◇
交わされる剛と柔。只管力に任せて攻め立てていく土方とは対照的に、邪神の剣は堅実だった。
端から見れば防戦一方。土方が押しており、邪神は笑みこそ浮かべていれど攻めあぐねている――よって優勢なのは狂戦士の方。そう思わせる。
だが、戦いを有利に進めているはずの土方の表情は芳しくない。というより、どこか苛立っているように見える。
「……気に入らねえな」
「ほう、何がじゃ?」
「惚けるなよ雌狐が。手前、攻める気になればいつでも攻められるんだろう」
彼は気付いていた。この邪悪な女は、攻めあぐねているのではない。攻められるのに、攻めて来ていないだけであると。
狂化によりステータス補正を受けている土方の剣をこれまで三十以上も防いでいながら、まるでそこに緩みが見えないのがその証左だ。
邪神を名乗るだけはある――恐らく基本性能は己より遥か上。とはいえこの程度絶望に値しない、その上で打ち破ればいいだけの話だからだ。
不気味なのは、一向に攻めの姿勢を取らないこと。舐めているのか、それとも何か別の理由があるのか。
どちらの線もあり得るだろうと土方は踏んでいたが、親切にも、答え合わせは彼女の方から成された。
「何じゃ、そんなことを気にしておったのか?
安心せい、物珍しげな策や小難しい読みなぞありはせん。
ただ――わしは少々目が良くての。視えるのじゃよ、色々と」
「…………」
「鬼の副長土方歳三。おぬし、あれじゃろ? 要は頭抜けてしぶとい、火事場の馬鹿力を地で行く戦いが好みなのじゃろう?
それは結構なんじゃが、わしもあまり余興に時間をかけている暇はない身でな。そんなそなたに付き合ってやるのはちと面倒と来た」
土方は眉を顰める。何故なら、忌々しいことに目の前の悪女が言ったことは当たっていたからだ。
――――対人宝具『不滅の旗』。
己こそが、己だけが、己ある限り、誠の旗は不滅という土方の強烈な自負と狂気がおりなす宝具。
発動中は肉体の損傷による身体能力の劣化を無視し、相手を屠るまであらゆる手段を使って戦闘を継続することが出来る。
その分、宝具の効果が切れた途端にそれまでのダメージが一気に噴き出す諸刃の剣であるのだが……土方歳三というサーヴァントがかなり“しぶとい”部類の手合いであることは間違いない。
「それで、思うたのよ。斬っても撃っても死なぬなら、跡形もなく消し飛ばしてみるのはどうかと。
そうと決まれば無駄撃ちは野暮。暴れる狗の動きをよく見極め、機を見計らって撃てば善いだけじゃ。
愉快な発想じゃろ? 面白かろ? 頑丈自慢の気狂い剣士を、威勢もろとも無価値な芥に変えてやるのは」
三日月の笑みを浮かべながら、嬲るように邪神は嗤う。
そして質が悪いのは、恐らくそれが冗談でも何でもないことだ。
これは紛れもなく畜生の類だが、神性存在であることは間違いない。
英霊としての霊基も格もお世辞にも高い方ではない土方との間には、巨大な戦力の差が存在している。
「おう、確かにそりゃ笑える話だな。手前、漫才の才能があるぜ」
「何を当たり前のことを。わし以上に人を笑かすのが巧い神なぞ居らんわ」
「だがよ。俺は、こうも思うぜ」
土方の口もまた笑みに染まる。しかしそれは、邪神の浮かべるものと同一では決してない。
邪神の微笑みが万象を虚仮にした嘲笑ならば、土方のそれは漲る戦意を表現する手段がなく、仕方なく笑みの形を取らせているだけだ。
そこに喜びも高揚も、ましてや友愛などあるはずもない。彼にあるのは徹頭徹尾ただ一つ。
「ニヤニヤニヤニヤ笑ってやがる気色の悪い狩人が、自分の馬鹿にした狂犬に食い殺されるんだ。
そっちの方が――」
「面白えだろッ!!!!!!」
敵を倒し、前に進む。
それだけで、それ以外を求めてもいない。
仮に敵に自分を一撃で消し飛ばす手段があろうと、それがどうしたと唾と一緒に吐き捨てるだけだ。
彼は新撰組。彼のいる場所に誠の旗はいつもある。
故に不撓不屈。すべての敵が斃れるまで、その進軍停止を識らず。
「殺してみろ、この俺を! 新撰組は殺された程度じゃ死なねえぞッ!!」
「威勢だけは、よいなァ」
ならば勝負と行こうかと、邪神の黒墨の眼が宇宙を思わせる無明の闇を湛え始める。
ああ、これこそ茶々を一撃で鎮め、沖田に致命傷を与え、アナをあわや即死させかけた邪神の権能。
藤丸立香の部屋を地獄絵図に変えた時の更に二割増しの出力でもって、彼女はそれを解放せんとする。
死なぬと吠える狂戦士。その鼓動が果たして永遠か、風前の灯であるかを確かめるために。
◇
「ナイアルラトホテップ……ですか!?」
アナからその名を聞いて、動揺の声をあげたのはマシュだった。
