【干城録 第一 (校訂者 林亮勝 坂本正仁) 1997年4月27日 抜粋】






干城録巻第十四目録

い部六

石谷十郎右衛門藤原政清 石谷三蔵清順家
 附 石谷五郎大夫藤原清定 石谷庄之助清暠家
   石谷左近将監藤原貞清 石谷善次郎直清家

(省略)


干城録巻第十四

  いしかや
   石谷

十郎右衛門藤原政清は左馬助清長か子にして(寛永譜)二階堂因幡守行秋か裔なり。(鵞峯文集)祖父ハ太郎大夫行清といふ。
行清、永正元年九月十三日に死す。法名を三休といふ。(家譜)此人遠江佐野郡西郷の庄に居住せしかハ西郷を家号とす。(鵞峯文集)
父清長ハ祖父左馬允行晴に(按するに、政清か曾祖父なり。)養育されて人となり、元服のとき行晴より太刀を譲りあたへられ、ふたヽひ二階堂を称し、(家譜)天文二年二月九日、六十一歳にして死す。法名を宗月といふ。
政清、遠江国石谷村に住しけるに(寛永譜)この頃今川義元駿府に在て兵威強かりしかハ、やかて其麾下に属し、西郷十八士の長とそなりにける。(鵞峯文集)ついて氏真につかへ、氏真没落の後、永禄十二年正月、東照宮より、遠江国飛鳥内一色名の采地、こふにまかせてこれまてのことく永く所務すへし、と御黒印を賜ハりたり。(家譜○按するに寛永譜にハ、元亀二年、召出されしと記す。家譜にハ、永禄十二年、旧領をたまハるとあり。首尾かなハさるに似たれとも、氏真没落の後、御家に属せんことをこひけれハ、まつ旧領安堵の御黒印をたまひ後に召仕ハれし、と見えたれハ、今両存す。)
かくて元亀二年三月、政清ならひに其子政信・清定の兄弟とともに召出され東照宮につかへ奉る。(寛永譜)
其頃西郷の士戸塚氏の女、東照宮に近侍し西郷の局といひける故、政清これを避て石谷を家号となせり。(鵞峯文集)
後天正二年四月十五日、七十二歳にて死す。法名を龍月といふ。
其子十右衛門政信ハ、遠江に生る。(寛永譜)実ハ三男なり。兄を入沢五右衛門行重といふ。武田家に仕ふ。次を呑説といひ、出家して武蔵国成田竜淵寺の住職となる。(家譜)
政信、元亀二年、父とおなしく召出され東照宮に仕へ奉り、天正十八年、関東に入らせ給ひし時、武蔵国多摩郡の内にをいて采地二百石を賜ひ、慶長十年より台徳院殿に仕へ、元和五年六月五日、(按するにい家伝にハ、十月八日と書す。)七十五歳にして死す。法名を良完といふ。(按するに家伝にハ、良古と記したり。)
その子市左衛門政勝も遠江に生れ、慶長六年九月、台徳院を拝し奉り、御小姓組の番をつとむ。(寛永譜)
同七年、武蔵国幡羅郡の内にて采地二百石を賜ふ。(家譜)
同十一年十一月より(按するに家伝にハ、十月と書す。)大番を勤む。(寛永譜)
元和九年、大猷院殿日光山に詣給ふとき従ひ奉り、また御上洛の時も供奉す。
其後新恩百俵を賜ハり、寛永十年二月、また二百石を加へられ、廩米を改めて下野国都賀郡にて采地三百石を賜ハり、すへて五百石を知行す。(家譜)
同十八年三月、御裏門の番頭となる。
其子兵四郎成勝、武蔵に生る。
寛永七年六月、大猷院殿を拝し奉る。(寛永譜)時に十一歳なりき。(家譜)
同十四年(按するに家譜にハ、十三年としるす。)正月より大番を勤む。(寛永譜○今の小普請石谷三蔵清順か祖なり。)
五郎大夫清定ハ、十郎右衛門政清か四男なり。(家譜)遠江に生る。
元亀二年三月、父政清とともに東照宮に召出され(寛永譜)大番となり、天正十八年、関東にいらせ給ふ時、武蔵国多摩郡にをいて采地二百五十石を賜ふ。(家譜)
慶長六年五月二日、五十五歳にして死す。法名を道無といふ。(寛永譜)
其子久五郎清平ハ文禄元年めされて東照宮につかへ奉り、御供に列して肥前国名護屋にいたり、五月十日、父に先立てかの地に死す。法名を道雲といふ。かヽりしかハ二男友之助清正、父につく。清正も遠江に生れ、慶長七年よりめされて東照宮につかへ奉り(寛永譜)御小姓に列す、時に十五歳なりき。
其後御徒の頭となり、(家譜)元和二年より台徳院殿に仕へ、また大猷院につかうまつる。(寛永譜)
寛永十年十二月、五百石の地を加へ賜ひ、同十六年五月仕へを辞す。(御日記)
是より先、三百五十石を加え賜ひ、すへて千百石を知行す。(家譜)
其子七之助清光、(按するに家譜にハ、清亮、家伝にハ、清明と書す。)尾張に生る。
寛永十年八月より大猷院につかうまつり御小姓組の番士となり、(寛永譜)同二十年六月より進物の役を勤む。(家譜○今の小普請石谷庄之助清暠か祖なり。)


