◇
「スパルタクスだって!?」
驚愕の声をあげたのは、立香である。
スパルタクス。トラキアの剣闘士にして、第三次奴隷戦争を実質的に主導した“全ての支配者の敵”。
老若男女入り混じった烏合の衆を見事に指揮し、強大なるローマ軍へ白星を重ねた“虐げられし人々の希望”。
セプテムの地で立香が見た彼は狂気の波動に冒されていたが、それでも彼の中に燃える叛逆の志は微塵も陰ってはいなかった。
そのスパルタクスが、今再び目の前で暴れている。それも、明らかに前とは違う異様な姿形を持って。
「スパルタクス……驚いたな。かの革命戦士が、よもやこれほどまでに人間離れした姿形をしていようとは」
「人間離れしてるとか、そういう次元ですらねえだろありゃ。馬鹿でけえ蛸か何かの死骸が意志を持って動いてるようにしか見えねえよ」
立香達は知らないことだが、実のところスパルタクスという英霊が異形の姿へ変貌することには前例がある。
とある世界、“聖杯大戦”と呼ばれた最大規模の聖杯戦争に召喚された彼は、その特殊な形態と複雑化した因果線によって“受けたダメージのいち部を魔力に変換する”という彼自身の宝具の変換効率を盛大に暴走させた。
その結果、首を裂かれようが全身を切り刻まれようが、無数の矢で余すところなく撃ち抜かれようが即座に再生する規格外の怪物が完成した。
最大まで高まった魔力は彼を巨大な異形生物に変貌させ、スパルタクスは破壊と狂乱の限りを尽くした。
その前例を踏まえて考えれば、確かに彼が此処まで魔獣めいた慄然たる姿を晒すことも有り得ない話ではないのかもしれない。
――だが、違う。問題は姿形などではない。この凶獣はスパルタクスという英霊を元にしてこそいるが、スパルタクスを語る上で一番大切な部分を意図的に歪められている。故にこその怪物。手のつけようも相互理解の余地もない、正真正銘、生きとし生ける物全てにとっての害悪存在なのだ。
「――声がする。
弱き者、踏み躙られし者の声が。
おお、何と愛らしい! おお、何と痛ましい!
憤慨せよ、慟哭せよ! 汝の無念を憎悪と変えて月へと吠えるのだ!!」
スパルタクスの上半身は、肉塊の中央に位置していた。
下半身があるべき場所から全長数百メートルはあろうかというクレーターを埋め尽くす肉塊が生えているため、ひどくアンバランスな造形となっている。本来の彼の抜け殻だけが未練がましくぶら下がっているような、そんな印象すら抱かせた。
そんな本体の口は獣のように耳まで裂け、剣山のような蛆の這う乱杭歯を覗かせて、カダス一帯に響くほどの勇ましい声をあげる。
弱者。力に敗れた者。弾圧される者。それら全て、等しく天に無念を吠えよと、かつて無力に腐っていた奴隷達を鼓舞した時のように絶叫した。
「――されど狂気なりしカダスの山に圧制の影はなし!
あるのは無限の冒涜、果てしない不定形の恐怖のみ!
なればこそ、私が諸君を燃え上がらせる圧制者となろう!
支配の鞭を振るい、理不尽の火を浴びせ、君達に雄々しき奮起をもたらそうではないか!」
それは――本来のスパルタクスを少しでも知る者ならば、耳を疑う言葉であった。
全ての圧制者を憎悪し、討ち倒すこと。それがスパルタクスという英霊の根源であり、決してブレることのない心臓だ。
にも関わらず、今この怪物は何と言った? 己がおまえ達の圧制者になって鞭を振るうと、理不尽をもたらす者になると声高に宣言したのだ。
「ふはははははは! 素晴らしい! 素晴らしい!
我が支配を以って奏でられる甘美な叛逆の音色! 愛おしい、愛おしいぞ!