見れば彼女の顔は、信じられない、とか、ありえない、とか言いたげに青ざめている。
立香からすればそれは聞き覚えのない名前だったものだから、ごくりと生唾を飲み込んでから彼女へ問いを投げた。
「そんなにヤバい奴なの? いや、この有様を見ればヤバいってことは分かるけど――」
「……先輩は、“クトゥルフ神話”という創作体系についてご存知ですか?」
――クトゥルフ神話。
それは、立香も確かに聞き覚えのある単語だった。
とはいえ名前を聞いたことがある程度で、具体的にどういうものなのかについてはさっぱりである。
辛うじて、それが複数人の作家によって執筆されてきた、架空のホラー神話であることくらいは知っていたが。
「えっと……確か怖い小説だよね? コズミックホラーとか何とか、そんなやつ……」
「はい。―――そう、小説なんです。クトゥルフ神話はあくまで創作された怪奇小説。現実には存在しない、架空の神話体系」
人が創り、記したものが現実の存在となって現れる。
立香にとってそれは初めてのことではない。
人理修復の旅やその後の亜種特異点事件の中で、何度か彼はそういう案件に直面している。
だが今のマシュの顔は、明らかにおかしかった。かなり重篤な危機を感じている、そんな顔であった。
「そして……今アナさんが言った、邪神ナイアルラトホテップという神格は――」
「――――這い寄る混沌」
マシュの台詞を遮ったのは、聞き覚えのある男の声だった。
理性と知性に満ちた、紳士的なのに耳を塞ぐことを許さない力強さのある声。
それはこれまで数多の罪を暴き立て、真実を詳らかに明かしてきた“探偵”の武器の一つでもある。
男の名を立香が口にしかけた、その瞬間。声のした方向から虚空を切り裂く銀色の何かが走り、土方と交戦する邪神の側頭部を射抜かんとした。
邪神は事も無げに片手でそれを掴み取ってしまうが、事態が一つの転機を迎えたのは間違いない。
ひと目見た瞬間にそう確信出来るほどに、それは心強い援軍であった。
「無限の姿と慄然たる魂を持つ恐怖、矛盾し合う混沌。人も神も、この世に存在するあらゆる概念を等しく冷笑する“無貌の神”。
……流石の私も驚きだな。あの理不尽という言葉に蜂蜜をかけて煮詰めたような神話の一柱が、よもや私と同じような境遇であったとは」
一人目――名探偵、シャーロック・ホームズ。
世界最高にして唯一の顧問探偵である彼は、第六特異点にて立香達と初めて邂逅し、最初の亜種特異点で共闘、紆余曲折を経てカルデアを訪れた。
その性質は“明かす者”。あらゆる探偵の祖の肩書に恥じない明晰な頭脳と立ち回りで、彼は遍く謎を解き明かす。
「何でもいいがね、私が君に問いたいのは一つだ。答えろ、無貌の神。イリヤを何処へ攫った?」
もう一人は、最初に今回の発端……イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの不在に気付いたエミヤだ。
結果的に防がれはしたものの、今の一射は確実に殺すつもりで放たれたものだった。
此処で邪神の化身に死なれればイリヤの行方は不明のままだが、初めから当てるつもりもない矢では牽制にもならないと本能的に悟ったのだ。
鷹の瞳さながらに千里まで見通す目を鋭く細めながら、エミヤは既に次の矢を装填、射出の構えを一瞬で完了する。
「イリヤ? ああ、器の娘か。あれはなかなか具合が良さそうだったのでな、一つ“依り代”として使うことにしたわ」
「依り代、だって……?」
その明らかに不穏な単語に顔を顰める立香とは裏腹に、ホームズは「ふむ」と考えるような素振りを見せる。
「うむ、依り代よ。そうじゃ、そうじゃそうじゃそうじゃそうじゃそうじゃそうじゃそうじゃ!!
聖杯の器は戴いたぞ、藤丸立香! あれは良いものじゃ。少しばかり手間をかけて加工してやれば、至大の器に成長しよう。
く、くく、くふはははははははは―――喜べよ星見台の魔術師! 憐憫の獣を打ち倒し、人類に明日を齎した救世主!
おぬしの旅路は終わらぬ、これより始まる! 聖杯は用意した、特異点も作り上げた! おぬしの存在理由は未だ健在よ!!」
「グランド、オーダー……?」
一方で邪神は、思い出したとばかりにケタケタと耳触りな笑い声をあげ始める。
それは蝿の羽音のように不快な音であったが、立香とマシュにはそんな感想を抱くことすら出来なかった。
今、この女はなんと言った? グランドオーダーと、そう言ったのか?
「おお、そうじゃ。魔術王を騙る獣が始めた計画を止めるべく、正真の魔術王が指揮し、おぬしが挑んだ人類史上最大の大偉業!
杯の数は四、それを担う混沌の数も四、貌のない神へ祈りを捧げた愚か者の数もまた四!
