歴史的事件など
*1 石谷政信系 700石旗本家
*2 石谷清定系 1,100石旗本家
*3 石谷貞清系 2,500石旗本家
*4 桑原政重系 800石旗本家
*5 石谷清重系 250石尾張藩士
その他
特記事項
明和4年 1767年 田沼時代開始
明和4年2月20日 1767年 石谷清茂*1が書院番番士となる。
明和4年12月26日 1767年 石谷清昌*4が長崎から江戸に戻る際、摂津国、河内国の水害地域を巡検し、畿内の収納を沙汰をした褒美として時服3領を賜る。
明和7年 1770年 石谷清暠*2 生誕 (神田正之の4男、妻は石谷清憐*2の娘)
明和7年3月23日 1770年 石谷清馨*2 死没
明和7年6月5日 1770年 石谷清憐*1が先に養子に出されていた兄である石谷清馨*2の養子となり家督相続。
明和7年6月17日 1770年 石谷清昌*4が長崎奉行の兼務を解かれ、下野国都賀郡の内に300石の領地を加えられた。
明和8年 1771年 石谷清豊*4(田沼意誠の5男、妻は石谷清定 (豊前守)の娘) 生誕
明和8年5月1日 1771年 石谷澄清*3が御徒頭となる。
明和8年12月18日 1771年 石谷澄清*3が布衣を許される。
安永元年12月11日 1772年 雪林照光大姉(源八の母) 死没
安永2年3月25日 1773年 石谷因清*3が徳川家治に拝謁する。
安永3年2月15日 1774年 石谷澄清*3が西ノ丸目付となる。
安永4年4月14日 1775年 石谷清憐*2が書院番番士となる。
安永4年9月20日 1775年 石谷清昌*4が徳川家治が日光社参に伴う宿場道を監視するため同地に赴く。
安永4年11月4日 1775年 石谷清昌*4が田安徳川家家老を兼務する。
安永5年4月 1776年 石谷清昌*4が日光社参の際、街道の監視を承り先導となった。
安永5年4月 1776年 石谷清茂*1が徳川家治の日光社参の際に諸道具奉行を勤める。
安永5年 1776年 石谷清憐*2が徳川家治の日光社参に従う。
安永5年6月27日 1776年 石谷清昌*4が日光社参の先導の褒美として時服3領と黄金5枚を褒美として賜った。
安永6年4月21日 1777年 石谷清茂*1が御徒頭となる。
安永6年11月25日 1777年 石谷澄清*3が西ノ丸先手鉄砲頭となる。
安永6年12月18日 1777年 石谷清茂*1が布衣を許される。
安永7年 1778年 石谷直清*3 生誕 (仁賀保誠善の3男、母は小出英好の娘、妻は石谷因清*3の娘)
安永7年5月6日 1778年 石谷澄清*3が務めを辞して寄合に入る。
安永8年4月15日 1779年 石谷清昌*4が留守居となる。
安永8年4月18日 1779年 石谷清定 (豊前守)*4が徳川家基の薨去に伴い寄合に入る。
安永9年1月24日 1780年 石谷澄清*3 死没
安永9年4月4日 1780年 石谷因清*3が父である石谷澄清*3の家督相続。
天明元年4月21日 1781年 石谷清定 (豊前守)*4が小納戸となる。
天明元年5月7日 1781年 石谷因清*3が小姓組番士となる。
天明元年5月28日 1781年 石谷清定 (豊前守)*4が西ノ丸小納戸となる。
天明2年10月27日 1782年 石谷清昌*4が職を辞して寄合に入った。
天明2年11月10日 1782年 石谷清昌*4 死没
天明2年12月24日 1782年 石谷清定 (豊前守)*4が父である石谷清昌の家督相続。
天明4年11月18日 1784年 石谷清豊*4が小納戸となる。
天明4年12月16日 1784年 石谷清豊*4が布衣を許される。
天明5年9月 1785年 石谷因清*3が遠江国榛原郡の領地を遠江国豊田・城東二郡に移された。
天明5年9月21日 1785年 石谷清豊*4が小姓となる。
天明6年 1786年 田沼時代終了
天明6年閏10月7日 1786年 石谷清定 (豊前守)*4がより本丸小納戸となる。
天明6年閏10月7日 1786年 石谷清豊*4が徳川家治薨去に伴い小納戸に戻る。
天明8年 1788年 石谷清茂*1が西ノ丸目付となる。
天明8年4月1日 1788年 石谷清豊*4が小姓となる。
天明8年7月7日 1788年 安窓貞意大姉(兵蔵の母) 死没
寛政2年 1790年 石谷清香*4(石谷清豊*4の長男) 生誕
寛政3年5月11日 1791年 石谷清茂*1が禁裏付になる。
寛政3年7月11日 1791年 石谷清茂*1が従五位下肥前守に叙任される。
寛政3年12月16日 1791年 石谷清豊*4が従五位下周防守に叙任された。
寛政4年12月24日 1792年 石谷清定 (豊前守)*4が徳川家治の養女種姫の用人となる。
