interlude―――『蟲』
「はは、彼の言う事も一理ある。毎日毎日斬る妄想ばかり、せめて試し斬りの肉程度、用意しろというものだ」
足取りも覚束ず。
酔うているのか、右に二歩、左に三歩と揺らぎながら男は歩く。
腰に携えた刀は業物には程遠いが、それでも彼が剣の道を往く者であることを現し。
身体に纏った着物は上物で、比較的未分の認められた者であることを示している。
「この我が身を何と心得る―――この離宮を護る誉れ高き剣の一員であるぞ、はは」
頬は上気し、その口許からは笑みが消えない。
愉快な気持ちを撒き散らし、今なら何が現れようと斬って棄てる自信さえ湧きつつあった。
こうも揺らぎ歩く者の前では、誰もが道を開けよう。
己が強くなった気分になった。
最早、己に楯突くものなど居らぬと本気で信じ込んでいた。
―――だからこそ。
"ソレ"に気づくのが遅れたのだ。
「む―――?」
道は開けていた。
―――人っこ一人歩いていない。
家屋は依然としてその場にあった。
―――しかし明かりすらついていない。
人はおろか、生物の気配すら消え去っている。
それは、まるで。
夜の墓地のような―――人気のいない中で、蟲だけがキイキイと鳴いている。
だから、少し酔いが覚めた。
臆病風に吹き込まれた訳ではない。
少し、夜風が肌寒かっただけだ。
このような夜は疾く布団に包まれるに限る。
千鳥足は、少しだけ早足へ。
とことこ。とことこ。
とことこたった。
鍛え抜かれた健脚だ。
早足だけでも、並の人間よりかは速い自信があった。
しかし。しかし。
―――キイキイ。キイキイと。
幾ら走っても蟲の声が頭に響く。
幾ら走っても誰一人見えず。
早足が駆け足に変わる頃には、男の顔からは余裕は消え去っていた。
「はっ、はっ、はっ、はっ―――」
恐ろしい。
恐ろしい。恐ろしい。
恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。
蟲の声が酷く恐ろしい。
幾ら駆けても消えぬ。
何れ程逃げても消えぬ。
耳に届くその声が、酷く男を追い詰める。
「誰だ!!この、この俺を何と心得る!蟲如きが、俺の色が見えぬと申すか!?」
もはや、混乱の極みであった。
本当に相手が蟲だと思っているのならば、このように名を上げたりはしないだろう。
心の何処かで。
この音は、"蟲ではない"と―――そう、思っているのだろう。
張り上げた声は闇へと消えていく。
しかし、蟲の声は相反するように大きくなっていく。
耳を塞ごうとも消えない。
頭蓋を震わせ、鼓膜を震わせる。
ぞぶり、と。
音がした。
「―――へ」
己の、首から、腹から、足から、腕から。
ぞぶりぞぶりと、蟲が食らいついている。
その時に、ようやく気がついた。
「え、ああ、うえ」
―――初めから、逃げ場など無かったのだ。
魅入られた瞬間で、もう終わり。
目をつけられた時点で、もうヤツは身の中に。
戸惑った瞳で己を見る。
―――まるで、腐った果実のようだ。
果実を喰らう芋虫のように、泥の中から現れる蚯蚓のように。
肉の中から、それらは続々と現れる。
数秒もすれば蟲は肉を喰らい尽くし、骨に到達した。
ばりばり。
もぐもぐ。
ぞわぞわ。
しゃりしゃり。
足が無くなった頃には立っていることもできなくなった。
左手は喰われ、もう無い。
残った右手で、腰の刀を抜く。
煌めく白刃が、月の光を映す。
しかしそれが振るわれることはない。
男の瞳は、痛みに堪えかね白眼を向き。
それでいて。
「あ、あ、ああ―――」
とてつもない快楽に、襲われつつあった。
彼の者は男故に実体験は無いが。
魔羅を入れられる感覚は、こんなものなのだろうか―――と、見当違いなことを考えつつ。
蟲に喰われるのが此処まで気持ちの良いことならば。
この刃を喉元に突き立てれば、何れ程の快楽が得られることだろう―――。
どちゅ、と音がした。
胴体と泣き別れした頭は道に転がり。
それにすら蟲が集っていく。
「―――カカ」
そして。
「―――カカカ」
その、闇の真中に。
「―――カカカカカカカカカ!!!」
人成らざる者の、笑い声が響く。
此れは。
人理を救った人間が訪れる、少し前の出来事。
interlude"END"―――『蟲』
最終更新:2017年10月23日 17:43