石谷

左近将監藤原貞清ハ五郎大夫清定か三男なり。(家譜・鵞峯文集○按するに寛永譜によれハ、二男の系にかく。)武蔵に生る。はしめ十蔵といふ。
慶長十四年、召出されて台徳院殿に仕へ奉り(寛永譜)大番につらなる。(家譜)
十八歳のとき辻忠兵衛久吉、其生質を称して、たヽ武辺のなし得かたきを惜みしかハ、貞清憤り、何事も折にふれてこそいかにとも弁ふへけれ、いかてはやくよりはかり知へき事かハ、と答へしに、さりや武辺を心にかくるものハきはめて命惜むものなり、今貞清か親しき友を見るに、みな心かろきものヽみなり、されハさらぬ事にも命失ひなんこと、いまより思ひしられたり、大節に臨まんころはや命のあるましきにとおもへハ、いとあさましき事なり、といひけるにそ、貞清これより心を改ける。
同十九年の冬、大坂に事起りしかハ、兄か所領の土民七八人はかりをかたらひ、騎兵にましハりて奉す。(武功雑記)
元和元年、夏御陣にハ土岐山城守定義か組に属して江戸の留守を命せられけれハ(鵞峯文集)貞清心よからす、しゐて御供せんと乞けれともかなハす。さらハとて家僕一人に具足櫃とり持せ、歩行にて台徳院殿の御駕をしたひ江戸を発す。(武功雑記)かくて駿府にて追つきまいらせ、かねてしたしき近習の士にむかひ、江戸に残りしことの口惜さにかく推参したるなり、重き法令を破りたれハ、命をやめされんそハ今さらに悔へくもなし、たヽ言上してたまへ、といへハ、君にハ法令を堅く守らせ給ふ、いかてゆるし給ふへき、もしゆるさせ給ハんにハ、御跡よりまいりつとふもの限りしるへからす、さてこそ苛き刑に行ハれめ、よしなき事なし給ひそ、とさとすもののミ多かりき。(常山紀談・兵家茶話)かくて浜松まてつきそひ奉りしに、台徳院殿名を尋させ給ふ。また舞坂にいたらせられ、此程側をはなれすつきそふもの名ハ十蔵といふよし、誰にてある、とのたまふ。御側のもの、かれハ石谷九十郎か弟にて候、(按するに、友之助清正、九十郎と称しけるにや。家伝にも其名をのせす。疑ハしといえへともしハらく原文にしたかふ。)こたひ供奉の数にもれたるかものうくてをしてこれまて参しなり、と言上す。台徳院殿うなつかせ給ふのミ。(武功雑記)伏見に着御ありて後老中して貞清を召せらる。さてハ御諚を背きし咎をや蒙らんとおもひたりしに、かへりて供奉せしことの奇特さよとて、黄金三枚を賜ハりけり。(貞享書上、武功雑記)かくて御合戦の頃ハ御馬の側をはなれす。仰によりて御先手の物見に参る。(貞享書上・鵞峯文集○按するに前橋旧蔵聞書にハ、五月七日、大阪城中火かゝりし折、貞清ハ東照宮に従ひまいらせたりとしるす。)
五月八日、大阪落城して其夜雨はけしき時、貞清ハ永井直勝の陣屋にありけるか心もとなくて、台徳院殿の御座の椽に伺候し、むしろ畳をもて雨をふせきてをり。台徳院殿あやしませ給ひ、あかり障子を開かせられて名をとはせ給ふこと両度なりき。(武功雑記)
同二年、上総国にて采地三百石を賜ハる。(家譜)