弱き者の雄叫びこそが、私に絶頂をもたらす至高至上の媚薬となるのだ!!」
「――な」
やはり、それは聞き間違いではなかった。
スパルタクスと実際に対面した者でなくとも、彼の生涯を知っていれば首を傾げるより他ないだろう言葉。
愛おしき叛逆を生み出すために自らが圧制者となり、支配を以って弱者を目覚めさせる。
その叫びこそが己を満たし、絶頂へ導くのであると、青白い肌の狂戦士は喜悦に淀んだ声で謳い上げた。
立香はその異様な光景に、今度は視覚から伝わる嫌悪感ではなく、純粋な未知への恐怖で背筋を凍らせた。
この――自分が縁を結んだことのある英霊と同じ顔、同じ声をした“何か”が、悍ましくて堪らなかったのだ。
『……そうか、そういうことか。一瞬面食らったが、分かったぞ。
全くもって最悪だ、趣味が悪すぎる。這い寄る混沌め、流石に邪神を名乗るだけはあるってコトか』
「っ、ダ・ヴィンチちゃん……それは、どういう?」
『キミも聞いていただろう、霊基の改変だよ。
いや、改変なんて上等なものですらない。あれは混沌の化身に変えられているんじゃなく、単に換骨奪胎されているんだ』
換骨奪胎。それは骨を取り替え、胎を奪い取り、己のものとして使うという意味を持つ言葉だ。
特に創作の世界では、先人の詩文から発想や表現法を拝借し、そこに自分なりの工夫を加えて作品を仕立てる技法のことを指す。
目の前でスパルタクスの生涯全てを冒涜するような台詞を叫び散らすかの凶獣はそれの賜物であると、ダ・ヴィンチは言う。
その顔には、彼女らしからぬ嫌悪の色が浮かんでいた。憤激、と置き換えても間違いではないだろう。
この天才をして噴飯するほどの非道が、スパルタクスに対し働かれたというのか。その結果が、あれだというのか。
『スパルタクスという英霊の能力と性質はそのままに、彼にとって一番大事な核の部分を悪意たっぷりに歪めているんだよ。
圧制者を憎み、弱者の盾となって勇敢に戦う――そんな彼の意志をその苛烈さだけ残して、“弱者を愛し、自らが圧制者となってそれを奮起させる”という風に歪曲したんだろう。これは文字通り、その英霊の生涯そのものを冒涜し、陵辱する行いだ。
……流石の私も少しばかり胸糞が悪い。流石に、トリックスターなんてろくでもない称号を持った神なだけはある』
ダ・ヴィンチの話を聞き終えた立香は、愕然とした。
そんな――そんなことが、許されるのか?
彼は人類史上、最も多くのサーヴァントと契約し、絆を深めたマスターである。
カルデアの手厚いバックアップがあるとはいえ、後にも先にも彼以上に英霊を召喚した魔術師は現れないだろう。
一口に英霊と言っても、いろいろな人物がいる。高潔な者、おちゃらけた者、悪辣な者、そもそも分かり合えるのかすら怪しい者。
けれどそのどれにも壮大な物語があり、生涯があった。それを終えた果てに、彼らは星見台へとやって来てくれたのだ。
そのことを誰よりよく知っているからこそ、立香には目の前の光景が信じられない。混沌の神の働いた所業が、信じられない。
「それが本当だとすれば、最早反転や変質といった次元ですらないな。
文字通りの改悪、低俗な二次創作だ。粗悪品もいいところの改造品を、桁違いのエネルギーを注ぐことで強引に動かしているのに等しい」
「……這い寄る、混沌」
「……マスター?」
立香はいつの間にか、砕けんばかりの強さで拳を握っていた。
これまでにも、反転や変質で在り方を歪められたサーヴァントに出会ったことは何度かある。
しかしこれは、それと同じ枠組みでカウントすることさえ悍ましく思えるほどの度を超した侮辱であった。
生き様の否定そのもの。どんな英霊であろうと、世界に刻んだ生とその意味を否定される謂れはないはずなのに。
「―――許せない。こんなコト、許していいわけがない……!!」
立香は、怒っていた。
過去類を見ないくらいに、目の前の非道に激怒していた。
