天使、君臨

「僕が思うに――何かを成せる人間は、皆どこか病んでいるんだ。
 真に正常といえる肉体あるいは精神状態で歴史に名を残した人間がどれほどいる?
 偉大な科学理論の発見者も、平和のために戦い続けた活動家も、言ってしまえば皆ある種の異常者だろう。
 一度志した目標を絶対に諦めないというのは狂気の沙汰だよ。突き詰めれば、人類種そのものさえ殺せるくらいに」

 天使のように美しい少年だった。
 いや、少年の姿をしてはいるが、実年齢は老年の域に達していよう。

 その笑みはそういうものだった。
 酸いも甘いも噛み分け、泥を啜る屈辱と死の恐怖を味わい、それら全てに打ち克った賢人のそれであった。

 純白の毛髪は絹糸のように美しく、瞳の蒼は大海の水面を思わせるほど深い。
 美男のようにも美女のようにも見える顔立ちはさながらよくできたアンティークドール。
 それらしい格好をすれば天使の現身を名乗っても通るだろうに、彼はよりによって俗な白衣などを身に纏っている。

 美しく、可憐。
 なのに不思議と、彼と目を合わせようとは思わない。
 肩を寄せて語らいたいとは、思わない。
 考えただけで背筋に寒気が走る。

 見目の麗しさという魅力以上に、その男は――おぞましい、死のにおいを放っていた。

「動乱の中においても理想の王たらんと務め、最期までそうあり続けた騎士王。
 あるかどうかも分からない最果ての海を求めて、見果てぬ夢を追い続けた征服王。
 大の男が精神を病む悲惨な戦地の現状に真っ向から立ち向かい、人命を救い続けた白衣の天使。
 ゼウスの稲妻を人の手に貶めるため、あらゆる頭脳を尽くした神域碩学。

 ――皆、皆、狂っている。どこかおかしい。イカれてるんだ、端的に言うとね。
 彼らは病んでいるからこそ、限られた生の中で人の世に名を残せた。そこに疑いの余地はない」

 心底から羨ましいと思うよ。
 そう言って、彼は自嘲するように肩を竦める。

「何せ僕は遂に、人の寿命の内には大業を成せなかった。残ったのは悪名だけだ。
 僕の名前を聞いたなら無知な人間は首を傾げ、知識ある人間は顔を青褪めさせ、正義漢は怒りに燃えるだろう。
 それだけのことはしてきたからなあ――
 自覚はあるし、事実僕が法の番人だったなら、こんな鬼畜はとっ捕まえて一も二もなく死刑台に送っているさ」

 じゃらり。
 首から下げたネックレスが音を立てる。
 天使の両翼があしらわれたシルバーアクセサリーだった。

 翼は描く。美しい、シンメトリーを。

 それを愛おしそうに撫ぜる手はさながら女性の繊手のように美しい。
 その所作があまりに儚げなものだから、立ち込める死のにおいを思わず忘れそうになる。

 しかし、忘れるなかれ。
 彼を理解することはそれ即ち、癒えない病みを抱えることと同義である。

「それでも、"ダメだった"では諦められないのが人間さ。
 僕のような凡人はあれこれ手を変え品を変え、試せる限りの手段を試して、どうにか望む結果を探していくしかない。
 ――たとえそれが外道の行いだったとしても。
 ――誰からの理解をも得られなかったとしてもだ。
 男として生まれたからには何か一つ、死ぬまでに"やってやったぞ"と胸を張っていえる成果を残したいじゃないか」

 男は静かに笑い、黒い可視化出来るほどの病原体が浮かんだ葡萄酒を愛おしそうに呷った。
 常人ならば千度の即死、英霊でも致命は避けられない毒液を嚥下しておきながら、彼の霊基(カラダ)には一片の綻びもない。
 それはひとえに、彼がかの黒死病原体に最も近い性質を持つ魔王であることの証左であり、反対にその在りようが天使と盲信されることの根拠でもあった。

「挫折も発見もいろいろあったけれど、負の歴史を喜び勇んで語るのは格好悪いし割愛しよう。
 話をすっ飛ばして、全ての準備は完了した。

 さて、となれば残る問題は"観測者"だ。
 どんな大偉業も、観測する者なくしてはただの自慰の域を出ない。
 とはいえ無作為に市井から選び出すのではあまりにリスクが高すぎる。英霊の座も同様にね。
 玉石混交の中からキラリと輝くものを探す楽しみに酔っているようでは、ちと悠長すぎるんだ」

 我が生涯、我が理想、その全てを懸けた大偉業、その観測役。
 その座をつまらない凡人に与えるのはあまりに惜しい。
 限られた枠、一度きりの実験。
 厳選は必要不可欠だ。
 確たる基準のもと、最高の人選を行う必要がある。


「そこで話は初めに戻る。
 僕は、病める者を評価している」

 心身の健康など無能の証だ。
 不安なき人生は、人に栄光をもたらさない。

「余命幾許もない者。
 素晴らしい、後がないのだからさぞかし底力を見せてくれるだろう。

 精神を病んだ者。
 悪くない、凡人には至れない境地に至れた証だ。

 手足を欠損した者。
 いいじゃないか、失って初めて見える景色もある。

 社会に適合できない者。
 最高だ、獣の頭脳を持つ人間なんてそういない。

 病める人間は可能性の塊だ!
 息を吸って同じような毎日を過ごすだけのカスどもよりずっと希望にあふれている!

 故に我が大偉業は、数多の病みに囲まれてこそ完成される。
 そしてそれを見届けるのは、病みから外れし者……回帰と憐憫を打ち破り、人理焼却の偉業を食い止めた狂おしき凡人。
 第一の獣を打ち砕いておきながら、心胆の病魔と最も縁遠い"最終最初"のマスター。彼女以外の適任はないだろう」

 天使は夢見る。
 冒涜と病魔に満ちた未来。
 その果てに待つ、究極の創造を。

「そう、僕は――」

 ■■■、■■■■に成りたいのだ。
 狂おしき一言は、桃の唇から紡がれた。




 地を焦がす。
 地を冒す。
 今宵も終末の音色を奏でながら、黒死の病魔が大医療都市を蹂躙する。

 これなるは黒死弐号。
 正当なる根絶譚を踏み躙る、欧州死滅の大傑作。


◇◇◇




 これは病める者達の戦い。

 病める者たちによる、病める者たちのための、病める者だけの創造譚。

 天使のつばさに導かれて、役者達は舞台(サナトリウム)に入る。

 人類最悪の喜劇の開幕まで――――あと、  ……

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最終更新:2017年05月09日 01:30