憐憫のそれに比べ数でこそ劣りはするが、質も脅威度も、人類史に降り注ぐ災禍の度合いも負けてはおらんと自負している。
――――喜べ、我が最愛の鏡写し。活動する特異点、善性の災厄よ。その生ける意味は、これより我が手で再演される!」
「つくづく耳触りな女だな、手前は」
至近距離から振るわれたのは、暫く手を止めていたはずの土方の剣戟だった。
止められこそしたものの、土方の方にそれを気にした様子はまるでない。
止めるのならその守りごと踏み潰すだけだと、燃える両目が語っている。
「……土方さんの言う通りです。
第六天魔王――いいえ、邪神・ナイアルラトホテップ。貴女の言葉は……聞くに堪えません」
「マシュ……」
堕ちた……いや。そんな形容句を用いるのは、織田信長という英霊に対してあまりに無礼だろう。
文字通り“中身と本質をすげ替えられた”魔王を毅然と睨みつけ、マシュは冷たい声でそう言った。
一年間の旅を共にし、楽しい時間も辛い時間も共有してきた立香には分かる。
彼女は今、心の底から激怒している。邪神のもたらす恐怖など小さく思えるくらいに、激しく怒りの炎を燃やしている。
「先輩は、人理を救うための道具ではありません。
貴女の言い方では、まるで先輩が“世界を救う”以外の価値を持たない存在という風に聞こえました。
どうぞ撤回を、ナイアルラトホテップ。それ以上言うと、わたしも本気で怒ります」
「……同感です。貴女がどこから来て、何をしたいのかは分からないし、分かりたくもありませんが――貴女ほど不愉快な存在は見たことがありません。今すぐにでも、殺してしまいたいくらい」
マシュに同調して、アナも得物である不死殺しの鎌を力強く握り締め、殺意と敵意の籠もった瞳で邪神を睨みつける。
確かに――カルデアの外の者。魔術協会の人間などの中には、藤丸立香という人間にその偉業以上の価値を見出さない者は少なからず存在するかもしれない。
人理焼却を阻止して世界を救ったことは賞賛に値するが、彼個人の人間性や生涯などどうでもいい。計算に含むに値しない。魔術師らしい人間であればあるほど、そういう思考に至ることだろう。
だがマシュやアナ、ダ・ヴィンチや他のサーヴァント達。果てにはカルデアの職員達から、時間神殿よりただ一人帰還することの叶わなかった“彼”に至るまでの全員が、それに断固として否を唱える。
彼女達は知っているのだ、藤丸立香という人間の価値を。良いところも悪いところも、客観的な事実からは窺い知れない部分に至るまで沢山知っている。そしてそれでもまだ全部ではないことも、知っている。だからこそ、邪神の吐いた言葉は彼と彼を大切に思うすべての存在に対する最低の暴言と受け取った。この人物はカルデアに関わる全ての存在の敵だと、改めてそう確信する。
「……みんな」
この状況で何を呑気なと言われても文句は言えないだろうと自負しながらも、立香は自分の胸が熱くなるのを感じていた。
他の誰がどう思っているかは分からない。それでも目の前の彼女達は、自分のためにこれだけ怒ってくれている。
それに少しの照れ臭さと心からの感謝を覚えながら――立香もまた邪神をしかと見据え、口を開いた。
「おまえがゲーティアの真似事をするつもりだっていうのなら、望み通り俺が止める。人理は滅ぼさせない」
「そうじゃろうな。そなたはそういう男だ。そうでなくてはつまらぬ。わしなどがわざわざ出張ってきた甲斐がないというものよ」
「けど、忘れるな」
自分の胸元を握り締め、目を鋭く尖らせる。許せない邪悪――絶対に倒すと誓った敵を見る目だった。
これまでの戦いの中でも許せない存在は沢山いた。認められないと吠えて、戦った敵が山のようにいた。
ただ、此処まで救いようのない存在が果たしていただろうか。少なくとも立香には、覚えがない。
あらゆる英霊と縁を繋ぎ、時には悪の英霊とも心を通わせてきた立香をしてそう言わしめるほどの絶対的な悪性の塊。
それがナイアルラトホテップという邪神だった。これと心を通わせ、相互理解を図れる生命体など皆無であると断言できる。或いはそうしようとした時点で、多分この神性の手の内なのだ。釈迦の掌で踊る孫悟空などまだ優しい。サタンの掌で這う生まれたての赤子のように、後は破滅へ転がり落ちていくだけ。そもそも見てはならず、知ってもならない存在。……人類史が認めなかった、最低最悪の外道畜生神。
「――――俺も、みんなも。誰一人、おまえの思い通りになんてならない!」
故に藤丸立香が取れる選択肢はただ一つ。持ち前の前向きさ、不屈の精神で邪神がぶつけてくる破滅を跳ね除け続けるだけ。
そして最後は、必ず人理を滅びへ導かんとするナイアルラトホテップを倒す。敵が変わっただけで、やること自体はいつもと変わらず単純明快だ。
それなら立香は戦える。星見台の魔術師はいつも通り、悪性を挫く災厄として機能できる。
「ああ、つくづく思うぞ。それでこそじゃ」
その勇気と希望に溢れた姿に歓喜し、邪神は顔を喜悦で染める。
ナイアルラトホテップという神性にあるまじき感情は、それそのものが人類にとって致命的すぎる大災害。
誰かが止めねば星が死ぬ。そしてこれを止められる資格を、原動力の感情の矛先を向けられている藤丸立香以外は持ち得ない。
「先程も言ったように、混沌が星の歴史へ仕込んだ火薬は全部で四つ。
守護の日輪。数理の迷宮。復讐する威光。穢れたる理想。いずれも珠玉の滅び、人と神を遍く鏖殺し、星を絞殺する大破壊!
