未知なるカダス。
忘れ去られたカダス。
這い寄る混沌が拵えた亜種聖杯探索の前座となる、“幻夢郷”の大山。
藤丸立香達カルデア一行のレイシフトは無事に成功し、一行は今、かの邪神が君臨するという未知の大地を踏み締めていた。
『あー、あー。立香くん、聞こえているかな? 何しろ今回は異常事態の発生が殆ど約束されている厄い亜種特異点だ。
一応こちらからはそっちが見えているけれど、通信障害が起きてるとか、そういうことがあれば早めに言ってほしい。
……まあ、そもそもそっちにこれが届いてなかったら私は今虚しく独り言を喋っているだけになってしまうんだが』
「ん、大丈夫。聞こえてるよ、ダ・ヴィンチちゃん。特にノイズもないし、通信はかなり好調な方だと思う」
『おや、それは僥倖。そっちはどんな感じだい? そこはカルデアの設備をもってしても座標すら特定出来ない、正真正銘の異界だ。
多分何かしら、明らかな異変や今までの特異点との違いがあると思うんだが――』
「いや、特にはないかな。空気が重いとか気温がおかしいってこともない。強いて言うなら地面が灰色なことくらいだよ」
『むむ……』
「ただ――」
……立香達がレイシフトした開始地点は、恐らくカダスなのであろう大山の麓であった。
火山灰を思わせる灰色の大地が辺り一面に広がっているのに、空だけは雲という概念がそもそも存在しないように蒼く澄んでいる。
美しさというのも、徹底されれば不気味なものだ。混沌が招いたこの地は冒涜と頽廃で溢れているべきなのに、空だけが馬鹿みたいに美しい。
風は普通の山を訪れたように気持ちよく、南極付近であるということもあって少しばかり寒いが、身体に異常が出るほどのものでもない。
モニター越しにそれを確認したダ・ヴィンチも、“思っていたより遥かに普通”という感想を抱いてしまう。
無論それは喜ぶべきことなのだろうが、あれだけ構えていた分、若干拍子抜けなものを感じないわけでもなかった。
されど――そう思っているのは星見台に残留している者達だけだ。彼らはモニター越しにしかカダスを見ていないから、まだ気付かない。
灰の大地と蒼の天空が果てしなく広がる大山。その頂点に視える、他の全てが正常であろうとも、それ一つで何もかもが異常なものに見えてしまうほど現実から乖離した“異物”の存在に。
「……城があるんだ」
立香は生唾を飲み込んで、もう一度“それ”を見つめる。
彼我の間に山頂と麓ほどの距離があるというのに大袈裟だと言う者は、少なくともカダスに同行した面々の中には一人もいない。
それほどまでに、その異物――“城”は悍ましく、冒涜的であった。
サーヴァントならばいざ知らず、耐性のない人間が見ればそれだけでパラノイアを発症しかねないほどに。
山自体の標高はそれほどでもない。
日本の山々よりは大きいだろうが、世界規模で見れば精々中の上程度だろうそれだ。
その頂上に、巨大な城が聳えていた。麓からこうして見上げていても誰もが巨城と形容するだろう、冒涜的な巨大さを誇る城。
聖杯探索で培った経験以外は一般人同然の立香にも解る。アレは人が近付いてはならず、見てはならず、知ることすら避けるべき深淵の断片だ。
昏い。昏いのだ、アレは。底知れない暗黒の闇に満ちており、内に何が潜んでいるのかを想うだけで頭がどうかしてしまいそうになる。
あの城がどうやって建造されたのか? 誰に? いつ? ……それら全て、一つとして余さず余人の精神を冒す毒である。
知るな、見るな、感じるな。立香の中の本能的な部分が、喧しいほどの警鐘で訴えてくるのが分かる。
『……成る程、アレか。やれやれ、思ってたより大したことないかも? なんて一瞬でも思った自分を殴りつけてやりたいよ』
遅れてそれを確認したダ・ヴィンチは、苦笑しながら肩を竦めてそう言った。
モニターの向こうからは、恐らく管制室の職員であろう誰かのどこかへ駆けていく音が聞こえた。
大方、不運な誰かが偶然ダ・ヴィンチのモニターを通じて“城”を見てしまい、嘔吐感に堪え切れずトイレへ駆け込みに行ったのだろう。
通信を介しての視認ですら、耐性のない人間にはこれほどの精神ダメージを与える悍ましさ。
立香は改めて、自分がこの手の悪影響に耐性を持っていることに深く感謝した。
