【武田氏の研究 (柴辻俊六) 昭和59年3月10日  抜粋】



P288~

三 戦国大名武田氏の海賊衆


中略



  (ニ)『甲陽軍鑑』にみえる武田海賊衆


 まず、『軍鑑』にみえる武田海賊衆関係の主要記事を抄出し、その後それらの各項目を別種の史料で検討を加えてみたいと思う。幸い同書はほぼ編年記述なので、これがそのまま武田海賊衆の活動とその推移を示すものとなる。
(1)海賊衆
 一間宮武兵衛 船十艘   一間宮造酒丞 船五艘   一小浜あたけ一艘小舟十五艘
 一向井伊兵衛 船五艘
 一伊丹大隅守 船五艘
 一岡部忠兵衛 船十二艘同心五十騎
 右、岡部忠兵衛、駿府にて忠節人之故、土屋忠兵衛になされ候。(永禄十二年)巳の極月駿河治てより、土屋備前になされ候。
 此内覚の者、
 一大石四方介    一沢江左衛門
 一入沢五右衛門   一保科(小塩)六右衛門
(2)一駿河今川家の十八人衆と云、武辺党の侍のうち、岡部忠兵衛、穴山入道梅雪をもって、信玄公へ降参たし候、此者甲府へ指越候書付の内、遠州懸川におひて、(永禄十二年)正月廿三日に天王山にて、徳川家康衆に仕負、氏真方討死の衆。
(3)(駿河蒲原攻の時)本城へはやく乗衆、小塩市右衛門・入沢五右衛門・常磐万右門・大石右衛門介(四方之介)・沢江(郷)左衛門、此五人は岡部忠兵衛衆、するが先方なり、(永禄十二年十二月六日)
(4)今川御同朋伊丹づあみ(津阿弥)、花沢くるわを一ッ請取、しかもよくもち候とて、信玄公御扶持被成、伊丹大隅守と申て、駿河船大将に被仰付候なり、花沢城落てより、藤枝とくのいつしき(得一色)、あけてのく、(永禄十三年正月下旬)
(5)信玄公、二月中旬迄田中に御逗留、江尻御普請、駿河先方衆仕る、清水にも屋布(敷)構え、馬場美濃守縄ばり也、のみむつかしくなきやうに、工夫仕候へと、馬場美濃守に被仰付候、(中略)扨又清水へ関東梶原海賊の御用心は、武蔵・東上野新田・足利筋所々へ御働に、江尻の城代山県三郎兵衛を召つれられるべきとの御遠慮なり、
(6)(三方原戦の時)駿河の御留守、武田上野介殿、田中に板垣殿、しみず(清水)に舟手衆、土屋備前・向井・間宮兄弟に、小浜・伊丹大隅等也、(元亀三年夏)
(7)次ノ日伊勢三瀬の御所(北畠具教)よりとやなう(鳥屋尾)石見守御使にて、早々御上洛奉待候、さるに付ては、御船を如何程も、勢州国司家より三河吉田まで進上申べきと注進なり、此人忠切人にて候故、土屋備前守になされ、右の金丸惣蔵を土屋備前養子にして、同心被官をゆづり、土屋惣蔵と申ス、(中略)
  右ノ外、養父土屋備前ヨリ惣蔵に付衆のうちにて大なる覚の者は、
 一大石四方助   一沢江左衛門
 一常葉万右衛門  一入沢五右衛門
 一小塩六右衛門
(9)九月駿河もちふね(持舟)の城を攻、駿河先方三浦兵部・向井伊賀守各を攻殺、其後由井・倉沢迄、家康焼働化られ候、
(10)天正八年庚辰三月末に、勝頼公伊豆の国表へ御働なり、さるに付、四月北条家より梶原海賊を出し候処に、武男より小浜・間宮・駿河先方の海賊船を出し、舟軍あり、(中略)其日の舟軍にも、北条家の舟は武田方の舟三拾艘ばいある、間宮さけの亟手をひて甲州方海賊衆尽負そうに見ゆる、但、向井伊賀子息向井兵庫、敵船に向う処を勝頼公御覧あり、(以下北条水軍との戦況を略す)
 以上が『軍鑑』にみえる武田水軍の主な動静であるが、右の他にこれを補うものとして一、二あげると、



以下略




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最終更新:2015年09月23日 12:34