……なのじゃが、いきなり本題というのも芸がなかろう? そこで、一つ前座を用意した」
「前座?」
「イリヤスフィールじゃったか? あの娘は、察しの通り既にカルデアにはおらん。
とある土地……“特異点”とも“並行世界”とも異なる“幻夢郷”が一角。
カダスという大山の頂点に聳える、瑪瑙から成る冒涜と頽廃の城にて眠らせておる」
ドリームランド。そして、カダス。いずれも立香には聞き覚えのない単語であったが、流石の彼にもそれが何であるのか察しは付く。
恐らくは、マシュの言っていた……クトゥルフ神話に纏わる架空“とされている”土地のことだろう。
そして邪神が自分達に前座と称して何をさせたいのかのビジョンも、この時点で大分鮮明に浮き上がってくる。
「取り返したければ、そこまで来いというわけか」
「左様。ちなみに誘いを蹴った場合と、そなたらが志半ばで朽ち果ててしまった場合じゃが――」
邪神は、いたずらっぽくウインクをしてみせた。その開いた片目の、何と悍ましいことか。
無限に続くのではないかと錯覚させる、ペンタブラックなど及びもつかないほど深く、混じり気のない純粋な闇。
気を抜けば魂が吸い込まれてしまいそうな、この世の深淵に通ずる暗闇がそこにはあった。
「イリヤスフィールを依り代に、わしの“本体”を呼び起こす。その上でそれを地球へ向かわせ、全人類を一つの例外もなく精神死させてくれよう。
言っておくが、わしの真の姿はこんな見目麗しい小娘のそれではないぞ? 常人ならば直視しただけで精神が沸騰し、自我を崩壊させて廃人になる蠢く混沌よ。或いはそなたならば耐えてみせるのやもしれんが、この星に生きる有象無象どもはどうであろうなァ」
「……っ」
「故に挫いてみせよ、この企てを。カダスの地で待つ混沌が化身を討ち、見事星を救ってみるがいい」
全てを伝え終えた途端、陽炎のように薄れ始めるその姿。
織田信長という英霊の皮を被った邪神は、特異点の彼方へと消えていく。
それを止める術を持たない立香は、ただ苦虫を噛み潰したような顔でそれを見送るしかなかった。
(……ごめん、信長。でも、待っていてくれ。約束する、俺が、俺達が必ず――)
されど、そこでは終わらないのが藤丸立香だ。
骨が砕けんばかりに拳を握り締め、消えていく嘲笑を網膜に焼き付ける。
この怒りを忘れないために。自分のサーヴァントに最低の狼藉を働いた邪神に、いつかその報いを受けさせるために。
(――必ず、君を取り戻すから)
強く、星見台の魔術師は誓うのだった。
◇
「あれは恐らく、“悪心影”だろうね」
邪神の去ったカルデア、そのブリーフィングルームで、立香達はホームズから件の邪神についての講釈を受けていた。
流石にカルデアきっての知恵者は博識だ。クトゥルフ神話の作品に何作か触れたことのあるマシュですら知らない知識まで当然のように保有している。
「まず、ナイアルラトホテップという神格は“無貌”だ。読んで字の如く、あの神は決まった顔を持たない。
その代わりに千もの異なる化身を持ち、特定の眷属も持たず、狂気と混乱をもたらすために自ら暗躍するトリックスター的な神なのさ。
悪心影とはその化身の一つ。どういう化身かというと、ズバリ第六天魔王・織田信長そのものだ。
戦国を恐怖で震撼させ、混沌の火で頽廃を生み出した暗黒将軍。闇将軍、という呼び名もあるようだね」
「それは……あのノッブが元々そういう別側面を持ってたってこと? オルタみたいな……」
「まさか。ミス・キリエライトも言っていたように、クトゥルフ神話はそもそも一創作体系に過ぎない」
重ねて言うが、創作上の存在とされていたモノがサーヴァントとして召喚されるというケースはそれほどレアなものではない。
例えば、フランケンシュタイン。例えば、燕青。目の前のホームズや、その宿敵のモリアーティ教授だってそうだ。
無論、形を持って実在している以上は、大抵そこに何かしらの理由が存在する場合が多い。
話せば長くなるので割愛するが、このホームズにもあれこれ創作として伝えられるに至った経緯が存在している。
では――“クトゥルフ神話”の中の架空神性であるはずの“ナイアルラトホテップ”はどうなのか?