スパルタクスと彼の間に特別太い縁のパイプが存在するわけではないが、一人のマスターとして、それ以前に一人の人間として、こんな悪趣味で原典を馬鹿にしたような換骨奪胎を認めるわけにはいかなかった。
エミヤはこれを二次創作になぞらえて語ったが、まさにその通り。
英霊の生き様という物語を読んで、自分ならこうする、こうなればよかったのにと自由自在に改悪した結果があれだ。
スパルタクス以外にもあんな目に遭わされている英霊がいるかもしれないと考えるだけで、立香は内なる感情が猛く燃え上がるのを感じる。
「やれやれ。どの道、アレを避けて通るわけにも行かなそうだ」
ギョロギョロと精神病者のように大きく蠢いていた目玉が、今は立香達の居る方を確と見据えている。
這い寄る混沌・ナイアルラトホテップは何故あんなものを作り上げたのか。何故、こんな場所に放っているのか。
問うまでもなく答えが明白な命題だ。要するに、アレは門番なのである。未知なるカダスを夢に求めた探索者達を試す、異形の門番。
迂回路を探すのも一つの手かもしれないが、まず間違いなくアレは追ってくるだろうし、藤丸立香を試したい旨を口にしていたあの邪神がそんな邪道の攻略法を許してくれるとも思えない。
誠に業腹ながら、此処は正面突破するしかないのだった。哀れにも歪められた反逆者の成れの果てを、討ち倒し解放することで。
「――やるぞ、マスター。
君を守りながら戦いたいのは山々だが、如何せん相手が相手だ。私も気を回してやれる余裕があるか分からない。
善処はするが、最大限生き残る努力はしてくれたまえ。……尤も、今更言われるまでもないかな?」
「当然ッ」
――かくて星見台は恐怖神話が生んだ最新の獣へと挑む。
魔術師は怒りに震え、狂戦士は平常通り猛り、弓兵は慣れた怪物殺しを成すのみ。
――ただ、しかし。
“……わたしは、マスターの足を……”
混沌の嘲笑う声がする。
それは幻聴であったが、少女には身を蝕む毒に等しかった。
不和の歯車を抱えたまま、星見台の少女は鎌を構えていつも通りに戦いへ臨む。そう、装う。
ケタケタと脳裏に響く声を、羽虫を追い払うように振り払いながら。
そして――蒼の少女は、未だ眠りに落ちたまま。
◇
「▅▆▇▅▇▃▇▇▅▇▇▃▇▇▅▇▇▇ォォォォぉォォォォぉ――――!!!!」
大気をビリビリと罅割れさせながら迸る咆哮が焼けた砂を巻き上げていく。
それは聴覚への暴力に留まらず、既に物理的な破壊力を伴った一つの“現象”として確立されていた。
エミヤはその余波として押し寄せる衝撃波に顔を顰めながら、冷静に分析する。
――攻撃自体は大したものではないが、それを繰り出す本体の大きさが問題だ。
ただの咆哮という原始的な、本来攻撃として成立するかも怪しい一手を、全長数百メートルの巨躯から繰り出すことで無理矢理宝具級の破壊力を持った広範囲攻撃に変えてしまっている。
“アレもサーヴァントである以上、どこかに霊核が存在するはず。
それを射抜けさえすれば、一撃で幕を下ろすことも不可能ではないだろうが……”
場所自体は、見当が付いている。
文字通り山のように大きな肉塊に、抜け殻のようにくっついたスパルタクスの上半身。
しかしその口や目が確かな意志の下に動いているのだから、空洞では有り得ない。
つまり、あの本体部分が急所である可能性は非常に高いと言える。
エミヤは、そうした小さな的を射抜くことに長けたアーチャークラスのサーヴァントだ。
鷹の瞳を持つ彼にしてみれば、当てるのはごく容易い。赤子の手を捻るようなものと言っても、誤りではない。
褐色の指が弓を引く。そこには得意の投影で複製した鋭剣が矢として番えられており、指が弦より離れると、それは銀の閃光となりて飛翔した。
贋作とはいえ宝具は宝具。
正確無比な弓撃は、微塵のブレもなく荒れ狂う凶獣の心臓部と思しき地点目掛け迸る。
――が。それを黙って受けるほど、混沌手製の玩具は甘くない。
「▅▆▇▅ゥゥ!!」
「……やはりそう上手くは行かんか。やれやれ、気の長い戦いになりそうだ」