寛政6年2月25日 1794年 石谷清豊*4が使番となる。
寛政6年3月末日 1794年 石谷清定 (豊前守)*4が種姫逝去により用人の勤めを解かれた。
寛政6年5月6日 1794年 石谷因清*3 死没 (年代不明:的を射て時服を賜った。)
寛政6年8月3日 1794年 石谷直清*3が石谷因清*3の娘を娶り末期養子として家督相続。
寛政7年6月8日 1795年 石谷清定 (豊前守)*4が西ノ丸小納戸となる。
寛政8年9月4日 1796年 石谷清憐*2 死没
寛政8年12月3日 1796年 石谷清暠*2が養父である石谷清憐*2の家督相続。
寛政9年2月9日 1797年 石谷清暠*2が徳川家斉に拝謁する。
寛政9年7月13日 1797年 石谷清豊*4が駿府目付代となる。
寛政9年9月19日 1797年 石谷清茂*1が持筒頭となる。
寛政9年11月18日 1797年 石谷清定 (豊前守)*4が従五位下豊前守に叙任された。
寛政10年3月15日 1798年 石谷清順*1 (石谷清茂*1の長男、妻は有田貞勝の娘)が徳川家斉に拝謁する。
寛政10年5月25日 1798年 石谷清茂*1 死没
寛政10年8月3日 1798年 石谷清順*1が石谷清茂*1の家督相続、小普請に入る。
寛政10年8月26日 1798年 石谷清香*4が徳川家慶の御伽となる。
寛政11年5月22日 1799年 石谷清順*1が小納戸となる。
享和2年1月21日 1802年 石谷清豊*4が火事場見廻を兼務する。
享和2年10月8日 1802年 石谷清豊*4が西ノ丸目付となる。
享和3年12月23日 1803年 石谷清豊*4が本丸目付となる。
享和4年1月26日 1804年 石谷清香*4が徳川家慶の小姓となる。
文化2年5月 1805年 石谷清香*4が本丸小姓となる。
文化2年11月5日 1805年 石谷清順*1が西ノ丸小納戸となる。
文化4年1月11日 1807年 石谷直清*3が書院番より使番となる。
文化6年4月29日 1809年 石谷清豊*4が田安徳川家家老となる。
文化9年12月16日 1812年 石谷直清*3が火事場見廻を兼務した。
文化11年9月28日 1814年 觀宗益靜居士(兵蔵) 死没
文化14年1月11日 1817年 石谷清豊*4が大目付分限帳改となる。
文化14年5月20日 1817年 石谷直清 死没
文化14年8月4日 1817年 石谷穆清*3(石谷直清*3の子)が石谷直清*3の家督相続。小普請となる。
文政8年12月7日 1825年 石谷左内*4(石谷清豊の子)が新規召出で小納戸となる。
文政10年12月14日 1827年 石谷左内*4が小姓となる。
文政13年 1830年 石谷又助*5が尾張藩士録に御馬預の記載あり。250石。
文政13年 1830年 石谷喜太八*5が尾張藩士録に小十人の記載あり。30俵
天保2年3月23日 1831年 石谷穆清*3が書院番番士となる。
天保3年6月24日 1832年 石谷清豊*4 死没
天保8年1月11日 1837年 石谷穆清*3が使番となる。
天保8年2月19日 1837年 大塩平八郎の乱
天保8年4月2日 1837年 石谷左内*4が西ノ丸小姓となる。
天保8年9月10日 1837年 石谷穆清*3が布衣を許される。
天保11年11月17日 1840年 稱善慈孝大姉(五左衛門の母) 死没
天保12年3月23日 1841年 石谷左内*4が西ノ丸小納戸となる。
天保12年5月12日 1841年 石谷左内*4が思召有之御役御免となる。
天保14年2月19日 1843年 石谷穆清*3が火事場見廻を兼務する。
天保14年7月17日 1843年 秋覚了天居士(五左衛門の父) 死没
天保15年1月11日 1844年 石谷清倚*2(父は石谷主水、石谷氏との血縁関係不明)が西ノ丸書院番使番となる。
天保15年9月10日 1844年 石谷穆清*3が目付となる。
弘化3年10月6日 1846年 石谷金之丞*4(石谷佐内*2の子)が石谷佐内*2の家督相続。小普請となる。
嘉永元年5月27日 1848年 石谷清倚*2が職を辞す。
嘉永2年1月4日 1849年 梅林智香居士(五左衛門の子) 死没
嘉永2年12月24日 1849年 石谷穆清*3が堺奉行となる。
嘉永2年12月25日 1849年 石谷穆清*3が諸大夫となる。
嘉永5年5月19日 1852年 石谷穆清*3が大坂西町奉行となる。
嘉永6年 1853年 黒船来航
嘉永7年11月4日 1854年 安政東海地震
安政元年 1855年 石谷清倚*2が寄合であった記載がある。