其後東金御遊猟の還御の時、御駕の側に供奉しけるか、少し御むねにたかふ事あり。貞清恐怖してつきそひまいらす。新宿といふに着せられし時、貞清も下宿にて風呂屋にいらんとせしに、老中、貞清をめしけり。先ほとの罪かうふるならんとまいりけるに、果してしハし籠り居よ、とそまうされける。貞清かしこまりて、上意にや、また老中のこゝろよりのたまふにや、ととひけるに、鈞命といふにハあらす、さきの御気かうふるからハ籠りてこそあるへけれ、とありけれハ、貞清さらハかくてありぬへし、小身のものゝ籠りをらんにハ誰かハ見出すへき、とて遂にしたかハす。翌日の供奉にハ御駕のわきを遠さけて御先にそ立ける。この日ある池に白鳥のおりたるを、台徳院殿鉄炮にてうちとめたまふ。貞清あか裸になり池に飛込しに、続て大森半七もいりけるか、貞清とらへてさゝけたり。
その後鹿狩せさせたまふとて板橋に出おハしますとき、貞清御刀もて、との鈞命にて、御刀の役をつとめけるか、このときよりして御気色なをりけり。(武功雑記)このころしハ〱御鷹野に出させ給ひしに、麾下の士を撰ひて御刀をもたせ給ふもの十人ありき。貞清其一人なり。(鵞峯文集)
この頃の事にや、諸侯に確執おこりて事たちなんさまなりけるとき、旗本の士にて武勇のもの遣ハされ、宥められんこそよからめ、と評しけるに、久世三左衛門広宣か、貞清ならてハ其任にたへたるものあるまし、といふまゝに、まつ貞清をめされてけり。ときに年寄衆貞清にむかひ、彼御使を命せられんに誰をかよしとせん、とその思慮を問れけれハ、貞清答て、久世広宣こそ、といふ。さりや人々もさこそおもひつれ、今一人を加へなんにハ誰をか、といふ。貞清とみにさためかたけれハこたへかたし、といなみけるに、強て問れけるとき、さらハ広宣につきてまいらんもの貞清の外あらし、と答へけり。人々もはしめよりかくハおもひしなり、よくもみつからいひ出たり、さらハ、とて仰を受、両人彼の御使を勤めけるに、ゆへなく確執ハ止にけり。(兵家茶話)
同四年五月、相模国にて二百石を加へ給ふ。(家譜・鵞峯文集・武功雑記)
同八年、台徳院殿日光に詣たまひ、ゆへありて下野国宇都宮より還御いそかせたまふ。(貞享書上)此時御書院番の何かしと貞清二人御馬の左右にあり。きはめて逸物なりけれハ鐙あはせてはせ給ふ程に、一人ハ大手の御門にて息きれたり。貞清ハ少しもひるます御玄関まて供奉せしかハ、御感のあまりたまものあり。(兵家茶話○按するに兵家茶話にハ、大猷院殿としるす。誤なり。)
後大猷院殿につかへ奉り、寛永九年七月、御歩行の頭となる。(貞享書上・鵞峯文集)この頃組の御徒の家に鶴のおりけるを、たきゝ割ゐし男かの木割を投けれハ鶴にあたりて死しけり。おとろきて立騒きけれとも息返らす。其よしきこえけれハ、組頭何かしまつ彼者をとらへ置、其家の主人を籠置つゝ、いそき貞清かもとにいたる。貞清此日他にまねかれ夜更てかへりけるに、かの組頭待つけて其よしいひも終らさるに、貞清声掛、鶴死て落たりやといふ。こたへて、さにあらす殺したりといへハ、貞清いよ〱声高く、空より死して落たりといはんにハ、毒なとにあたりしもしるへからす、明日登城して聞えあけん、といひけるまゝ、組頭も其心を得てたちかへりけり。かくて翌日、貞清おもふまゝに言上し、ゆへなく事済ぬ。しかのみならす毒にあたりしなれハとて、其鶴をさへたまハり、やかて組の何かしにとらせてけれハ、人々此はからひを感しあへり。(老士語録)