「藤丸立香。キミの目から見た“織田信長”は、あのような悪意と嘲笑に満ちた側面を少しでも匂わせたかい?」
「いいや。確かにノッブはたまに怖い所もあったし、魔王って呼ばれるだけはあるなと戦いを見る度思わされてきたけど、なんていうか――ああいうタイプのサーヴァントじゃなかった……と思う。沖田さんはその辺、どう思う?」
「……まあ、同感ですかね。事を引っ掻き回して高笑いするってところはちょっとそれっぽいですけど、あそこまでイッちゃった側面を持ってたら流石に距離取りますよ普通」
「だろうね」
ホームズは、二人のコメントに肩を竦めて微笑した。
彼自身、問うまでもなく“織田信長はナイアルラトホテップの化身だった”なんてトンデモ話を正史とは思っていないようだった。
「考えられる可能性としては二つだ。
一つは、“無辜の怪物”スキルのようなもの。
クトゥルフ神話の後付設定が風評として広がり、いつしか人々の“織田信長”像に深く結び付くまでになっていたのだとしたら、場合によってはああなる可能性も一応ゼロではない。
とはいえ、これは大分無理がある話だがね。さっきも言ったが、悪心影という化身はナイアルラトホテップの化身の中でも知名度の低い部類で、尚且つ最初の出処がどこかも怪しい。念のため此処に来る前に、カルデア職員十数名にも聞いてみたが、案の定“悪心影”の名前に聞き覚えがある者さえ皆無だった。よって、この可能性は切り捨てていいだろう」
「……二つ目は?」
「―――ナイアルラトホテップの“本体”に、“英霊の霊基を改変する”スキルか宝具が備わっている可能性だ」
ホームズの顔は、神妙の一言に尽きた。
彼は名探偵として知られているが、その人柄は正直、誠実とは言い難いものがある。
時に自分本位な動き方もするし、天才ならではの嫌味な面も標準装備で持ち合わせている。
第一シャーロック・ホームズを神妙な顔にさせるほどの案件なんて、本来であればそうそう起こるはずがないのだ。
世界最高の名探偵であり、人理焼却の裏でその先を見据えた捜査を行えるほどの胆力の持ち主であるホームズをして危険視する他ない存在。
改めて立香は、此度の敵の強大さを実感する。
「クトゥルフ神話という媒体に乗って世に流れた“ナイアルラトホテップの化身”。
その原典となる存在をハッキングして、そこに記されている正しい歴史を否定し、書き換える。
今回で言えば、“戦国の魔王織田信長は最初から人間ではなく、ナイアルラトホテップの化身の一つだった”という風にね。
書き換えられた存在はナイアルラトホテップの意識、意思、記憶を得、尚且つこの世のどこかにいる本体から力の供給を受けられるようになる。
こういう種があったのだとすると、今回の事件には説明が付く。いずれにせよ、とんでもなく質の悪い話ではあるが」
「……確かに有り得るね。いや、それしか考えられないくらいだ。今の話に当て嵌めて整理していくと、辻褄の合うことが多すぎる」
苦笑しながらレイシフトの準備を整えているのはダ・ヴィンチだ。
冷や汗を掻いている彼女に追い打ちをかけるように、ホームズは「いや、それだけではない」と続けた。
「今のは私からしても非常に確実性の高い話だったが、これから話すことには根拠がない。あくまで可能性の一つとして聞いてくれたまえ」
まだあるのかと、立香が思わず漏らしてしまったことを誰が責められよう。
何せ今の話だけでも、絶望感はかなりのものだった。
ナイアルラトホテップは千の化身を持つ。その化身全てを信長もとい悪心影のように再現されてしまったなら、敵の数は単純計算で千体だ。
千を超える敵を前にした経験は確かにあるが、その全てが悪心影クラスの力を持っているとすると、真っ向から戦うのはまず不可能。
それに加えてまだ何か、少なくとも明るく希望的ではないことが確約された仮説があるというのだから、気分も当然重くなる。
「自身の化身とされている存在を原典を改変して再現する――やや不謹慎な言い方をするが、これだけならまだやりようはないわけではない。
問題は、ナイアルラトホテップに“化身を新たに作り出す”力も備わっていた場合だ」
「……、それは」
「クトゥルフ神話という土台を利用せずとも化身を自在に増やせるのなら、あちらの軍勢は事実上無限に等しい。
極論、総軍を突撃させるだけでもカルデアの戦力を一網打尽にするには十分だろう」
「つまり、ナイアルラトホテップは倒せない……ってこと?」
「この考えが正しければ、ね」
立香の心に、ずんと重いものが伸し掛かる。
マシュや他のサーヴァントが弱音を吐いたのだとしたら、立香は不安を覚えつつも彼女達を鼓舞してみせたろう。
だが、今回のは違う。シャーロック・ホームズの断言だ。かもしれない、などではない。
新宿の一件もあり、ホームズの頭脳に対し強い信頼を置いている立香だからこそ、その言葉の重みはとても大きなものに感じられた。
「早合点はキミらしくないぞ、立香くん。そこの探偵の力をもうお忘れかい?」