蛸の触手のように撓った肉塊が、投影宝具を真横からなぎ払って文字通り粉砕したのだ。
もちろん、これしきのことはエミヤとて予想通りだ。首尾よく一撃で決まるなどという甘い思考は元より頭から排斥している。
次にエミヤが番えたのは、螺旋に捻くれた刀身を持つ一振りの剣――元はアルスターのさる戦士が担っていた、虹の名を持つ武装である。
「―――I am the bone of my sword」
真の担い手、その名はフェルグス・マック・ロイ。
そしてこれなるは振り抜いた剣光によって三つの丘を切り裂いたと伝わる、アルスター伝説の名剣。
後の時代、数多の英雄たちが手にした魔剣・聖剣の原型になったと謳われるこれは、エミヤの投影出来る宝具の中でも文句なしで上位の代物だ。
本来の担い手ほど巧く、強烈に扱うことは敵わねども――武器の持つポテンシャルを、道具として引き出すことならば造作もない。
「―――“偽・螺旋剣”」
放たれた途端、その魔剣は空間を捩じ切った。
スパルタクスの咆哮にすらかき消されることのない鋭さで空を裂き、肉塊の触手がそれを阻もうとしたところで、魔剣が爆ぜる。
“壊れた幻想”と呼ばれるこの技術は、投影魔術による武具の複製を主戦法とするエミヤだからこそ気兼ねなく運用できるそれだ。何せ宝具を自壊させる行いに等しいのだから、まともな英霊では余程の状況でもない限りただの自殺行為に終わってしまう可能性の方が高いのである。その点エミヤは魔力の保つ限り、自由自在に宝具を複製できるのだから乱用が可能なのだ。
スパルタクスの総体の凡そ七割強を覆い尽くすドーム状の大爆発が、カラドボルグの自壊と共に炸裂した。
その威力たるや、贋作と侮っていい次元のそれでは断じてない。
結界を展開して戦闘態勢を構築した神代の魔術師の防御を余波のみで突破し、その上で消滅寸前に追い込むほどの威力。空間を飛び越えて逃げようとしても空間ごと抉るから無意味という、反則的なまでの攻撃性能を誇るのがこの投影宝具である。
凶獣と化したスパルタクスの巨大さ、サイズに比例して生まれる重さは確かに驚嘆すべきものであったが、肉の塊であって骨の塊でない以上は耐久度自体はそれほど高くないはず。ならば容赦のない大火力を叩き付けて、一気に焼き尽くしてしまうのも手の一つだろう。そんな荒唐無稽な戦術を大真面目に実行できるのが、サーヴァントという存在だ。
あの火力を受けたならば、良くて総体の半分は焼滅。最悪の場合、半分どころか殆どの体部分をもぎ取った可能性もある。
いずれにせよ無傷では済むまい。肥え太ったが故の鈍重さが凶と出たわけだ。流石に即死ということはあるまいが、一気に戦況は勝利へと近付いた。後は此処から駄目押しを何度か撃ち込んでやれば勝敗は決するはず――そういう思考に至るのが普通であろう。
だが、エミヤは違った。その戦いを見守る立香も違った。何故か。彼らは、知っているからだ。スパルタクスが、どんな英霊であるかを。
「――おお、愛おしき熱。
――おお、麗しき炎!
芳しき血と肉の薫り、これぞ叛逆の証左である!!」
爆風の底から響く声は淀みなく、苦悶の色を宿さない。
スパルタクスは奴隷達を先導して立ち上がった生粋の叛逆者。あらゆる圧制を否とし、虐げられていた有象無象の奴隷達を時の政府が大軍を組織しなければ鎮圧出来ぬほどに高め上げた指導者でもあると、そう伝えられている。
確かに、彼に希望を見て立ち上がった者達の奮戦も素晴らしいものだったのだろう。
しかしながら、それだけではないはずだ。ローマが真に恐れたのは、奴隷の底力などではなかったはずだ。
彼らが恐れたのは――痩せ細った体、痩けた顔に闘志の炎を燃やしながら突撃してくる奴隷達、それらを先導する傷だらけの男。生気を感じさせない蒼白い肌で不気味に微笑みながら、斬っても撲っても構うことなく突き進んでくる一人の剣闘士をこそ、ローマは真に恐れたのである。
「故にこそ私は愛の鞭を更に振るおう! 我が愛は炸裂する圧制の刃、汝らを目覚めさせる慈愛の弾圧!