同十年四月、御目付に転す。(貞享書上・鵞峯文集)
此とし八月、大猷院殿品川に成せられ麾下の士の乗馬を御覧有し時、貞清承りてこれを指揮す。
同月、京辺洪水のよし聞えけれハ、御使としてかの地におもむき、かへりてこれを言上す。(鵞峯文集)
此とし十二月、甲斐国にて加増千石を賜ハり、あハせて千五百石を知行す。(貞享書上・家譜・鵞峯文集)
同十一年四月の御遊猟、(鵞峯文集)同六月の御上洛いつれも供奉し、(貞享書上)翌年十月の御遊猟にハ御獲ものゝ鳥を賜ふ。(鵞峯文集)
同十三年二月、東福門院御不例のよし聞えしかハ、貞清御使をうけたまハりて京都にいたる。ことし寛永の新銭を近江国坂本にて鑄させられしに、貞清監使としてかしこにゆく。(貞享書上・鵞峯文集)
同十四年十月、松倉豊後守か領地肥前国高来郡にて吉利支丹の徒蜂起し、有馬原の旧城に籠りぬと聞えけれハ、板倉内膳正重昌を御使にさゝれ、貞清を御目付として遣ハさる。(鵞峯文集・前橋旧蔵聞書)此時かの地にいたりなハ、有馬玄蕃頭豊氏・立花飛騨守宗茂・鍋嶋信濃守勝茂等の兵を催し誅伐すへし、もし兵の費ることあらんにハ、細川越中守忠利・松平筑前守忠之か兵をもまねき加へよ、との仰をうけ、其夜江戸を発してかの地におもむきしか、(貞享書上・鵞峯文集)風波にさへられ十二月六日に嶋原に着陣す。此月廿日の暁にまつ賊兵の有さまをこゝろみんとて、重昌・貞清かたらひ合せ、勝茂・宗茂等にむねをつたへ、少しく鉄炮を放たせしに、宗茂の卒思ひの外城近くすゝみけれハ、城中よりもきひしく鉄炮ををうちいてゝ寄手うたるゝもの多かりけり。貞清制して、はしめより城攻にハあらす、とて兵をつくり、石火矢をまうけ、近きうち総責になしてん、と下知しけるに、軍用すてにとゝのひたり、とありけれハ、同十五年正月元日、しのゝめのころより諸軍一時に押寄たり。賊兵も弓・鉄炮にてきひしく防ぎけれハ、寄手みたれて退かんとす。重昌・貞清乗廻してこれをはけましけれとも、猶進かねたる形勢なり。(貞享書上)やかて両人三丸と出丸の間五六間南の方の塀につき乗入んとしたりしに、(貞享書上・嶋原始末記)鉄炮雨よりもはけしくて石をさへ多く投うちけれハ、遂に重昌ハ鉄炮にうたれ、石にをされて死したりけり。(貞享書上)貞清は携へし鑓をきり折られ、あまつさへ賊の為に鑓疵をうけけるか、家人湯浅角大夫たすけ来り、鑓にてかの賊を突落す。城中よりハきひしく鉄炮を放ちしかハ、角大夫もこれか為に深手を負て討死したり。(嶋原始末記)かゝりしかハ貞清猶諸軍をはけましけれとも、かへし戦ふものなし。賊兵ハ貞清かさしたる幟をとらんとて争ひあへり。かゝるはけしき戦ひに、貞清ハかふとくたけ鎧ちきれ手疵をさへうけたれハ、従士のたすけに、からうしてをのか陣にそかへりける。(鵞峯文集)此とき左右より鉄炮を放つ事大方ならさりしに、さりけなく退く形勢いとゆゝしかりしとそ、(嶋原始末記・掃聚雑談)人みな是を美称しける。(嶋原始末記)此戦ひに家人討死するもの三人、手を負ものハ多かりき。(貞享書上)かく貞清手疵負けれとも、夜討のいらん事はかりかたしと、疵ををさへて四度まて諸手の陣を見廻りけり。(貞享書上・鵞峯文集)
