第1節:おいでませ江戸幕府(2)

 そんなこんなで一騒動あって、立香達は再び歩を再開していた。
 茶々と江戸幕府初代征夷大将軍こと徳川家康の間に存在する因縁は、浅からぬものだ。
 かの有名な大阪夏の陣にて、茶々もとい淀殿とその息子秀頼は彼の軍勢によって滅ぼされた。
 特に秀頼のことについては、あの陽気で喧しい茶々が話題に出せば自分を制御できぬと真剣な顔で忠告するほどの〝地雷〟である。

 立香としても、茶々が家康を嫌う気持ちは理解出来る。
 というより、それだけのことをされて憎まない方がまずおかしい。
 自分の手塩にかけて育てた我が子を奪われる痛みは、一体如何程のものであろうか。
 そしてそんな不倶戴天の敵とよりにもよって味方として対面しなければならないなど、茶々にしてみれば文字通り反吐の出る事態に違いない。

 だから茶々がどうしても帰りたいというのであれば、止めることは出来ないなと思っていた。
 無理はしなくていいとも言ったが、そこは茶々とてカルデアのサーヴァント。
 愛するマスターを置いて自分だけ帰るなど我慢ならなかったらしく、渋々ではあるが同行を継続してくれた。
 ただし、彼女が家康に抱く積年の恨みはたとえマスターのためであろうとも、そう容易く割り切れるものではない。

「もう一度言うぞ、マスターよ。もしわらわがそなたの目から見て危険な状態になったなら、すぐに令呪を使ってわらわを何処かへやれ」

 要するに、我慢は出来る。
 だが、いつ爆発するかは分からない。
 もし爆発しそうになったなら立香の判断で自分を城から遠ざけろと茶々は言う。 

「家康が拾の事を話題に挙げたなら、特に急いでわらわを飛ばせ。
 前も言うたと思うが、茶々はそれだけは我慢出来んのだ。まして相手があの狸爺ともなれば……反射的に、宝具の一つも開帳しかねん」

 別に、家康がそれで死んでも茶々は何とも思わない。
 しかし自分の癇癪で立香や巴が傷付いてしまうのは本懐ではない。
 そう分かっていても、いざ愛息子の名を出されたならやはり彼女は激昂してしまうだろう。
 皮肉にも狂戦士らしい、後先を考えない力の行使に走ってしまうだろう。自分のことをよく理解しているが故の真剣な忠告だった。

「分かったよ。そうなったら言う通りにする。茶々を悪者にはしたくないしね」
「うむ! それでよいのじゃ、茶々は利口な子が好きだぞ!!」

 そんな展開になることなく穏便に事が運んでほしいのは山々だが、マスターとしていざという時には素早く的確な対処が求められる。
 自分のサーヴァントの暴走を止め、手綱を引くのもマスターの立派な役目だ。
 それが出来なければ、特異点修復の大義を成すことは難しい。
 今までは、たまたまこういう状況がなかっただけ。

「さっきも言ったが」

 その様子を見て、江戸城への道を先導するアヴェンジャーがおもむろに口を開いた。
 特に重要な話をするといった声色ではなく、どちらかというとそれは世間話の際のトーンに近い。

「オレはこの国の英霊じゃないし、聖杯から知識を与えられてるとはいえ日ノ本の因縁どうこうについては正直疎い。
 そのオレの身でこういうことを言うのは何だけど……多分、藤丸や茶々嬢が危惧してるようなコトにはならないと思うよ」
「何? どういうことさ、アヴェンジャー。狸爺がなんか言ってたの?」
「そういうわけじゃないんだが……」

 どう説明すればいいか分からない、といった様子でアヴェンジャーは頬をポリポリと掻く。
 何とも意味深な台詞だったが、それ以上の追及はのらりくらりと受け流されるばかりだった。
 そうこうしている内に、視界の彼方に見えていたはずの城はすぐそこにまで近付いている。