耽美なる、耽美なる耽美なる耽美なる――フ、ふはは、フゥあっはっはっはっはっはっは▇▅▇▇▃▇▇▅▇▇▇▅▇▇!!!!」
「……化け物め」
爆風が晴れた先にあったのは、カラドボルグの炸裂により切り裂かれ、焼き尽くされたスパルタクスの肉体が再生していく光景だった。
より正しくは、破壊された大小様々な大きさの傷口を押し破って新たな肉が飛び出し、それが新たな彼の体となっていく。
淘汰されたと思われた妖蛆はその肉を食い破ってまた皮膚を這い始め、二十秒もした頃にはすっかり敵は元通りの肉体規模を取り戻していた。
それどころか、僅かながら肉量が増えているようにも見える。戦えば戦うほど、痛めつけられれば痛めつけられるほど、強くなっていくのだ。
「スパルタクスの、宝具か……!」
立香はセプテムの記憶を引っ張り出して、凶獣の力のカラクリを看破する。
バーサーカーとして召喚されたスパルタクスが持っていた宝具、『疵獣の咆吼』。
外部から受けたダメージを魔力に変換する宝具が、あんな姿になっても彼の中で働き続けているのだ。
何故ならあの凶獣は換骨奪胎の産物。叛逆の魂を象徴するかの宝具を取り除いてわざわざ弱体化させる理由がない。
歪めるべきは英霊の本質、尊厳。道具として使うならば、そこに付随する力はそのまま残した方が良い性能を発揮するのは当然のこと。
……つくづく、反吐の出るやり方だった。這い寄る混沌の悪辣さを、不快感と共に再度実感する。
「立香ァ! この餓鬼はお前に任せた!!」
「分かった! 俺も全力で走り回るから、土方さんは気兼ねなく戦ってくれ!!」
「おう、そのつもりだッ!!」
土方は立香に蒼髪のサーヴァントを投げ渡すと、整った貌を鬼相に染めて敵へと突撃していった。
己を迎撃せんと降り注ぐ触手を、全力を込めた抜刀で以って受け止める。
土方の筋力パラメータでは拮抗などまず不可能な次元の重量であるが、彼は己の身体を顧みず、リミッターを外す行いでそれを実現させてしまう。
それどころか刀を片手持ちに切り替え、空いた左手で銃を抜き、そのまま目の前の触手に向け発砲。
最早砲撃と呼んだ方が適切ではないかと見るものに思わせるほどの威力で、肉塊の凶獣、その一部を吹き飛ばしてやる。
古代ローマはトラキアの剣闘士、スパルタクスと幕末日本は江戸の鬼副長、土方歳三。
どんな歴史マニアでも思い描かなかったであろう、接点も何もない二人の激闘は神話めいていた。
迫る魔の触手を土方が無数の剣戟と銃撃で打ち破り、敵と妖蛆の悍ましい返り血を浴びて尚怯みもしない。
その姿は、およそあらゆる絶望の闇を切り払う曙の光めいた輝きに溢れているが、しかし。
「チッ……!」
戦況は、あまり芳しいものではなかった。
そのことは剣を振るい、銃を撃つ彼の表情の険しさが物語っている。
事は単純明快、それ故に身も蓋もない話――土方は、火力が足りないのだ。
土方歳三はバーサーカーの中でも一際攻撃的な性能を持ったサーヴァントである。
それで火力が足りないとは妙な話だが、彼に足りないのは部分火力ではなく、範囲火力であった。
エミヤのカラドボルグのように、一撃で広範囲を消し飛ばせる攻撃でなければ凶獣スパルタクス相手には通じていないも同じ。
斬った端から再生されてしまうのだから、“確実に触手一本を斬り飛ばせる”程度では話にならないのである。
となれば彼が有効打を与えるには、スパルタクスの本体まで接近、一撃で切り伏せるしかないのだったが――
それが出来れば苦労はしない。四方八方から押し寄せる肉塊の鞭に加え、この凶獣は超高熱の魔力放出攻撃も持ち合わせているのだ。
後者だけならばまだ負傷を顧みぬ土方の戦闘スタイルで突破可能だろうが、質量を持つ壁として道を阻む触手だけは如何ともし難い。
なんとも、相性の悪い敵であった。そしてそれは、何も土方に限った話ではない。
「くっ……」
土方と同じく、アナもまた範囲火力を持たないサーヴァントだ。
とはいえ、彼女の場合は少しばかり事情が違う。
土方を悩ませている“傷の自動再生”を、アナはこの場で唯一突破することが出来ていた。
その理由こそ、彼女が担う不死殺しの鎌。
遠い未来、怪物と成った自分を斬首することになるその刃は、“屈折延命”の特性を持つのだ。
簡単に言うなら、それは不死能力に対するカウンター。
この刃で付けられた傷は、自然ならざる復元・再生が一切行えなくなる。
故に純粋な力比べを裂けつつ触手を真横から切断していけば、アナは触手の総数を明確に減らしていくことが可能なのである。