冗談抜きに、耐性がなければこの時点でゲームオーバーになっていてもおかしくはなかったのだから。
「少し目を凝らしてみたが、あまり見ない方がいいな。いずれ嫌でも直視することになるとはいえ、今はその時ではないだろう。
今更ながら得心したよ。どうやら今回の敵は、正真正銘星の理の外にある存在らしい。あんな光景は、この星の営みからは生まれまいよ」
英霊エミヤ。守護者として、正義の掃除屋として、数多の凄惨な光景をその目に焼き付けてきた遍く地獄の生き証人。
自ら作り出した地獄の数も、地獄を見た数も数え切れない域に達している。その彼をして、一目で理解した。まともではない、と。
サーヴァントならば皆が皆大丈夫というわけでもあるまい。精神耐性の低いサーヴァントであれば、人間同然に不調に陥る可能性もある。
尤もエミヤはこの通り生前の経験から多少気分を害す程度、アナはそもそも女神であるため影響を全く受けていないようであったが。
「アナもエミヤも強いなあ。俺なんていきなり結構気が滅入っちゃったよ」
「無理はありません。エミヤさんの言う通り、あまり見ないようにしましょう」
「そうする。皆の足を引っ張っちゃ悪いからね……っと、そういえば土方さんは大丈夫?」
そんな中、ただ一人。土方歳三だけ、特に何か喋るでもなく黙りこくっている。
立香が心配して彼の顔を覗き込もうとすると――その口元には、黄色いものが咥えられていた。
「…………」
「…………」
「…………」
ボリボリと、カルデアで親の顔より聞いた咀嚼音。それと共に消えていく、黄色い何か。
立香だけでなく、エミヤとアナも、そんな土方を見て思わず沈黙してしまう。
やがて視線に気付いたのか、土方の視線が三人の方へと向く。
その片手には、タッパーに詰められた日本の国民的食品……沢庵が握られていた。
「なんだ、人の顔ジロジロ見やがって。お前らも食いてえのか?」
「いや、その……」
「……何故この状況で沢庵を持っているんだ、君は?」
そんなことか、と土方は沢庵を一枚抓みながら答える。
「登山となりゃ長丁場になる。腹が減ったら困るだろうが」
「それで、沢庵と」
「おう。量としてはちと心許ねえが、樽ごと持っていくわけにもいかねえからな」
一枚食うか? と言いながら沢庵を差し出された立香は、茫然としたままそれを受け取り、口に運んで小気味いい音を立てるしかなかった。
「って――土方さんはあれを見ても平気なの? ほら、あの城。見るからにやばげなやつ」
「ああ? 馬鹿かお前は。お前、道に猫の死骸が転がってたら、それをわざわざ凝視して顔色悪くする質だろ」
土方とて、何もあの巨大な城の威容が目に入っていないわけではなかった。
だが彼の場合、それがどうやら見ていて気分の悪くなる部類のものらしいと判断した途端、すっぱり視線を向けるのをやめてしまったのだ。
狂化の恩恵による疑似精神耐性の存在を踏まえても、驚くべき胆の据わりようである。
これしきのことで頭を痛めているようでは、新撰組を纏め上げ、牽引することなど不可能ということか。
「問題がねえならさっさと行くぞ。化身って奴を斬って、この薄気味悪い山からおさらばだ」
「う……うん!」
そう言ってズカズカと物怖じせずに進んでいく土方に、立香は小走りで続く。
そんな二人の姿を見て、エミヤとアナは軽く嘆息。なまじ思慮深い性格をした二人であるから、土方の傍若無人且つ迷いのない直情っぷりにある種の羨ましさすら感じながら、彼らも先頭を行く二人へと続くのだった。
◇
「やれやれ。随分と趣味の悪い造形の敵が多い山だな、此処は。
海魔――というのだったか? ジル・ド・レェ伯辺りを連れておくべきだったかもしれんね、マスターよ」
「……さすが」
いつも通りの皮肉っぽい笑みを浮かべながら、敵の掃討を終えたエミヤが言った。
カダスを登り始めて三十分ほど経った頃だ。道の脇から突如、オニヒトデの類を思わせる不気味な魔物が飛び出した。
それ自体は海魔という名の、今までにも何度か戦った経験のある比較的対処しやすい部類の敵だったが、問題はその数。
一匹を蹴散らせば五匹、五匹を蹴散らせば十匹、十匹を蹴散らせば二十匹と数を増やしながらどこからともなく現れる。