「どういう――あ」
ダ・ヴィンチに呆れたように諭されて、立香はばっと顔を上げる。それに、ホームズはああ、と頷いた。
「“ナイアルラトホテップの打倒法”という謎は間違いなく解明不可能だろう。
火に弱いという弱点があるにはあるものの、無限の数を前にしては焼け石に水も同じ。
あらゆる正攻法も回り道も、全て彼我の戦力差が邪魔立てする。故にこの謎は完全無欠。迷宮入りは間違いない。だが――」
その、瞳が。
「――手掛かりがあるのならば、話は別だ」
蒼く――蒼く、輝いた。
◇
対人/対界宝具、『初歩的なことだ、友よ』。
サーヴァント、シャーロック・ホームズの宝具にして、彼の起源である『解明』という概念そのもの。
その効果は単純にして明快だ。立ち向かう謎がどんなに解明困難だろうと、真実に辿り着くための手掛かりや道筋を必ず“発生”させる。
鍵の失われた宝箱があったとすれば、鍵はそもそも失われていないことになり、世界中を探ればどこかで必ず見つけられるようになる。
尤も、手掛かりがこの世のどこかに生まれたとして、それを発見するのは自らの手足で行わなければならないのだが――そこは人理焼却事件を解決した元・人類最後のマスターにしてみれば屁でもない。
「私が此処にいて、この謎に挑んでいる時点で、既にナイアルラトホテップ打倒の鍵は発生しているだろう。
後はキミが、それを見つけ出して使うしかない。どちらにしろ困難な旅路であることに変わりはないが……」
「いいや――大丈夫。希望は、あるんだよね?」
「……キミにはそのあたりは愚問だったか。これは失敬」
肩を竦めるホームズとは裏腹に、立香はすっかり元気を取り戻した様子でマシュやアナ達の顔を見回していた。
ナイアルラトホテップは確かに強力無比。正攻法でも回り道でも打倒不能。その軍勢が無限に達するというのはまだ仮説の段階ではあるものの、こういう状況の仮説は外れることの方が圧倒的に少ないと相場が決まっている。――しかしそれでも、仮説が的中していたとしても、ナイアルラトホテップは最早打倒不能の存在ではない。シャーロック・ホームズが認識した瞬間に、混沌の打倒は“可能”に変わった。
「ところでホームズさん、根本的な疑問なのですが……」
「ふむ? 言ってみたまえ、ミス・キリエライト」
「そもそも……何故、架空の神格であるはずのナイアルラトホテップが現実に存在しているのでしょう?
ホームズさんの時のように、クトゥルフ神話の始祖であるラヴクラフトが本当に神格を観測した結果、件の神話が執筆されたということなのでしょうか」
「恐らくは。ただ違うところを挙げるとするならば、恐らくハワード・フィリップス・ラヴクラフト自身は邪神の存在を自らの空想上のそれだと思っていた可能性が高い――という辺りかな」
「それは、どういう?」
「ナイアルラトホテップは……というよりも件の神話に登場する神々は、大体理解すれば正気を保てなくなるほど悍ましい姿をしたものばかりだ」
常人ならば直視しただけで精神が沸騰し、自我を崩壊させて廃人になる蠢く混沌。
悪心影は去り際、立香に対して嘲るようにそう言い残していた。
よしんば立香が耐えられようと、地球上のほぼ全ての人間が耐えられず精神死するほどの悍ましさを持つ神こそ、あの這い寄る混沌なのだ。
「これも仮説だが、ラヴクラフト氏は恐らく、先天的に“根源”に限りなく近い異界を知覚出来る眼を備えていたのだろうね。
そんな眼の持ち主だから生まれながらに精神異常への耐性が高く、悪夢や幻覚を通じて混沌を視認しても正気を失うほどには至らなかった。
……ただ、それでも支障は出ていたのではないかな。何せ、彼は精神病持ちだったという。ある時期までは悪夢にも悩まされていたそうだ。これを“耐性さえあれば何とかなる”と思うか、“そのレベルの人物でも影響を受けるほどの精神攻撃”と思うかはキミ次第だよ、ミス・キリエライト」
「……、………」
ごくりとマシュの生唾を飲み込む音。見ればダ・ヴィンチも、「笑えない話だね」と乾いた笑いを溢している。
人理を救って尚魔術方面の知識に疎い立香が、根源という単語の重みをそこまで感じ取っていないのはせめてもの不幸中の幸いか。
「まあ、後ろ向きな話をしても仕方ない。立香くん、カダスに連れていくサーヴァントは決めたのかい?」
「あれ、もうカダスは捕捉出来たの?」
「うーん……まあ、ね。そっちを先に話した方がいいか……」
ダ・ヴィンチは、何やらなんと言えばいいか悩んでいる様子だった。
その素振りを見るだけでも、カダスの座標が今までの特異点探索とは明らかに違う、イレギュラーな地点であることが察せられる。
「時代は何と現代。カダスの正確な座標は、特定不能だ。特異点の反応は南極から出ているものの、場所を絞ろうとするとエラーを吐く」
「え――現代? それって、そもそも特異点にならないんじゃ?」
「そうだ、まずそこからおかしい。特異点というのは正常な時間軸から切り離された現実であり、もしもの世界だ。