……とはいえ、彼女の方も土方ほどではないにしろ苦戦を強いられていた。
理由は、ある意味では彼以上に単純。凶獣の方もアナの脅威性を認識しているのか、彼女の方に多く攻撃のリソースを割いてくるからだ。
「――麗しい。未熟なれど鋭き叛逆の兆し、我が胸を打つ」
「五月蝿い、ですっ……!」
数値上は土方と同格の筋力を有するアナだが、攻性に特化したスキルと宝具を持つ土方に比べれば当然実戦では幾らか劣っている。
怪力のスキルを使って切り抜けることも可能ではあるものの、あれはあれで、持続時間に制限のあるスキルだ。
大人の姿のメドゥーサならばいざ知らず、彼女よりランクの低いアナでは、当然そのリミットも早まってしまう。
厭らしくも執拗に押し寄せる触手の全てと打ち合って無事でいられるほどのスペックを、この女神は持たない。
となると必然回避に専念しなければならなくなり、攻めと前進が疎かになる。そういうわけだから、スパルタクスの本体へは彼女も近付けない。
「おお……我が愛しき叛逆の魂たちよ」
――と、その時であった。
スパルタクスの展開している肉の触手に、ピリピリと痛々しく小さな無数の裂け目が生まれ始めたのは。
人の姿を遥か逸脱した怪物であるとはいえ、小さな傷が無数に発生している姿は見る者に強い生理的な嫌悪感を与える。
されど、そんなことを気にしている暇はほんの二秒後には消滅することとなった。
生まれた裂け目の全てから、血のように赤い光がぽつりと漏れ出して――
「――――熱く、滾るがいい」
それが、莫大な熱量を宿した光条となって星見台の登山者達へ襲い掛かったためだ。
「「「ッ……!!」」」
三体のサーヴァントが、同時に反応する。
立香もまた、光を視るや否や近場の岩陰へと駆け出していた。
あれが、先程自分達を戦慄させた……更に言えば、今は肉塊が埋め尽くしている巨大クレーターを作り出した熱光放出攻撃であると悟ったからだ。
貫通力、速度、そして熱量。いずれも極めて高い水準で纏まったそれは、対処の余地がない分触手の重量より遥かに厄介であった。
あちらはまだ、仮に被弾することがあっても立て直しが効くが、こちらはまともに喰らえばどう足掻いても致命傷だ。
その上で、最大出力で放てばこの辺り一帯を先のクレーターのように吹き飛ばすことすら可能であると来た。
「……っ、これじゃ、ジリ貧だ……」
立香は歯噛みしながらそう漏らす。
まさにジリ貧、その通り。
有効打を与える余地があるのはエミヤのみであり、土方とアナは戦いのスタイルと火力の関係上スパルタクスの核を砕けない。
幸先が悪いことこの上なかった。カダスの地で待ち受けていた最初の番人は、よりによって今回の布陣と最も相性の悪い手合いであったのだ。
では――勝てないと諦めてしまうのか?
“いや、違う。……俺にも出来ることはある。皆の、アナ達の戦いをサポート出来るんだ”
そういう結論に到れるほど、藤丸立香は利口ではない。
だからこそ人理を救えたのだ。だからこそ、這い寄る混沌の執着を買ったのだ。
彼は凡そその人望と幸運以外は無力な人間であるが、しかしその身に纏う礼装は別だ。
魔術礼装・カルデア。人理修復の旅に出た当初から今に至るまで、ずっと愛用している一着。
火力支援に回復、限定的ながら回避の付与さえこなす優れものだ。
他にも礼装は幾つかあるのだが、立香としてはこれが一番扱いやすいと思っていた。
自惚れかもしれないが、この状況を覆すためには、これを巧く使うしかない。立香はそう考え――あるサーヴァントへ念話を送る。
“――エミヤ!”
“どうした、マスター。負傷でもしたか?”
“ううん、そうじゃないんだけど――エミヤは、アナの武器を投影できる!?”
不死殺しの刃。英雄ペルセウスが担い、怪物殺しを成した逸品。その銘を――
“……ハルペーか。可能だが、あれを射っても簡単に落とされるぞ”
“分かってる。“撃つ”んじゃないんだ”
“……、……”
ハルペー。
これをこそ、星見台の魔術師は状況打開の鍵と踏んだ。
漠然とした立香の言葉にエミヤは難しい顔をしたが、聡明な彼だ。
すぐ、己がマスターの言わんとする意図を理解する。
“――そういうことか。やや危険だが、サーヴァントは三体。
どうせ此方が消耗するばかりの戦いなのだ、一発逆転の賭けとしては上等だな”
そして――赤い弓兵はニヤリと、その口許を歪めた。
◇
「おお、おお、おお、おおおおおおお▅▇▃▇▇▅▇▇▃▇▇▅▇▇▃!!!!!」
咆哮するスパルタクス。