「これが江戸城、徳川家康の居城ですか。こうして実際に見てみると、首都の象徴とされるのも納得出来ますね」

 巴御前の言う通り、天高く聳えるその城は見る者を圧倒する威容を湛えていた。
 決して揺らぎはしない、この治世が傾くことはない。
 そんな強い自負が、堂々たる姿形の端々から見え隠れしている。
 それを悪癖と見るべきか、支配者として当然の心と賞賛すべきかは、考えの分かれるところであろうが。
 ちなみに茶々は案の定気に入らないらしく、「何さこんなの。住む奴の性根が透けて見えるわ!」と手厳しい。

「家来達にはあらかじめ、客人を連れてくるかもしれないと話を通してある。
 おたくらはちぃとばかり奇異や猜疑の目に耐えててくれ。彼らも悪気があるわけじゃない、ただ……今はちょっと余裕がねえのさ」

 嘆息するアヴェンジャーの顔は、復讐者とはとても思えない穏やかな微笑を浮かべていた。


     ◇  ◇  ◇


「公よ、居るかい? 連れてきたぜ、使えそうな連中」

 あらかじめアヴェンジャーに伝えられていたとはいえ、城の中はなんとも居心地の悪い道中だった。
 すれ違う家康の家来らしき人物は、揃いも揃って値踏みするような目つきを向けてくる。
 こんな奴らを連れてきた程度で本当に事態が好転するのかと、彼らは立香達のことを疑っているようであった。
 そこに今更反感を覚えたりはしないが……本当に、一体この江戸では何が起きているのだろう。
 立香は自分の中に張った緊張の糸が、より硬く張り詰めていくのを感じた。

 徳川家康が御座しているのであろう部屋。
 その襖の前で、アヴェンジャーが中の将軍へと呼びかける。
 恭しさはなく、友人や同僚に向けるような気安さだ。
 廊下に反響した声が完全に消え去るのを待たず、中から老人の声が応える。

「通せ」

 嗄れた声。
 立香がちらりと茶々の顔色を窺うと、やはり既に機嫌がかなり悪そうだ。
 その反応は、今アヴェンジャーの声に応えた人物が一体誰であるのかを物語っている。
 江戸幕府、初代征夷大将軍。関ヶ原の戦いにて石田三成率いる西軍を破って泰平の世を築き上げた、戦国最後の天下人。

 真横に開かれた襖の向こうには、豪奢な空間が広がっていた。
 豪奢といっても、立香がそう聞いてイメージするような華美なものではない。
 むしろ見てくれ自体は権力者の部屋としてはかなり質素な方である。
 ただ、質素さの中に数多の作法や技が巧みに織り交ぜられており、結果として見る者を圧倒する豪奢な部屋に仕上がっている。

 何とも不思議で、マジックめいた空間だと立香は思う。
 そんな空間の真ん中に、一人の老爺が座っていた。
 皺だらけの顔は紛れもない老人のものであるというのに、その眼光には老いてなお衰えることのない王の覇気が根付いている。
 頭に被った烏帽子と片手に握った扇子は、彼がこの城を統べる最高権力者であることの証左だ。

「よくぞ参られた、異境のマスターとその(しもべ)達。
 既にアヴェンジャーから聞いているじゃろうが、儂が……」
「わざわざ名乗らなくても良いわ。貴様の顔を、わらわが見間違えるはずもない。
 わらわが知るよりもやや老けておるようだが……久しいのう、狸爺。いや――征夷大将軍・徳川家康!」

 この老爺こそが、徳川家康。
 アヴェンジャーを雇い、今江戸で置きている全てを知っているという核心の人物。
 見れば、彼には確かにサーヴァントの霊基が確認出来た。
 アヴェンジャー曰く、家康はキャスターの英霊であるらしい。