安政元年 1855年 石谷錬蔵*1が石谷清順*1の家督を相続し小普請に入っていたという記載がある。
安政元年5月20日 1854年 石谷穆清*3が普請奉行となる。
安政2年8月9日 1855年 石谷穆清*3が勘定奉行となる。
安政3年7月26日 1856年 石谷帯刀*2(丹羽氏福の子、石谷清倚の養子となる。石谷氏との血縁関係不明)が、養父である石谷清倚*2の家督相続。
安政5年 1858年 安政の大獄開始
安政5年5月24日 1858年 石谷穆清*3が江戸北町奉行となる。
安政5年5月29日 1858年 石谷帯刀*2が小姓組に入る。
安政5年5月29日 1858年 石谷鉄之丞*3(石谷穆清*3の子)が小姓組番士となり切米300俵を賜る。
安政5年5月29日 1858年 石谷金之丞*4が小姓となる。
安政5年 1858年 石谷穆清*3が五手掛として安政の大獄の処断に関与。
安政6年 1859年 安政の大獄終了
安政6年6月2日 1859年 石谷鉄之丞*3が進物番を兼務する。
安政6年12月14日 1859年 石谷鉄之丞*3が小納戸として役料300俵を与えられた。
安政6年12月16日 1859年 石谷鉄之丞*3が布衣を許される。
安政6年12月28日 1859年 石谷穆清*3が留守居次席となる。
安政7年3月3日 1860年 桜田門外の変
万延元年 1860年 石谷帯刀*2が中奥番となる。
文久元年8月24日 1861年 石谷鉄之丞*3が小姓となる。
文久2年6月5日 1862年 石谷穆清*3が一橋徳川家家老となる。
文久2年8月24日 1862年 石谷穆清*3が講武所奉行となる。
文久2年閏8月25日 1862年 石谷穆清*3が西ノ丸留守居となる。
文久2年11月23日 1862年 石谷鉄之丞*3が父である石谷穆清*3の家督相続。
文久2年11月23日 1862年 石谷穆清*3が江戸北町奉行時代の飯泉喜内に対する取調べに問題があったとして隠居謹慎を命じられる。
文久3年1月14日 1863年 石谷穆清*3が謹慎命令を解かれる。
文久3年1月19日 1863年 石谷鉄之丞*3が諸大夫となる。
文久3年9月1日 1863年 石谷鉄之丞*3が使番となる。
元治元年 1864年 長州征伐
元治元年6月22日 1864年 石谷鉄之丞*3が小姓となる。
元治2年1月20日 1865年 石谷穆清*3が再び講武所奉行となる。
元治2年4月10日 1865年 石谷鉄之丞*3が頭取介となる。
慶応元年閏5月16日 1865年 石谷穆清*3が勤労を賞され切米300俵を賜る。
慶応2年6月 1866年 石谷鉄之丞*3が第二次長州征伐の御進発供奉御役人付に名前を挙げられる。
慶応2年11月6日 1866年 石谷鉄之丞*3が寄合に入った。
慶応2年11月18日 1866年 石谷穆清*3が講武所奉行を免職。
慶応3年10月15日 1867年 大政奉還
慶応3年10月末日 1867年 石谷鉄之丞*3が再び使番となる。
慶応4年 1868年 戊辰戦争開始
慶応4年5月15日 1868年 上野戦争
明治元年 1868年 石谷清倚*2が上野戦争において入間村の油屋清兵衛の道案内で泉龍寺まで退去。
明治2年 1869年 戊辰戦争終結
明治23年8月25日 1890年 白蓮妙光大姉(五左衛門の妻 没年81才) 死没
明治29年1月6日 1896年 大圓覚道居士(五左衛門 没年90才) 死没
明治32年12月27日 1957年 石應連谷居士(五郎作) 死没
明治33年1月22日 1900年 狐室自操大姉(五郎八の妻 ゲン 没年69才) 死没
明治43年10月9日 1910年 悟岳明道居士(五郎七) 死没
明治43年10月13日 1910年 延山宗壽居士(五郎八 没年80才) 死没
昭和14年1月2日 1939年 至孝道誠大姉(五郎七の妻 とね 没年83才) 死没
昭和19年11月15日 1944年 天運院至道豊儉居士(豊吉 没年27才) 死没
昭和31年2月21日 1956年 梅岳妙香大姉(五郎造の娘 八重子 21才) 死没
昭和38年9月8日 1963年 明光道安大姉(五郎造の娘 安津子 33才) 死没
昭和47年3月3日 1972年 慶雲寿徳大姉(のよ 93才) 死没
昭和47年6月28日 1972年 直翁寿昌居士(五郎七の子 直作 91才) 死没
昭和54年9月29日 1979年 麗山謙心大姉(ミヨ 77才) 死没
昭和63年10月21日 1988年 永岳慈源居士(五郎造 没年90才) 死没

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最終更新:2014年08月14日 12:55