此日重昌の子主水佑ハ父の弔軍せんとおもひけるか、士卒多くうたせて心にまかせす。貞清に乞て諸手の加勢をつのりしに、又手負多きをもてうけかハされハ、むなしく思ひとゝまりぬ。(按するに兵家茶話にハ、主水佑父の弔軍せんとて貞清に乞ふ。貞清うけかひぬとて、具して細川忠利か陣より付出したる柵を引退け、おもふほと戦て首をとらせ、一揆の徒を城中に追込し、としるせしハ、二月廿八日の戦を混したるなるへし。)かくて今日寄手討死多きによりて、細川越中守忠利・松平筑前守忠之等の兵いそき差むけよ、とふれしらす。また此さま江戸に言上せり。かゝりしかハ御使として三浦志摩守・村越七郎左衛門、二月廿六日、嶋原に着す。貞清両人をともなひ船に乗、海はたに出て城の様をうかゝひ、夫より戸田左門氏鉄かもとにいたり、けふ海上より見わたしたるに、賊徒海岸に立出海草を取居たり、さてこそ兵粮ハ尽きたりけめ、かつ本丸につほみたるさま、近きうちに総責せん、とそいひたりける。その翌晩、榊原飛騨守職直本丸にうち入賊徒を撃殺し、同左衛門佐職信も乗込て火を放ちけれハ、諸手一同に責めかゝる。貞清折ふし氏鉄かもとに在て程へたゝりしかハ、これを見てはせつきしころ賊徒ハ本丸に入、ほとなく夜に入けるまゝ、手にハ逢さりけり。かくて翌日暁天に、板倉主水佑とともに細川忠利か方よりすゝみて柵を破り、あまたの賊徒を討取りこと〱く平けしかハ、三月五日、嶋原をうち立て江戸にかへる。(貞享書上)帰着の後、仰をうけ、かの地にて着したる甲冑を台覧に備ふ。(鵞峯文集)その後、貞清か嶋原にをいてのはからひ御気色に違へりとて、つゐに逼塞せられけり。(家譜)
かくてある時、老中、貞清を招き、このたひ重昌の討死は貞清かはやり過たるゆへにこそと聞つるハいかにそ、とありけれハ、貞清こたへて、それかしかはからひあしきとて松平信綱・戸田氏鉄を下し給ハんにハ、けにせはしき戦をもいとむへからん、かの両人ハたゝ跡の仕置をうけたまハりてさし向らる、と聞えたれハ、心せくへきいはれなし、ひらすら年のうちに責落すへかりしを、いふかひなくて元日の戦ひに重昌をうたせたり、かれハ冥加にこそかなひつれ、貞清中々になからへて、あさましくもかゝるおりにあひつる事のくちをしさよ、とまうしけるに、この後、其沙汰ハ止けるとそ。(前橋旧蔵聞書)
同十八年十二月、与力の士十人に鉄炮の歩卒五十人を預られ、正保二年、近江国水口城の在番を命せらる。
慶安二年、機内洪水のとき巡見としてかの地におもむく。(貞享書上)
同四年六月、町奉行となり、八月、従五位下に叙す。(御日記・貞享書上)
ことし油井正雪・丸橋忠弥等か邪謀顕れしとき、貞清騎卒を具して忠弥を捕ふ。正雪ハ駿河にいたりて自殺しけり。(貞享書上)
其子五右衛門武清ハ寛永二十年二月、大猷院殿を拝し、六月より御小姓組の番士となり、正保二年、廩米三百俵を賜ハり、慶安元年四月、日光山に詣給ふ時従ひ奉る。(家譜○今の小普請石谷善次郎直清か祖なり。)



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最終更新:2014年11月22日 11:47