現在進行形で未来が紡がれているはずの“今”に特異点が現出するというのは、そもそも特異点の意味がズレている。
――誘っている、と見るべきだろうね。カルデアに一刻も早く探知して貰うため、わざと特異点の反応を偽装しているんだろう」
「ということは、レイシフトは……」
「可能だ。ただ、レイシフト先の探索開始地点がどこになるか分からない。
新宿の時のように上空なんてことも有り得るし、最悪クレバスのどん底かもしれない。でも」
やだやだ、とでも言いたげに。
「確信を持って言えるのは、飛んだ先はどこであれ未知なるカダスの地だってことさ。
此処までご丁寧にお膳立てしてくるようなヤツが、この期に及んでまどろっこしいことをさせるとは思えないからね。
邪神殿は立香くんにえらくご執心のようだった。何が起こるか分からないから、連れていくサーヴァントは慎重に選びたまえ」
言われてみれば確かに、やたらと持ち上げられていたなと立香は思う。
他のものをあれだけ馬鹿にされてはいい気分になるわけなどないのだが、それはそれとして、あれが自分に執心だというのは間違いないと感じた。
もちろん嬉しくもなんともない話だ。けれど、頭の中に入れておけばいつか役立つ場面があるかもしれない。
とはいえ、買われているからといって手加減してくれる相手では絶対にない、それもまた明らかだ。
星を滅ぼすと言ったのは、絶対に本気だ。対面して言葉を交わし合った立香には、そのことがよく分かる。
「そうだな……まず、エミヤ……いいかな?」
「む。私か?」
「なんていうか。上手く言えないけど――エミヤは何でも出来るからさ。
今回はいつにも増して何が起きるか分からない行き先だから、良ければ一緒に……と思ったんだけど」
「何でも出来るとは買い被られたものだな。
だが――了解した。元はと言えば私の見付けた異変が発端だ、解決まで君に付き合おう。マスター」
エミヤの実力や戦い方は、立香もシミュレーター内での戦いや素材集めのレイシフトなどで知っている。
それももちろん頼れるが、何より彼の冷静沈着さと臨機応変な対応能力はカルデアの全サーヴァントの中でもきってのものだ。
あの邪神のことだ、さぞかし悪辣な仕掛けを用意して待っているだろうことは容易に想像がつく。
だからこそ、彼の力が借りたい。そう思っての人選だった。
「それで、二人目は……」
「あ、それなら沖田さんが――」
「俺を入れろ」
沖田の進言を遮ったのは、ブリーフィングルームの入り口付近で壁に凭れ掛かりながら話を聞いていたバーサーカー、土方歳三だ。
「む……ちょっと土方さん!?」
「手前、ただでさえ何かありゃすぐ喀血するポンコツだろうが。
それが腹ァぶち抜かれて、急拵えの手当てされただけでまともに戦えるわけねえだろ。
飛んだ先にすぐ化身とやらが居るならまだしも、居ない可能性が高い以上はただの足手纏いだ。黙って寝とけ」
「あのですねえ! そんな言い方がありますか!!」
「うるせえな……」
チッ、と舌打ちする土方。彼の言わんとすることは立香も、マシュも、この場の全員が分かっていたが、沖田だけは気付いていないようだった。
「手前、倒す相手を見間違ってんじゃねえぞ」
「……はい?」
「手前が戦りてえのはあの雌狐だろう。彼奴の口振りからして、カダスとやらに居るのは別な化身だ。手前が急ぐ理由はねえ」
「――――」
「敵前逃亡は死罪だ。分かったな」
一瞬、沖田は目を丸くした。
やがてそれは痛いところを突かれた、というような顔に変わる。
土方はそれだけ言うと、これ以上話すことはないとばかりに会話を打ち切り、また元通りの沈黙へと戻っていった。
もしもこれが、単に攻め込んだ先の混沌を倒すだけの戦いだったなら、彼は一も二もなく沖田を同行させていただろう。
だが、彼自身言っていたように、恐らくそれだけでは終わらない。
少なくとも、数戦。一日二日で帰還出来る保証もなし。
その状況に手負いの剣士を一人連れて行ったところで、足手纏いになる可能性の方が高い。もっと言えば、十中八九犬死にに終わる。
それに――沖田の戦場は此処ではない。彼女が倒すべきは腐れ縁の織田信長、それを乗っ取った悪心影。
宿敵討たずして倒れることは、それ即ち敵前逃亡も同じ。故にこそ、土方は今回珍しく出陣することを許さないという命令を出したのだった。
「……はあ。こりゃ、明日は槍でも降りそうですねえ」
「……沖田さん」
「副長に言われちゃ仕方ないです。今回は大人しくお留守番して、来る日のリベンジに備えるとします」
……沖田総司と織田信長は、まさしく腐れ縁の関係である。
カルデアに召喚される前に、とある世界、とある時代で行われた聖杯戦争。
そこで顔を合わせ、敵対。その後もあれよあれよと犬猿の仲(?)が続いて今日に至る。
いつもは事あるごとに争っていた沖田だが、だからこそか、“あの”第六天魔王は看過出来ない存在として写ったらしい。
「その代わり! 土方さん、立香さんのことをくれぐれもお願いしますよ!
