【静岡県の名字 渡辺三義 昭和63年8月25日 抜粋】




P45~

石ヶ谷、石谷(いしがや、いしたに)
 石ヶ谷と石谷は本来同姓。石ヶ谷は静清地区に多くあるが石谷姓は少ない。ランクは三〇〇位に入らないが県下にゆかりが深い姓である。
 藤原氏流石ヶ谷(石谷)氏は藤原為憲の後裔で、二階堂清長の子十郎左衛門政清の時、遠江石ヶ谷(掛川市)に住んだので石ヶ谷に改姓したという。政清は初め今川義元、氏真に仕え永禄一二年(一五六九)から徳川家康に従い、その子政信、清定も家康に仕え、清定の二男十蔵貞清は江戸町奉行を務め、その子孫は旗本二,五〇〇石となった。
 一族の石谷孫九郎頼辰、その子兵部大輔光政は石谷村に住み、永禄期(一五五八-七〇)足利将軍義輝に仕えた。石谷氏一族は安倍郡足久保村(静岡市)に居住し、戦国期には安倍七騎の一に数えられ今川氏に仕えたが、重郎左衛門は今川氏滅亡後武田氏に仕え後に徳川家康に仕えた。清定の弟清重は運の又太郎と称し幕臣となったが、後に一族の住む足久保に閑居し、その孫清勝の二男清升は朽木家臣となるが病のため駿河に退去し、子孫は袖師(清水市)に永住したと伝えられるから、足久保、袖師、幕臣の石ヶ谷(石谷)氏は同族となる。
◇石ヶ谷(石谷)氏の紋は九曜紋であるが、伝承によれば発祥は通説の星晨信仰からではなく、石谷の山にあった九つの大石にちなんだという。外に黒餅に九曜、追沢瀉紋。



P229~

松浦(まつうら、まつら)
 松浦姓は西部が圧倒的に多く掛川市はランク二位、県ランク四六位。九州肥前国松浦庄や和泉国松浦村から発祥し、肥前松浦氏は嵯峨源氏渡辺綱の後裔と安倍宗任の末孫があり、後世名高い水軍松浦党となって各地に繁延した。和泉松浦氏は安倍氏の流裔で戦国期、摂津、伊勢国を領して豊臣氏に仕えた。
 駿河の松浦氏は嵯峨源氏渡辺氏流で、渡辺源次郎綱の子、源太夫久が松浦を称し、その孫、源次郎勝が九州探題職に赴任した今川了俊に仕え、了俊が帰国の時、従って遠江国に来住し、その子、源太夫通は駿河国駿河国に住み駿河松浦氏の祖となった。通の孫、源左衛門房時、その子新左衛門通直父子は今川義忠に仕え、文明八年(一四七六)、遠江塩買坂で主君に殉じ、通直の子源太夫親直、その子新介治直父子は今川氏親に仕え、治直は遠江引間城(浜松市)攻めで戦死し、治直の子左近大夫康直は今川義元に仕え桶狭間の戦(一五六〇)で討死した。この子孫は、江戸時代郷士となり、志太郡鵜綱村(島田市)の開発につとめ代々、新を通名とし名主をつとめたという。また建武三年(一三三六)、九州松浦一族の峯五郎通は南朝に味方し駿河高橋で討死したという。明応六年(一四九七)、佐野郡倉真(掛川市)城主に松浦兵庫介があり、永禄初期、今川家臣に松浦五左衛門、左近太輔などがあるが一族である。江戸中期、初倉庄(島田市)に松浦孫十安久や清兵衛、五明村(掛川市)の庄屋に松浦氏があり、領家村(掛川市)の名主松浦氏の先祖は松浦大郎大夫道福という。
 ◇渡辺氏流は三星一文字紋、三星紋、梶葉、三引両紋。



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最終更新:2014年01月20日 09:37