国は日ノ本、時は江戸。
長い乱世の時代は終わりを告げ、世は泰平の凪に包まれた。
無論、国への不満や天下への野心を持つ者がいないといえば、嘘になる。
いつの世も支配と反乱は切っても切れない仲にあるのだ。
それが人間社会である限り、完璧な政治制度は興らない。
どんなに吟味しても誰かが必ず割を食う。
社会の発展とは、ひとえにその〝誰か〟とどう折り合いを付けるかだ。
要するに、少数の犠牲。
多数の幸福と安寧の上で生じる誤差。
それを承服出来ない者には、支配者の座は向かない。
その点今、泰平の日ノ本を統べる者はそれをよく弁えた人物であった。
戦国三英傑が一人にして、終わらぬ乱世に終止符を打った知恵者。
魔王と覇王の屍を踏み越えて、天下をその手に掴み取った狸。
名を、徳川家康という男。
彼とその幕府による治世の下、今後日ノ本は三百年に渡る泰平を享受することとなる。
維新の風が吹く時、武士の時代は終わりを告げる。
しかしそれまでの間、家康の築いた時代は過去最高の強度をもって君臨し続けるのだ。
乱世の兆しは長い抑圧の中で死に、文明開化と大戦を経て、日ノ本は世界でも有数の平和な国へ育っていく。
それが歴史の流れ。決して変わることのない、人理の定礎。
だが――決して脅かされることなく続くはずの徳川治世は、誰一人。
おそらくは神すら予期しなかったであろう〝揺らぎ〟に曝されていた。
「公よ。四国が墜ちました」
「……なんと、もはや」
家臣が沈痛な面持ちで主へと伝えたのは、〝奴ら〟によりまたも藩が陥落させられたとの報せだった。
狸と称されるに相応しい皺だらけの顔を苦々しげに歪め、征夷大将軍たる老人は唸る。
九州は既に壊滅して久しい。這々の体で逃げ帰ってきた開拓組の話によれば、蝦夷も主要な土地は殆ど食い尽くされてしまっているという。
そして、遂に四国までもが落とされた。かの地には名のある武将と精鋭の軍を配備し、迎撃の準備を万全に整えていたにも関わらず、である。
「このままでは江戸本土まであれらが押し寄せるのも時間の問題でしょう。
過ぎたことを言っている自覚はありますが……公の英断に、この国の未来が懸かっております」
「分かっておる。大儀であったな、下がれい」
心底困り果てたように眉間へ手を当て、老人は扇子で臣に退室を促した。
文句も言わずに立ち去るその背に、彼は途方もない不安と焦燥の色を見る。
無理もないことだ。現在この国を襲っている未知なる猛威は――明らかにあの関ヶ原を上回る脅威度を孕んでいるのだから。
今から、凡そ三週間ほど前の事だった。
突如江戸に届いた、薩摩陥落の報せ。
水平線の彼方より何の前触れもなく押し寄せた軍勢は、瞬く間に薩摩の全てを蹂躙したという。
幕府が動かした討伐隊は歯牙にも掛けられず、半日と保たずに壊滅。
現在に至るまで江戸幕府は、国土を食い荒らし、民を蹂躙する蛮人の軍勢に有効打をたったの一度しか与えられていない。
無用な混乱と倒幕思想の高まりを防ぐために情報統制は命じているが、この世で人の口ほど軽いものはない。
百姓の間にもすっかり〝奴ら〟の話は広まり、江戸から逃げ出す者が後を絶たない有様だ。
このまま捨て置けば、二重の意味で江戸は滅ぶ。
「……まいったな」
臣の去った己の間で、老人は深い溜息を吐き出した。
それと同時に漏らした声は、しかし年老いた者のそれではなかった。
少年の声音だ。第二次性徴も終えていないような、幼さを多分に残した声。
「なんだってこんな時に――いや、こんな時だからか?