一人で突っ走りすぎて立香さんや他のサーヴァントの方々を困らせないように!!」
「あ? 進まなきゃ敵を斬れねえだろうが」
「そういうとこですってそういうとこー!!」
立香は、こふっ!といつものように吐血しながら突っ込み役に徹する沖田とこれまたいつも通りの土方を交互に一瞥して、自分に何か言い聞かせるように一度頷き、口を開いた。
「ありがとう。よろしく頼むよ、土方さん」
「おう」
「それで……沖田さんは信じて待っててくれ。俺は必ず帰ってくるから」
「言われなくてもそのつもりです。ご武運を、マスター」
アーチャー、エミヤに続いてバーサーカー、土方歳三。
立香の魔力事情を加味するに、カルデアから連れていけるサーヴァントはあと一騎が限度だろう。
人理を修復する前はマシュが付いて来て一緒に冒険するのがお決まりだったが、今の彼女は原因不明の不調で戦えない。
となると、あと一騎をどうするかだが――これについては最初から決まっていた。
「アナ、君も来てくれる?」
「……わたし、ですか?」
きょとんとした顔で、アナは自分を指差す。
それからフードを深く被り直し、やや戸惑ったような声色で言う。
「気持ちは嬉しいですが……わたしではきっと力不足です。
この姿のわたしは、マスターもご存知の通り全ての能力で成長後のわたしに劣っている。
未来の怪物からあまりに遠い今のわたしでは、きっと貴方のお役には――――」
「うーん、いや、そうじゃなくてね」
「………?」
「役に立つとか立たないとかじゃなくて、付いて来て欲しい……というか」
「……え」
カダスの大地に何があるのか、何が待つのかはカルデアの技術をもってしても分からない。
何せ、正確な座標すら把握不能なのだ。寒いのか暑いのか、そもそも人間の生存できる環境なのか、それすら判然としない。
そして、あの邪神が立香の心を砕く仕掛けの一つや二つ用意していないとはどうしても思えない。
だからこそ純粋な戦力以外にも、自分が落ち着いた気持ちでいられるような――立香はそんな存在を連れていきたいと考えていた。
「それに、エミヤや土方さん程ではなくても、アナだってちゃんと戦えるじゃないか。
……もちろん、君が嫌だっていうのなら諦めるけど――」
「い――嫌じゃ、ないです。ないですが……本当によろしいのですか?」
「そう言ってる。一緒に行こう」
「……、……」
その言葉に、アナは頬をわずかに紅潮させて――
「……わかり、ました。お役に立てるよう頑張りますね、マスター」
少しだけ、頬を綻ばせるのであった。
さて――これで、カダスに連れて行く面子は決まったわけだ。
向かう先は未知なるカダス、まだ見ぬ這い寄る混沌が待つ魔境。
生きて帰れる保証はいつもの如くどこにもないし、きっとまた手探りで一筋の光明を探るような足取りになるだろう。
それでも――星見台の魔術師は進むのだ。世界を救うため、希望をもって悪を挫くため。
野望編みし悪全てにとっての大災害として、秩序護りし善全てにとっての大災害へと挑む。
「立香くん、それに皆。
カダスへのレイシフト準備が完了した――――五分後、未知なる大山へのレイシフトを実行する!!」
◇
「――――斯くして星見台の魔術師は旅立ち、冒涜と頽廃に満ちた亜種聖杯探索は開幕したわけだ」
そこは人理、因果、その他あらゆる常世の因子から隔絶された正真の異界であった。
魔神王の時間神殿宜しく、四つの特異点を平定しなければ道筋の開かれることなき玉座。
元からあったものを斯くあれかしと変生させた結果が、深淵のそのまた深淵に沈みしこの異界。
かの神話に纏わる知識を有する者ならば真名など裏を取るまでもなく明らかな、慄然たる恐怖の渦巻く魔城である。
「つまらないな。少しくらい営業スマイルでも浮かべ給えよ、これでも私は、君のこともそれなりに買っているのだぞ?」
「貴方様に気に入られるほど、不名誉且つ縁起の悪いこともないでしょう。浮気性は嫌われますよ、月に吠ゆる魔獣殿」
黒き混沌の神と相対していながら表情一つ変えず、蠢く肉塊の壁と一面の星空を眺める女が一人。
混沌の彼があらゆる冷笑とあらゆる悪意を詰め込んだ魔性だとしたら、この女は凡そあらゆる人間性を削ぎ落とした、人の形をした機械に見える。
これはまともな人間ではない。少なくとも歴史に埋もれて消えていくような凡夫では、断じてない。
彼女こそ、邪神ナイアルラトホテップが選定した四人の協力者の一人。
自ら深淵を見、破滅を受け入れ、その上で破滅を食い殺すと断言した光輝なりし日輪王。
三つ葉葵の紋章が刻まれた和装に身を包み、童女の矮躯を規則的な鼓動に揺らし、精微な顔には色を宿さない。
「まあいい。君には感謝しているよ、ルーラー。
最も勇敢にして狡猾なる者、148年の最終勝者よ。
第一の特異点にて待つがいい。案ぜずとも、藤丸立香は必ず来るさ。君が成す偉業を砕くために」
「来なくて結構です。護法を粉砕する逆さ五稜の旅人なぞ、好んで招きたいと思うのは貴方様くらいのものですよ。――とはいえ」
くるりと、童女の姿をした怪物が神へ振り向いた。
その顔は相変わらずの虚無。だがその瞳に灯る光は、森羅万象焼き尽くす、巨大な龍のそれにすら等しい意志の煌めきを帯びている。
「これにて我らの盟は解消。後は滅ぼし、滅ぼされるだけの関係となりましょう。必ずや私は混沌を排し、己の理想を遂げてみせる」
「やってみたまえ。剪定されし歴史の彼方より来た、古狸の王よ」
――――亜種聖杯探索、開幕。
カダスの地に始まり、星見の災いは深淵へ至る。
最終更新:2017年10月26日 03:58