 立香は、それも納得だと心の中で一人頷いてしまう。
 家康は海道一の弓取りの異名を持つ武芸者だが、やはり徳川家康といえば戦場での武勇よりも策とその立ち回りの方が印象深い。
 知恵と人脈、時には天運までも利用して戦を己の手のひらで転がす手腕は、彼の敵に回った者からすれば今で言う魔法のように見えたことだろう。
 故にキャスター。いい意味でも悪い意味でも、この英霊は頭がいい。

「……その口振り、さては淀殿か。いや、茶々と呼ぶべきかの」
「淀で構わぬ。貴様に対しては、その名の方が良かろう」

 茶々のそれは、言うまでもなく皮肉だ。
 この男に茶々と気安く呼ばれるよりは、怨念の中死んだ淀の名で呼ばれる方がまだマシ。
 そういう意味を込めた、普段の彼女では考えられないような毒。
 立香が焦燥にそわそわと落ち着かない様子を見せ始めたのもこれでは詮無きことだろう。

「そ、それより! 家康さん――アヴェンジャーは、貴方が話を聞かせてくれると言っていた。
 いきなりで悪いけど、お願いしてもいいですか? 情けないですけど俺達、その辺何も知らなくて……」

 機転を利かせ、険悪な流れを断ち切って強引に話を進める。
 何も家康と茶々を揉めさせたくて此処まで来たわけではない。
 目的は、これなのだ。この亜種特異点で何が起きているのかを一刻も早く突き止める。
 何せ〝日本全土が特異点反応を示している〟のだ、今回は。寂れた城下町の様子を見ても、何か尋常ならざる事態が発生しているのは明白である。

「無論、そのつもりじゃ」

 立香の懇願に家康は深く頷くと、乾いた唇を動かし、語り始めた。
 藤丸立香、もとい人理継続保証機関カルデアが特異点反応を探知する凡そ一ヶ月前から今に至るまで、悪化し続けている国内情勢の話を。
 とんでもない話が飛んでくるのは立香も、巴も、ダ・ヴィンチも、茶々でさえ覚悟していたが……

 徳川家康の語る〝異変〟の話は、彼らの予想を更に数段は上回る、壮絶なものであった。


     ◇  ◇  ◇


 一ヶ月前、海の向こうから突如現れた亡者の軍勢。
 その総数、なんと四万。彼らの通った後には女子供の一人さえ残らない。
 幕府の討伐隊すら寄せ付けず、九州に続いて四国壊滅の報せが届いたのが今から丁度一週間前。
 現在ではそこから更に事態が悪化。南北二手に分かれて近畿と東北を食い荒らしながら、着々と江戸に侵略の手を迫らせている。

 犠牲となった者の数はもはや数え切れない域だ。
 箝口令の甲斐もなく民衆は次々脱走、自主疎開。
 必然首都は見る影もなく寂れ始め、江戸幕府の治世は陰りを見せている。

「儂らが連中に与えられた痛手はわずか一つ。
 我が宝槍、本多忠勝が己の命を擲ってかの軍が攻めの要としていた〝災害〟の大怨霊を討伐した。
 非業の末路から尽きることなき恨みの炎を日ノ本へ抱き、嵐と雷を纏って奴らの同胞となった古き時代の皇。
 一度きりながら、この戦果がなければ今頃江戸は奴の災禍で死の都と化していたじゃろう」

 本多忠勝といえば、戦国最強の呼び声高い猛将だ。
 家康に非常に固い忠誠を誓っていたことでも知られ、徳川四天王の一人にも数えられる。
 彼が命を懸けて生み出した戦果は江戸を延命させ、その御蔭でこうしてカルデアのマスターが〝間に合った〟。

 とはいえ状況は依然として悪いままだ。
 幕府の残存戦力は微々たるもので、あちらは数をやや減らしてはいるものの未だ十分な人数を保持している。
 敵軍を掃討するどころか防戦すらろくに出来ない、詰んでこそいないがそれに非常に近い状態。
 それが、今の江戸……もとい日ノ本の現状であった。