最終的に、百匹以上は倒しただろうか――そこでエミヤが、どうやらこれが視界の彼方にある崖から沸き、崖の内部を伝ってそこら中の岩肌に空いている穴から這い出してきているらしいことを感知。周囲への被害を極力抑えた投影宝具射出……“壊れた幻想”によって巣穴を焼却し、どうにか状況終了へと漕ぎ着けることが出来たのだった。
「マスター、お怪我はありませんでしたか? あれだけの数だったんです。魔力の消費がきついようでしたら、我慢せずに言って下さい」
「ん、心配してくれてありがとね。俺は大丈夫だし、魔力の方も全然余裕。伊達に人理修復してないってとこかな、はは」
自分で言っておいて照れ臭くなったのか、立香は自分の頭をぽりぽりと掻く。
とはいえアナに言ったことに嘘はないし、彼女達も今の戦闘では手傷らしい手傷を全く負っていない。
流石は人類史へその名を刻んだ英霊達。そして、流石は人理を救った勇敢なるマスター。
幾ら数を揃えようと一体一体の質があの程度では、疲労させて勢いを削ぐことすら出来はしない。
辺りに散らばった海魔の死体が発する生乾きの雑巾じみた悪臭にやや顔を顰めながら、彼は「先に進もう」とまた一歩を踏み出した。
しかし、そこに待ったを掛ける者がいる。エミヤであった。
「待ちたまえ。先の狙撃の際に遠見をしてみて分かったことだが、どうやらこの先へ進むためには、先程海魔の発生源となっていたあの崖を超えねばならないらしい。
巣穴を直接焼いたのだ、生き残りが居る可能性は低いだろうが……サーヴァントである我々ならばともかく、マスターの身体能力で道具もなしにあれを登るのは至難だろう。誰かが抱えるなり、背負うなりする必要がある」
「それなら、私が。今回同行しているサーヴァントの中では、恐らく私が一番速く動ける筈です」
「君が? ……いや、了解した。よくよく考えれば、正攻法でしか超えられない崖というのもなかなか怪しい。
登っている途中で敵の奇襲が飛んでくる可能性を加味すると、攻性、防性にそれぞれ優れた土方と私が単独で登るのが最も安全だろうしな」
アナの提案を了承するエミヤの姿を見ていて、立香はふと「おや」と思う。
このエミヤという男は基本的に皮肉屋なリアリストだが、必要ならば余程相性の悪い相手でない限り目的達成に向けて協力出来る男だ。
その際の態度は基本的にビジネスライクな、実にリアリストである彼らしいものなのだが、アナと話している時の彼はどこか彼女に調子を乱されているような、やりにくそうな様子を見せているのである。
ひょっとして彼女のことが苦手だったりするのだろうかと一抹の不安を覚えた立香は、隙を見てそっと彼へ耳打ちで訊いてみることにした。
「……エミヤって、ひょっとしてアナのこと苦手?」
「何? 別にそういうことはないが……何故だ?」
「いや、なんていうんだろ……少しやりにくそうにしてたからさ。話してる時」
「…………」
エミヤは立香の問いに、険しい表情を浮かべる。
答えに窮しているというよりは、どう説明したらいいか悩んでいる様子だった。
無論、立香とて朴念仁ではない。この時点で彼も、エミヤとアナの間には何かしらの“縁”があるのだと気付く。
恐らくは自分と出会う前――――どこかの世界の聖杯戦争で。
「君の考えている通りだ、マスター。正確には、大人の姿をした彼女だがね。
それほど深い関わりがあったわけではないが、やはりあれほど姿も調子も違うと少し此方も戸惑いが出る。
俗な言い方をすれば、知人の意外な一面を見た気分というやつだよ」
「な、成る程ぉ……」
実のところ、こういうケースは珍しくない。
カルデアに召喚されたサーヴァントが、立香の預かり知らぬところで既に縁を結んでいることはままある。
ネロや玉藻、アルターエゴの面々がよく口にする“月の聖杯戦争”“月の裏側の戦い”などがその典型だ。
彼ら、彼女らの記憶は藤丸立香と共に過ごしたもののみではない。
別な時空、世界、惑星で。彼らには彼らの、紡ぎ歩んだ物語と、愛した主が居る。
それは立香としては少し寂しいことでもあったが、自分だけを見ろなどと傲慢なことは全く思わない。
それならそれで、前の主に負けないくらいの良いマスターであれるよう努力しようと、立香は日々彼らの“今”のマスターとしての自負を強めるようにしていた。
「……何を話しているのですか?」
「足が止まってるぞ。置いてってほしいなら素直にそう言いやがれ」
