【駿河記 全二冊 (桑原藤泰) 昭和49年4月10日 抜粋】



石貝氏 安倍七騎と呼ぶ武人の内、昔此處に居住す。石貝孫兵衛某其人なり。中頃火災に罹て古文書等悉く亡失す。故に今其據とする證なし。子孫貧民原村の内に住し、半左衛門と稱せり。



【藥澤】寛永改小判貳兩貳朱中糸目 田額拾四石六升三合 戸數五十七軒
 〇十二天神社
 〇里 中西 里人望月氏云昔源賴朝卿治世に、此所に某と云武士あり。幕府に忠節ありて、井河七鄕を賜ひて勢ひ猛なりしと傳。今此屋敷跡に、中西次右衛門と云貧民住す。彼武人の子孫と云。然共彼家舊記亡て未ㇾ詳。
 雑記曰、壽永二年の秋、木曾義仲反逆の時、木曽が郎從海野・望月・仁科・高科・根津・風間等の者謀て、信濃國より駿河・遠江の國へ山路を越て、間道を經て、軍兵を出さむとて、駿河安倍の地侍仁科彌七と云者、淸水冠者の供したる海野小太郎幸氏が叔父なれば、仁科彼が催促に應じ、賴朝卿に内通し、計略を以て彼徒を討んとて、安倍鄕の地侍柿島の朝倉、落合の狩野、平野の末高、俵峰の杉山、足久保の石貝、千頭の大間等を促し、木曾が軍を猪用に引入悉く討取、其首を鎌倉に送り實檢に入けり。各恩賞を賜ふ。仁科に猪用七鄕を賜ふと云云。
 此事正史には不ㇾ見ども、若くは實説にやあらなむ。當村小里中西の古屋敷仁科の居地なるか、尚重て可ㇾ考。


※《図書助論考】寿永二年(1183年)。柿島の朝倉は旗本朝倉氏の家伝では越前朝倉氏の分流なので年代が合わない。朝倉氏は源平合戦時代頃に朝倉を称しているので、安倍地域に分流があるかという疑問。石貝が遠江石谷氏の事なら家伝で石谷を名乗ったのが1500年代。正史ではなく雑記?なので、人名他の信憑性に疑問。



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最終更新:2016年05月02日 13:10