『すまない、家康公。もう一度だけ聞かせてくれ――その軍勢は、なんと名乗っているって?』

 では、その軍勢とは一体何なのか。
 家康は先程それについても語ったが、それはダ・ヴィンチをして思わず聞き返してしまう、有り得るはずのない名であった。
 個人の名ではない。国の名だ。

「〝元〟じゃ」

 元。
 それは中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配し、各地に侵略の手を伸ばしていた王朝だ。
 過去形なのは、この時代には既にかの王朝は廃れ、かつての栄華は消え去っているからである。

「鎌倉時代、二度に渡って日ノ本を襲い……二度とも跳ね除けられた亜細亜の征服王朝」
「……神風の戦いですね。北条時宗が先陣に立って迎え撃ち、奇跡的な撃退を果たしたという」
「そうじゃ。どう考えても今更三度目が起こる道理はないのだが、しかし現に起こってしまった。
 儂らは此度の争乱を、過去の戦になぞらえてこう呼んでおる。――〝元寇〟。最早神の風でも吹き散らせない、おぞましき亡者の群れとな」

 元寇。
 応えたのは巴御前だが、これは立香でも知っている日本人の常識だ。
 小学校の歴史の授業でも習うような、知らない者の方が少ないような日本史上有数の重大事件。
 文字通り国の存亡が懸かった、絶対に負けることの許されなかった鎌倉時代の大きな戦である。

 元寇は二度あった。
 しかし二度とも、元は神風と称される苛酷な災害によって撃退された。
 その後三度目に元が訪れることはなく、ついぞ日本と関わり合いになることなく静かに衰退していった……というのが本来の歴史。
 ところが今、この江戸時代にあり得ざる三度目の元寇が国を脅かしているというのだ。

「元軍の将を務めるは、蒼い毛を持つ巨大な狼を駆る黒衣の(おなご)と聞いておる」
『蒙古で、蒼い狼……女ってところだけは違うけど、この情報だけで十分真名は推測可能だね』
「うむ。この特徴に該当する英霊は、後にも先にも一人しかおらん」

 家康が、扇子で畳を突いた。
 そして、覇気の宿る瞳を立香の方に向け、その英霊の名を口にする。
 それもまた――立香でも知っている、とんでもなく有名な名前。

「〝チンギス・ハン〟。蒙古の初代皇帝たる、遊牧民の王じゃろう」

 元寇を指揮したのは当時の王フビライ・ハンだが、蒙古帝国を興した原初の征服者というのが、家康の口にしたチンギス・ハンという男だ。
 彼の人となり、その生涯を知る者であれば、チンギスが敵に居る事態の危険性は言われるまでもなく察せよう。
 かの皇帝は、生粋の征服者であり蹂躙者なのだ。やったことは違えども、コロンブスのように光と闇の側面を併せ持つ人物。

『……難儀だな。チンギス・ハンといえば、アジアでも屈指の知名度と逸話の数を誇る文句なしの大英霊だ』

 どう少なく見積もっても、俗にトップサーヴァントと呼ばれるような強力な英霊達と肩を並べるのは確定。
 彼の〝征服する蹂躙者〟という性質も相俟って、敵対する上では最悪クラスに厄介な存在だ。
 純粋な力も、兵力も、知能も、全てが第一級。
 わずか一ヶ月で日本の半分ほどを征服してのけるのも、指揮する将がチンギスであるのならば十分納得の行く話である。

「これ以上奴らに国と民を喰わせるわけにはいかん。……だが、今の幕府には、儂には、奴らの軍勢を滅ぼせるだけの力がないのじゃ」

 戦いは必ずしも数で決まるわけではないが、しかし質だけで決められるほど単純でもない。
 圧倒的な数は時に質の違いを容易く押し潰す。
 家康の駒として残っているわずかな実力者を総動員しても、チンギスどころか万の軍勢をすら滅ぼせまい。