きょとんとしたような顔をするアナと、いつも通り直進姿勢を崩さない土方。
そんな二人に立香は「ごめんごめん、なんでもないよ」とありふれた誤魔化し方をして、また先頭へと戻るのだった。
ちなみに、エミヤが苦笑交じりにこぼした「目敏いマスターだ」という皮肉はその耳には入らなかったようだ。
◇
「では、行きますよ。舌を噛まないようにだけ注意してください」
聳え立つ岩壁の前に到着した立香は、自分より二回りは小さな背丈の少女に所謂“お姫様抱っこ”の体勢で抱え上げられていた。
立香は筋肉質な男ではないものの、それでも大の男。童女のか細い手には余る体重を持っているはずだが、抱えた両手は全く震えていない。
幼いとはいえサーヴァント。ましてアナの筋力ステータスは、その華奢な体つきからは想像も出来ないだろうがCランクもあるのだ。
少なくともステータス上は土方と同格、エミヤに至っては上回るほどの膂力を有しているのである、この女神は。
「悪いね、アナ。重くない?」
「へっちゃらです。この程度の重さであれば、無いも一緒ですので」
「お、男としてはなかなか複雑だ……」
言うまでもなく、青年と呼んでいい年齢の男が幼女と呼んでいい見た目の少女に抱えられているというのは、なかなかどうして強烈な絵面だ。
少なくとも往来の真ん中でやろうものなら、子連れの主婦が子供の目を険しい表情で塞ぐこと請け合いの光景。
もちろん立香にはこの崖を一人で登るなど、仮にクライミングの備えがあったとしても出来るかどうか分からないので力を借りるしかないのだが、それはそれとしてやはり情けないものがあるのは確かだった。
こればかりは仕方ないとかで済む話ではないのである。男とは、なかなかどうして面倒臭い一面を持つ生き物なのだから。
アナにがっしりと抱え上げられた立香は、その高めな体温を全身で感じながら、言われた通り舌を噛まないよう喉の方へ逃す。
そのすぐ後に、全身を襲う浮遊感。視界が目まぐるしく移り変わり、少女の息遣いがより鮮明に耳へと届く。
野を駆け回るウサギのように、アナの動作は軽やかで淀みのないものだった。
そうなると、ウサギに抱えられている立香はさしずめ子ウサギか。
普段は基本、控えめなアナを立香がエスコートすることが殆どなのだが、こういう場面になるとその絵面はまるっきりあべこべになる。
幼くとも、大人しくとも、可愛らしくとも、彼女もまたサーヴァント。人間では届き得ぬ超常の力と各種性能を有した英霊なのである。
「っと……着いたかな?」
景色が静止したのを見て、立香はアナへと問いかける。
危惧した奇襲もなく、エミヤの焼却から逃れた海魔が襲いかかってきたなんてこともなく。
まるでアトラクションにでも乗ったようなスリルだけを立香に与えて、一人と一騎の崖超えはあっさりと終わった。
土方達も、あの様子ならあと数秒もすれば問題なく上ってくるだろう。
「ありがとう、アナ。もう下ろしていいよ――って」
だが、立香と一緒に何ら問題なく崖を超えたはずのアナがその声に反応を示さない。
不審に思った立香が目玉を動かし、彼女の顔を見上げてみると――そこには茫然としたアナの顔があった。
「アナ? おーい、どした?」
「……これは……」
「もう、一体どうし――」
何がなんだか分からず、視線を今度はアナと同じ方向へ向ける。
そして……立香も思わず言葉を失った。それほどまでの光景が、そこには広がっていたのだ。
彗星でも落下したかのような、巨大なクレーターが一つ。
灰の大地は捲れ上がって黒土が覗き、木々は軒並み薙ぎ倒され、それどころかその全てが物理的な破壊力によって“粉砕”されている。
高台は絶壁もろとも崩されて雪崩となり、周囲の地形は極めてアンバランスなものに変わってしまっていた。
注視して見ればクレーターの中は灼熱を帯びており、所によっては溶鉱炉でドロドロに融かした鉄のようなものが泡立っている部分さえある始末。
何だ、これ。立香が思わずそんな月並みな台詞を漏らしてしまったことを、一体誰が責められるだろう。
これを見て驚かぬ者など、神か悪魔か、とにかく常識の範疇を一飛びで超越していくような輩のみだ。
一体―――、一体どんな火力を用意すれば、これほどの景色を作り上げられるのか?