再び放たれる全方位への魔力射撃だが、星見台の英霊達も木偶ではない。
如何に隙間なく虚空を埋め尽くす砲撃であろうが、二度目ならば凌ぐ動きにも余裕が出てくるというもの。
無論、スパルタクスの側も当たらなかったとなれば手を変える。
開いた傷の孔が奇怪な音を奏でながら繋がり、そこから一つの大傷となって速度も威力も数段増幅された大魔力熱光が噴出した。
一騎につき十三本もの破壊光が死ねよ朽ちろよと殺到していく様はこの世の終わりめいている。
しかし――
「手筈通りだ! 二人とも、私の後ろまで走れ……!」
こういう手に出てくるのは、誰もが予想していたことだ。
未知でも既知でも脅威は脅威、本質の危険度は何も変わらない。
だが先程の全方位射撃の際もそうであったように、既知であれば対処の幅は大きく広がる。
例えば、このように。事前にそう打って出ることを予測した上で、最適なカウンターを用意する芸当さえ可能となる。
アナと土方の両名が、触手の邪魔も許さぬ素早さでエミヤの後方へと移動。
この時点で、前進を度外視した回避行動によりアナ達を目掛けて放たれた総数二十六本の光は無駄撃ちとなった。
残るは十三。三人の愛しい叛逆者を更なる叛逆へ誘わんと迸る魔の極光は、しかし彼らにとって対処不能の事象とはなり得ない。
「――――I am the bone of my sword.」
それはこの英雄を象徴する言葉。
スパルタクスのそれに負けぬ魔力の輝きが、エミヤ達の前方に展開される。
花弁。花弁だ。七枚の花弁から成る、英霊三騎を守る守護の盾。
たかが花弁と侮るなかれ。その一枚一枚が、古の城壁と同等の防御力を有しているのだ。
エミヤは千を超える投影宝具を貯蔵しているが、その中でもこれは最高の防御力を持つ代物である。
堕ちた叛逆の光を阻む光の花。エミヤは雄々しく、声を張り上げ盾の銘を謳った。
「“熾天覆う七つの円環”――――!!」
激突する赤と赤、破壊と守護。
されどその結果は、すぐに明らかとなった。
スパルタクスの光は花弁の五枚目までを粉砕したが、六枚目に阻まれ虚しく消える。
当然であろう。アイアスの盾はそもそも、飛び道具の類に対して無敵の性質を持つ概念武装だ。
邪神の力を注がれ、尚且つ魔力変換効率の暴走により桁外れの威力を持つに至ったスパルタクスの攻撃をも阻む姿の、何と凄まじいことか。
だが、感心している暇などない。
壮絶の一言に尽きる光景に見惚れて呆けた面を晒せば、次の瞬間には死んでいても何らおかしくはない。
そんな苛烈極まる戦場こそが、此処なのだから。
「土方さん、行きますよ」
「――進め、斬れェ!!」
成立しているのかよく分からない会話を合図に、アナと土方がエミヤの背後から一気に駆け出す。
目指す先がどこかなど改めて言うまでもないだろう。当然、スパルタクスの本体部分だ。
己の攻撃を凌ぎ、果敢に立ち向かってくる姿さえ愛おしいとばかりに、凶獣はそれを見て破顔する。
「愛ァァァイッ!!」
振るわれる触手――しかしそれは、今となっては単なる障害物に非ず。
アナは触手の一本を躱すと、そこに得物の鎌先を突き立ててアンカーの代用品とする。
そこから、持ち前の軽やかな身のこなしを以って触手の上へ飛び乗った。
更に鎌の鎖部分を土方の方へ垂らし、彼もそれを掴んでアナと同じ位置まで登ってのける。
「二人とも、急いで!」
そんな立香の声を聞くまでもなく、二人は全力で足を動かしていた。
蠢く肉塊の大地は足場としてはあまりに不安定だ。気を抜けば足を取られ、転倒しそうになる。
というより、常人ではこの上を転倒せずに走り抜けるなど不可能であろう。
それを苦もなく当然のように行える時点で、アナも土方も、やはり人知を超えた存在なのだ。
「抱擁しよう」
左右から押し寄せる触手の波は肉の壁に等しい。
どうにか強引にそれを駆け抜けて突破しても、その先には待っていたとばかりに口を開けた無数の傷口。
「―――ほら、傷口も笑ってる」
その弾速を考慮すれば、傷口とアナ達との間合いは実質ゼロと言ってもいいだろう。
当然ながらそんな間合いで、速度と威力を両立させたスパルタクスの魔力砲撃を受けるのは即、死に繋がる。
限りなく詰みに近い、そんな形容すら何も大袈裟ではない。それほどまでに、絶望的な絵面であった。――だが。
「気色悪いことを抜かしてんじゃねえぞ、変態がッ!!」
土方がアナを押し退けて前に出、目にも留まらぬ高速で刀を振るう。
お世辞にも綺麗とは言えない形で握り締めた刃は、狂戦士の力で振るわれることにより暴風めいた猛威となる。