いずれにせよ大迷惑にも程がある。オイラと、君と、アヴェンジャーと、宗矩。
忠勝はよくやってくれたし、アヴェンジャーたちはオイラたちの数倍は強いけどさ」
本多忠勝。
徳川四天王の一人にして、戦国最強の名を恣にした大武人。
先程述べたただ一度の有効打というのが、この忠勝の挙げた武功だ。
彼は〝奴ら〟が操る〝災害〟の元凶たる、かの大怨霊を相討ちに仕留めた。
霊体すら切り裂く蜻蛉切の冴えは見事の一言に尽きたと、帰投した武士の一人が涙を浮かべながら口にしたことを家康は生涯忘れないだろう。
ただ……それでも、敵の総軍はあまりに強大だ。
本多忠勝という最高戦力を欠いた幕府軍に残る、〝奴ら〟と戦える力を持つ者はわずか四人。見方を甘くしても、二十人はいない。
いずれも質は悪くないが、恐るべきは敵の数。
一人一人が武士数人分に相当する魔兵が、凡そ四万だ。
加えてその中には、更に規格外と呼ぶべき戦力……サーヴァント達も居る。
今のままでは江戸は間違いなくジリ貧。
全力で防戦に回ったとしても、首都に攻め入られれば一週間保つかどうかすら怪しい。
「そうだね……やっぱりこのままじゃダメだよね、わたしも、その」
その時、少女の声がした。
将軍の御座を彩る豪奢な幕の裏から顔を覗かせるのは、着物に身を包んだ、手毬を抱いた童女。
こんなんだし、と見せつけたのは自分の袖だ。
明らかにサイズが合っていない。大人用のものを無理矢理子供に着せたようなアンバランスさである。
少女が姿を見せると、老人……徳川家康の姿をしたこの英霊も真の姿へと変わる。
ぽんと癇癪玉の響きを数倍間抜けにしたような音が成り、溢れるは白煙。
一瞬前まで日ノ本をその手に掴んだ征夷大将軍の姿と威風があった空間には、家康とは似ても似つかないこれまた幼い少年の姿があった。
何より驚くべきは、彼の頭から生えているものだろう。
耳だ。本来側頭部についているべきものが、頭の左右斜め上くらいの位置についている。
もっと言えば、そもそも人の耳ですらない。
獣の耳。狐や猫にしては丸すぎるそれは、狐と並んで人を化かすと言い伝えられるある獣のものだ。
見れば尻のあたりからも、小さな可愛らしい尻尾がのぞいている。
「ほんっっっっっっと、オイラも君も、なんで縮んでるんだろうなあ!
あれなの? お天道様って奴はそういう趣味なの? だったら今すぐ御奉行の前に引き出してやりたいね!!」
「うーん……どうしてだろうね。
アルターエゴはともかくわたしなんて、この姿で喚ばれる理由が見当たらないのに」
「ていうか根本的なこと聞くけどさ」
アルターエゴ。
そう呼ばれた獣耳の少年は、じっと少女の顔を覗き込んで、言う。
「なんで君、女なの? おかしくない?
なんでその見た目からあんな爺様に進化するの? エクストリーム進化にも程があるでしょ常識的に考えて。
いや、男だと思われてたヤツが実は女だったってパターンはこのイカれた世界じゃよくあることなんだけどね?
女から成長過程で男に変わるヤツは流石に、ナニとは言わないけど、シリーズの長い歴史の中でも誰一人いなかったと思うよ」
「し、知らない……。ていうかやめて言わないで、わたし結構色々絶望してるんだからその辺り……」
少年少女。
彼らはどちらも、本来の姿ではない。
故に当然、振るえる力は半分以下にまで矮化している。
もしこの二人が二人とも本来のスペックで召喚されていたなら――戦況はもっと変わったろうに。
「あーあ、何か都合よく……こう!