立香は冗談でも何でもなく、歴史の授業で見た“原子爆弾”の破壊を幻視した。
一瞬遅れて、ゾッと背筋に寒いものが走る。
このカダスには、これを産める存在がいるのだ。
それほどの破壊者が、慄然たる恐怖の名の下に待ち受けているのだ。
「マスター、マスター。しっかりしてください、マスター」
『おーい、立香くん? 大丈夫かい? 気を確かに持つんだよ』
アナに揺さぶられて、立香ははっと正気に戻る。
そうだ、唖然としている場合ではない。カルデアのマスターとして、星見台の魔術師として、自分がやるべきことをしなくては。
立香は心配そうな顔をしているアナの頭をぽんと撫でてから地面に下ろしてもらうと、ダ・ヴィンチへこの状況をどう見るか問うた。
それに対しダ・ヴィンチは、うーんと唸ってから静かに口を開く。
『此処でサーヴァントの交戦があったことは間違いないだろうね。
キミ達に脅しをかける意味でわざとこんな真似をしたとも考えられないことはないが、可能性は低い――と私は思う』
「理由を聞いても?」
『脅すだけなら、クレーターだけでも十分だろう? 何せ小惑星でも落ちたみたいなでかさだ、英霊だってこれを見れば度肝を抜かれるさ。
だが、此処には他の爪痕も多い。乱暴に崩された高台、変えられた地形。そして、所々の地面に見られる抉れた痕だ。
……そうだね、立香くん達の右手側にも一つあるな。試しにそれを覗いてみてくれるかい?』
言われた通り、立香は手近な抉痕の一つを恐る恐る覗いてみる。すると――
「あ。あのクレーターの中ほどじゃないけど、こっちも焦げ付いてるみたいだ」
『その通り。私が思うに、そこの馬鹿でかいクレーターを作った攻撃とこっちの小さい抉痕を作った攻撃は同じものだと思う。
違うのは多分出力だ。最大出力で放てばあの通り大破壊と呼ぶに相応しい範囲を焼けるけれど、出力を落とせば所謂ビーム兵器のように小回りの効く攻撃にすることも出来るってわけ。
さて、単に脅したいだけならこれだけの数を乱射する必要はないよね? 何せ抉痕だけでも、ざっと数えて百以上はあるんだ。――というか攻撃の原理が同じってことを踏まえてこの光景を見ると、何か浮かび上がってこないかい?』
「……素早く動き回る敵を、数に飽かして捉えようとした……?」
『正解だよ、アナ』
おずおずと答えたアナに、ダ・ヴィンチは「うむ」と頷きながら肯定を示す。
つまりそれが、この破壊がサーヴァント同士の交戦の痕跡であるという証左。
恐らくは敏捷性に優れた英霊が、馬鹿げた破壊力を持った英霊と交戦した。
……何のために? 此処は這い寄る混沌が星見台の魔術師を試すために用意した前座の舞台。
混沌が擁する化身やあちら側に着いたサーヴァントが待っているのならばまだしも、それらが争い合わねばならない理由は何だ?