それでも、やはり間合いが致命的だった。この至近距離では全弾を捌くことなど到底不可能。捌き切れなかった分の光が土方の足や腹を次々と射抜いていく。されど――そんなことは、幕末にて鬼と呼ばれたかの狂人・土方歳三を止める要因にはなり得ない。
『不滅の旗』。全てのダメージを無視して前進する無茶苦茶を是とする、土方という男を象徴するような宝具。
それが土方に倒れることも退くことも許さず、刀を振るい続けさせ、詰みに限りなく近い盤面を返す理不尽を現実に実現させてのけた。
そうなれば再び始まるのは進軍だ。
触手を躱し、時に足場として二騎の英霊が進んでいく。
スパルタクスは、理解しているだろうか。
この二人が持つ、それぞれの役割を。
――土方歳三は防御役だ。
前進して敵を斬ることを行動理念の中心とする彼だが、敵を倒す上で必要ならば、自分が守りに回ることも良しとする。
彼は勝つためならどんな手段でも用いる戦士なのだ。自分よりも目の前の敵を上手く殺せる者がいるのなら、それを支えて憎き敵の首元へ刃が届くよう援護してやる方が勝ちに近付けるに決まっている。
故に彼は今回、死に物狂いでアナを守る。不死の凶獣、無限再生の異形を“殺す”刃を持つ少女を。
「傷は負ってねえな?」
「……おかげさまで」
「良し、思い切り叩き斬れ」
文字通り、口を引き裂きながら笑う凶獣。
飛び出しかけた目玉は中に蛆が詰まっているのかと問いたくなるほど激しく動いている。
そんな様子がはっきり分かるほどまで、二人は距離を詰めることが出来た。
此処まで来れば、最早敵の心臓は見えたも同然だ。
――しかし。そう上手くは殺らせぬと、肉が縦に裂けて砲口が生まれる。
されど一本ならば対処のしようはある。ただ飛び退けばいいだけだ――
が。
「――――愛」
それこそ、獣の仕掛けた罠。
回避により生じた必然の無防備を射抜くように、爆速で超重量の触手が迫ってくる。
これに当たれば、間違いなく双方纏めて弾き飛ばされるだろう。
防御しようが、だ。それほどの威力を、この一撃は秘めている。
そして万一弾き出されたならば、無防備な滞空時間が死のシューティングゲームと化すことは想像に難くない。
地面に落ちるのを待たず、最低でもどちらかのサーヴァントはカダスより消え去っているはずだ――
が。
「――土方さんッ!!」
「応ッ、寄越せ立香ァ!!」
此処で、星見台の魔術師が介入する。
発動するのは瞬間強化――文字通り、サーヴァントの瞬間火力を爆発的に跳ね上げる攻めの切り札。
本来は決め手となる宝具に使用するものだが、この時、立香は防御のためにそれを切った。
攻撃は最大の防御、というわけだ。
「邪魔だ――去ねェ!!」
防御も回避も不可能の筈の触手を、土方は文字通り一刀両断。
反動を受けることもなく切り離し、スパルタクスの意図を完全に粉砕する。
その結果を確認するよりも速く、アナは動いていた。
丘のように盛り上がった肉の大地を蹴って宙へ舞い上がり、この期に及んで尚狂ったように嗤うスパルタクスの本体へ飛びかかる。否、斬りかかる。担うは不死殺しの刃――あらゆる不死を断ち、延命を許さない無情の刃である。
「――はあッ!!」
スパルタクスは丸太の如き剛腕を構えて防ごうとするが、当然、そんなもので阻めなどしない。
構えた腕諸共、アナの刃がスパルタクスの上半身を斜め一直線に割断した。
「▅▇▃▇、▅▇▅▇▃▇――」
言葉にならない音を血の溢れ出す口から発するスパルタクス。
宙へと踊ったその体を、しかしこれまで静観に徹し時を待っていた赤き外套の弓兵が見逃す道理はない。
「―――投影、開始」
その手に複製されるは、不死殺しの刃。
メドゥーサのものと全く同じ形を持った滅殺の刃が、流星となって空を駆け――
割断されたスパルタクスの“残り部分”を、微塵の慈悲もなく貫いた。
……いや。或いは、この“再演を許さぬ死”こそが――貶められ、書き換えられ、弄ばれた疵獣への最後にして最大の慈悲か。
「理解はしないが、同情はしよう。――安らかに眠り給え、トラキアの革命戦士よ」
――尽きることなき無限の命を失った肉塊が、地響きを奏でながら崩れ落ちていく。
あとがき(次の話の投稿の際に消えます):
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それと支援絵を描いてくださった某氏は本当にありがとうございました(土下座)
最終更新:2017年10月26日 03:57