めちゃくちゃ都合よく、空からすごい戦力でも降ってこないかなー!!!」
半ばヤケクソ気味な少年アルターエゴの叫びが、江戸中に届かんばかりの大音量で響き渡った。
◇ ◇ ◇
「首尾は上々ですかい、お祖父様」
へらへらと、軽薄な男の声がした。
周囲一帯どころか、此処から数里の間に渡って噎せ返るほどの死臭が満たしているにも関わらず、場違いなほど陽気な声だった。
この男は、自分達の行った行為にほんのわずかほどの呵責も抱いていない。
こうすることが当然とまでは言わないが、こんなのよくあることだろうと、気にも留めていない。
「見て解らぬか、ライダー。貴様はつくづく出来が悪いな、我が孫ながら嘆かわしい」
「へへ、すいませんね。俺はあれです、この国とはどうも相性が悪いもんで。
前に来た時なんて、それはもうおっかない面した野郎に追い回されましたし。
いやあ、あん時は肝が冷えたなあ。俺、ヌラシャッハに死ねと言われてる気がしましたわ」
「それが既に、落伍者の思考だというのだ」
振り向いたのは、巨大な狼に跨った黒衣の武人だ。
狼の足元にはこの地を治めていた者が、白目を剥いて昇天している。
四肢を切り落とされ、小便まで垂れ流した、誇りとはまるで無縁の死に様だった。
そんな凄惨な死体を作り出しておきながら、これは返り血の一つも浴びていない。
一体どれだけ優れた技量で刃を振るえば、このような芸当が可能になるのか。
武芸には然程精通していないライダーにしてみれば、空寒いものを覚えるばかりだ。
「相性だの策だの、そんなものはどうでもいい。
視界に含め、脳裏の隅に置いているだけでも、効率よい殺戮の妨げとなる」
これにとって殺戮とは、呼吸だ。
敵が居るなら殺すのは当然。
目障りな羽虫を潰すのと何が違うのだと本気でそう思っている。
故に争点はどう手早く終わらせるか、そして効果的に蹂躙するか。
殺した後は飢えた兵達に与える肉とでもしてやればいい。
どうせ放っておいても死に行く命、無償なのだから有効利用しない手はないだろう。
「……ヒュウ。爺様には敵わねえや、器の違いってのを思い知らせるばかりだ」
肩を竦めて口笛を鳴らすライダー。
それに何か言うでもなく、黒衣の殺戮者は身を翻し、蒼き毛並みの狼に跨って進軍を再開した。
その目的地は最初から定まっている。
この国の心臓。乱世を終わらせた英雄が坐す首都――江戸だ。かの地の蹂躙を果たすことこそが、これらの勝利条件であった。
「器の違い。そう、器の違いだ」
間違っても祖父の耳に届かぬよう声を潜めて。
心底愉快そうに、ライダーはその言葉を反芻する。
「ずいぶん可愛くなっちまったもんだなあ、俺の爺様は」
四万の軍勢を先導し、遍く全てを鏖殺する蒼狼の殺戮者。
その背丈は、あまりに小さかった。
その身体は、あまりに華奢だった。
その顔立ちは――あまりに、可憐だった。
◇ ◇ ◇
今から、凡そ三週間ほど前の事だった。
突如江戸に届いた、薩摩陥落の報せ。
水平線の彼方より何の前触れもなく押し寄せた軍勢は、瞬く間に薩摩の全てを蹂躙したという。
幕府が動かした討伐隊は歯牙にも掛けられず、半日と保たずに壊滅。
現在に至るまで江戸幕府は、国土を食い荒らし、民を蹂躙する蛮人の軍勢に有効打をたったの一度しか与えられていない。
無用な混乱と倒幕思想の高まりを防ぐために情報統制は命じているが、この世で人の口ほど軽いものはない。
百姓の間にもすっかり〝奴ら〟の話は広まり、江戸から逃げ出す者が後を絶たない有様だ。
このまま捨て置けば、二重の意味で江戸は滅ぶ。
その軍勢は、かつて時の政府が打ちのめした亡霊の群れであった。
常世の加護が吹かせた大風は神国を踏み荒らさんとするそれらを許さず、結果として日ノ本は彼らによる占領を免れることが出来た。
二度目はあった。されど、三度目はありえない。
それが人類の正史であり、揺らぐことなき、揺らいではならない人理定礎のはずだった。
だが、三度目は訪れたのだ。
海の彼方より現れた亡者の軍。
泰平の世を喰らう征服者の一団。
日ノ本の崩壊による人理崩壊を実現させるべく再来した大災厄。
彼らは―――〝元〟の軍勢であった。
故に幕府は、この事件をこう呼ぶしかない。
元寇、と。
最終更新:2017年11月14日 03:37