答えは、一つしかない。生唾を飲み込んで、立香は恐る恐る口を開く。希望的観測過ぎると一蹴されるかもしれない覚悟だけはした上で。
「まさか……俺達以外にも、ナイアルラトホテップに逆らおうとしてるサーヴァントがいる?」
『可能性は非常に高いと、私は思う』
立香はばっとアナの顔を見る。その顔は、会心の笑みを浮かべていた。
アナの方はいつも通りの無表情ではあったものの、こくりと頷きだけは返す。
味方がカルデアのサーヴァントの他にも居るというのなら、大分事態は変わってくる。
もちろん戦力になってくれるだけでもありがたいが、そのサーヴァントがこのカダスについての知識を持っているならば――
これほど頼もしいことはない。何故なら此処は混沌の座する魔境、ドリームランドに位置する冒涜の山岳。
未知に包まれた未来を少しでも既知に変えられれば、それだけで今回の任務成功率はぐんと上昇するだろう。
早速探しに行こうと立香が言いかけた、その時のことだった。
「どうやら、“可能性”ではないらしいぞマスター」
そういえばいつまで経っても此方へ来る様子がなかったエミヤと土方の二人が、そんなことを言いながら今更崖を超えてきたのだ。
遅かったねと振り返って、立香は目を見開く。彼にそんな反応を促させた“原因”は、土方に背負われる形でそこにいた。
「サーヴァントだ。崖の中腹に妙な穴があるもんで覗いてみたら、この餓鬼が伸びてやがった。
致命傷ではねえが手負い、意識もない。このまま放っといても目は覚めるだろうが、手当てしないならあと三、四時間はこのままだろうな」
土方の背から降ろされ、地面に仰向けで寝転ぶ格好になったそのサーヴァントは――美しい蒼髪がよく目立つ、可憐な娘であった。
優に膝裏まではありそうな長髪をツインテールに纏めており、肌は人形のように白いが体はよく引き締まっている。
150センチほどしかないであろう背丈を見るにまだ少女と呼んでいい齢だろうが、相当過酷な鍛錬を積んでいるのが立香にも分かった。
だが同時に、彼女がどうやら敗北してしまったらしいことも分かる。装備している濃紺色の鎧が無残にも胴の辺りから罅割れ、砕けているからだ。
口元からは血の雫が垂れており、青あざが至る所に見て取れる。十中八九、そこの戦闘を演じた張本人であろう。
すぐ手当てしようと礼装の機能を使わんとする立香だったが、アナがそれを制止するように礼装の袖を引っ張る。
「待ってください、マスター。この方が“邪神の敵”であるという保証は、まだありません」
「それは……ううん、確かにそうかもしれない、けど」
か細い喘鳴を漏らしている彼女の姿から、あの悪心影のような邪悪さは感じ取れない。
しかし確かに、アナの言うことも一理ある。
邪神がその気になれば自分達など容易く騙せてしまうということを、立香達は身を以て知っているのだから。
「……でも、やっぱり放ってはおけないよ。この子、苦しそうにしてるし」
確かに少女の傷は致命傷には達していない。されど、大きなダメージを受けていることには変わりないのだ。
現に気絶しているというのに顔色は悪く、可憐な容貌は苦しみに歪んでいる。
藤丸立香は善良な人となりの持ち主であるが、綺麗事だけでは前に進めないというこの世の当たり前の真理はきちんと把握していた。
それでも、立香が基本的にはお人好しで、“助けたがり”な人物であることは変わらない。
信じるか信じないかの二択なら、信じる方を選びたい。
悪意と虚飾に塗れた新宿の街を踏破して尚、その根っこの部分は小揺るぎもしていない。
或いはそんな彼だからこそ、かの“教授”の企てを真に打ち破ることが出来たのだろう。
「ですが……!」
「おい、はっきりしねえことで言い争ってても仕方ねえだろうが。
目を覚まして敵だったなら斬ればいい、敵じゃなかったなら使えばいい、それだけのことじゃねえのか」
「……、………」
簡単に言ってくれるな、と非難がましい目を向けるアナだが、土方の方はどこ吹く風だ。
多分正しいのは彼女の方なのだろうと立香自身そう思う。エミヤは成り行きに任せる姿勢のようだが、恐らくアナと同意見だろう。
ただ、立香としてはやはり、まず信じてみたいと思っていた。もちろん、その上で生ずるリスクも承知の上で。
『まあ治癒をかけようがかけまいが、いずれその子が目覚めるのは確定事項なんだ。
二分の一の確率で貴重な戦力となってくれるかもしれない存在を、まさか置き去りにも出来ないしね。
だったら土方の言う通り、目を覚ますのを見てから考えてみるのも悪くはないと思うよ』
