁したてまつる。
同十四年正月より大御番をつとむ。



家紋九曜



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最終更新:2014年12月27日 16:48