「…………」
そんな中、ダ・ヴィンチが味方してくれたのは立香にはとてもありがたかった。
そう、どの道彼女を連れて行くのは確定なのだ。それなのに、苦しみ喘ぐ少女をずっと治療もせずに連れ回すのはどうも忍びない。
だからこそ立香は諸々の危険は承知で、この傷付いたサーヴァントを助けようとしているのだった。
「アナは、その……やっぱり反対かな?」
「……反対です。もしも悪心影の時のようなことがあれば、マスターを守り切れるか分かりません。
あの時――信長さんと付き合いの長かった沖田さん達ですら一人残らず欺かれたのですから。
出来ることなら私は、そもそも連れていくことさえ避けたいと思っています。
情報と戦力をみすみす逃してしまうことにはなりますが、それでも安全性だけは保証される。
貴方が後ろから刺されて全てが終わり、なんて結末だけは、それで確実に回避することが出来ますので。……ですが」
フードを深く被って、アナは続ける。
「あくまでも、私はサーヴァントです。マスターがそうしたいと言うのであれば、従います」
「アナ――」
立香が想起するのは、第七特異点で運命を共にした時の彼女のことだ。
正確には、特異点で戦った英霊とカルデアに召喚された英霊は同一の存在ではない。
だが、その人格や考え方は同じものである。あの特異点で、当初彼女は人を嫌い、恐れていた。
それがウルクの市民と生活を共にする内に徐々に心を開いていき、遂には営みを受け入れるに至ったのだ。
彼女は基本的に思慮深く、疑り深い。恐れるからこその思慮、恐れるからこその疑心。
そう。身も蓋もないことをいえば、本質的には立香と相容れる性質の持ち主ではないのである。
だからバビロニアの時のような状況ではない、“こういう”特異点で行動を共にするとなると、こうした齟齬が生じるのは当然のことであった。
それを見ていたエミヤは――思う。
率直な感想だ。この二人は面倒臭いなと、溜息すら吐きたい心境だった。
何が面倒かといえば、罪悪感を感じているのは無理に従わせる形になってしまった立香の方だけではない。
アナの方も、マスターにそうした負担を与えてしまったことを感じ取っており、やってしまったと自己嫌悪に駆られている。
端からそうしたあれこれに関わる気のない土方はまだしも、高い観察眼と洞察力を持つエミヤには、そのことが丸分かりだった。
立香もアナも、双方感情がなかなかどうして表に出やすい質であるらしい。
“それにしても――”
ふと、エミヤは仰向けに横たわったままの少女へ視線をやる。
蒼の長髪は宝珠のようで、精微な顔立ちは上等な人形のそれを思わせる。
非の打ち所のない美少女。美男美女揃いなのは英霊の常であるが、彼女はその中でも間違いなく上位層に食い込む部類だろう。
もちろん、エミヤが気にしているのはそんな部分ではない。少女に不審な部分も、特筆すべき部分も見られはしない。だが――
“いや。まさか……な”
脳裏に一瞬過ぎった嫌な想像を、エミヤは頭を振って脳内から排斥する。
正直な話――彼には、この英霊の真名に心当たりがあった。
未来の英霊である彼が、守護者としての戦いの中で紡いだ縁だとか、そういうのではない。
ただ、似ているのだ。この娘は、彼の知るある英霊に。
どこがと言われれば答えに窮するものの、強いて言うならば面影がある。
尤もそれは、真名を推測する根拠としてはあまりに弱い。それにエミヤ自身、出来るならば予想が外れてほしいとすら思っていた。
英霊というものには相性がある。
互いに引き立て合う英霊もいれば、水と油のように弾き合う英霊もいる。
―――つまりは、そういうこと。英霊エミヤにとって相性の悪い英霊といえば、浮上する名前は……
「…………!」
その時であった。
エミヤの鋭敏な聴覚が、不穏な音色を捉えたのは。
地の底。人の手が及ぶ道理のない深淵から、何か途方もなく悍ましいものが這い上がってくるような――
溶岩の奥。灼熱に皮膚を爛れ泡立たせながら、歪な哄笑と共に冒涜的なものが浮かび上がってくるような――
こんな形容を耳にしたならば、大半の人間が笑い飛ばすだろう。
そんな音があるものかと。重篤な精神病者でもそんな幻聴を聞くことはないと。
事実エミヤも、人にこんなことを言われたなら大袈裟だと笑っていた筈だ。
皮肉を交えて、いつものように。――しかしながら、今の彼は違う。聴いた、聴いてしまった、その音を。
常人が聞こうものなら瞬時に全身が狂ったように鳥肌を立たせ、心の鼓動が狂い、数年は悪夢に付き纏われることになるだろう頽廃の旋律を!
「……っ!?」
「――弓兵ッ!!」
「分かっている! アナはマスターを、土方はその少女を抱えて退避しろ!!」
アナも、土方も、同時に“それ”を察知したらしい。
直前まで流れていたどこか気まずい、重い空気は一瞬で霧散した。
読経の最中にオーケストラの壮大な音色を炸裂させたように、危機の波動が星見台からやって来た登山者達を飲み込んでいく。
アナは立香を先程同様に抱えて、土方もまた気絶したままの蒼髪少女を背負って、極めて迅速にその場を飛び退いた。
エミヤも同じ。だがただ一人抱え、背負うもののない彼は、誰よりも速く襲い来る敵の正確な姿形を冷静な眼で視認することが出来る。
千里眼改め鷹の瞳。カルデアのサーヴァントとして戦う内に強化されたその両眼は、カダスの底より来る巨大にして理不尽なるモノの姿を正しく認識する。――さあ、来るならば来い。かつて正義を志し、摩耗し、答えに行き着き、その末に星見台へと至った弓兵の眦が鋭く細められた。
「▅▆▇▅▇▃ ▇▇▅▇▇ ▃▇▇▅▇ ▇▅▇▃ ▇▅▇」
――地底より響く唄。重く、鋭く、けたたましく。怪鳥の声と呼ぶには重厚すぎた。王の号令と呼ぶには無粋すぎた。
「あ……」
断崖を超えた立香達の度肝を抜いた巨大クレーターの、その全体に卵の殻さながらに亀裂が走っていく。
それを見るや否や、アナは自分の愚かさを悟った。自分はただ空回りし、主を困らせていただけだったと理解した。
そもそも、信用するしないという次元でさえなかったのだ。その諍いに一切の意味はなく、それは只管滑稽なだけの道化問答でしかなかった。
何故なら真の敵は、常に彼女達の傍に居たのだから。
敗走などしていない。“それ”は勝利した上で地へと沈み、ただ命知らずにもカダスへと挑んだ探索者達を待っていた。
疑心を募らせ、勝手に罪悪感の瓦礫を重ねていく女神を、“それ”は下品に嘲り笑いながら鑑賞していた。
「▅▆▇▅▇▃ ▇▇▅▇▇ ▃▇▇▅▇ ▇▅▇▃ ▇▅▇!!」
未だ冷めることなく沸騰して沸き立つクレーターを突き破って肉塊の触手が現出した。
次に頭が、腕が、胴体が、そして魔獣の如き八対の多脚が。漣のように小さく蠢く無数の鱗が。
「ッ……う……!」
立香は以前、ラフムという新人類によって作り出された地獄絵図を目にしたことがある。
人を惨殺してケタケタ嗤うあれらはまさしく嫌悪感の塊だったが、これはそれとは全く違う嫌悪感を呼び起こす存在だった。
根源的、本能的な恐怖。人間が心の中で思い描く“恐怖”の概念をデタラメに繋ぎ合わせたみたいな、あまりに均整と無縁すぎる“何か”。
さしもの立香も込み上げてくる吐き気に耐えかねて、その場で胃袋の中身を嘔吐した。
単なる造形の暴力に圧倒されたのではない。あれの表面で蠢く、鱗のような何か。
それが巨大な肉塊に食らい付き、丸々と肥え太った無数の妖蛆であることに気付いてしまったからだ。
「お気を確かに、マスター! ……しかし、あれは――」
『ッ……どういうことだ――ありえない! あんなものが……』
ダ・ヴィンチが、絶句していた。目を戦慄に見開きながら、万能の人と呼ばれた英霊が叫ぶ。
『あんなものが! あんなものが、英霊だっていうのか……!?』
魔獣、否。
あれは間違いなく英霊であり、人類史にその名を刻んだ英雄である。
ダ・ヴィンチの声を肯定するように、それの顔がニィ、と歪んだ。
立香とダ・ヴィンチの二人は――その顔に覚えがあった。
人理修復の旅にて巡った特異点の二番目。狂気に支配されたローマ帝国との戦いを共にした、狂おしくも雄々しき狂戦士の顔によく似ていた。
「 サア 叛逆ノ時間だよ 」
――――これなるは狂気なりし叛逆者の成れの果て。非道の変生により換骨奪胎を施された歪の凶獣。
――――真名、スパルタクス。妖蛆を纏いて無限の破壊を撒き散らす、人類史上最悪の圧制者である。
最終更新:2017年10月26日 03:59