「そこで儂はアヴェンジャーに命じ、探させた。そして、アヴェンジャーはそなたらを捕まえた」
「だから協力しろ、と。そう言いたいわけですね」
「うむ。……最早、儂の威光のみでは太刀打ち出来んのだ。故にどうか、そなたらの力を貸してほしい」

 すると老人は、あろうことかその場で深く頭を下げた。
 立香も巴も、思わず面食らってしまう。
 まさかいきなり、此処まで下手に出られるとは思わなかったからだ。

 慌てて、「頭を上げてください家康公!」と立香が言う。
 元々、立香達としてもそれを断るつもりなど毛頭ないのだ。
 戦闘は全て礼装頼みのマスターとサーヴァント二騎だけでは、とてもじゃないが元軍には敵わない。
 そこで、家康率いる幕府軍と力を合わせ、元軍打倒に向け頑張っていければいいと。少なくとも立香はそう思っていた。

 確かに茶々のこともある。
 家康が生んだ悲劇の例も、立香は一度その目で見ている。
 だが、彼と手を組まないことには人理は救えない。
 今は日本という国を守りたいという志を抱く者同士、同盟を組む以外の選択肢はあるまい。
 もちろんそれは構わないし、俺達の方からもお願いしたい。
 立香がそう言いかけた、その時。

「――おい」
「……何かな、淀殿」
「今ので確信したわ。貴様」

 今の今までずっと不機嫌そうに黙り込んでいた茶々が、鋭い声色で割って入った。
 立香はどこかで茶々のスイッチが入ってしまったのかと一瞬令呪に意識を向けるも、どうやらそういうわけでもないらしい。
 茶々は鋭い眼光で、頭を下げたままの家康を睨めつける。
 家康も、一切の媚びを交えない覇者の瞳で茶々を見上げていた。
 常人なら怯むか、直ちに家康にペースを奪われてしまうのが関の山だろうが、そこはサーヴァント。

 最後の天下人たる男の覇気にも動じず、茶々はその先を口にする。

「狸爺ではないな? あやつは一体、どこにおる」

 え?
 立香と、巴と、ダ・ヴィンチが同時に間の抜けた声を漏らす。
 無理もない話だった。
 この期に及んで、目の前の老人がそもそも本物の家康ではないなどと言い出したのだ、茶々は。

 茶々を窘めようと口を開きかけた立香だが、それを諌めるように肩へ巴の白い手が置かれた。
 彼女は無言のまま、目線だけで茶々の方を示す。
 見ればその顔は、当てずっぽうやただの嫌がらせでは有り得ない……何かを確信した者の顔だ。
 思わず立香も、開きかけた口を閉じてしまう。

「あの爺は心底嫌いだけど、嫌いだからこそ分かるのよ。あやつは、そう簡単に頭など下げない」
「…………」
「まして将軍になった後なら尚更ね。下げることがあったとしても、それはもっと此処ぞという時だけ。
 自分を低く見せて相手を驕らせたりご機嫌を取ったりするのは狸爺の常套手段。
 軽んじられるのは構わない。でも舐められたら、いざという時に得意の人脈として利用しにくくなる。
 ガワと口調を真似たくらいでは、このわらわの目は誤魔化せぬ。さあ――貴様の真の姿を見せよ」

 茶々は心底、徳川家康を嫌っている。
 それどころか、明確に憎んでいる。
 いつもの様子からは想像もできないような憎悪の火を、彼女は今も抱えたまま。
 だからこそ、分かるのだ。目の前の怨敵が、それらしくない行動をすれば一発で分かる。

 巴が静かに己の得物へ手を伸ばした。
 茶々も、今にも飛びかかっていきそうな勢いだ。
 立香は固唾を呑んで事の向かう先を見守る。
 そんな居心地の悪い時間が、十秒ほど続いたろうか。

「……はいはい、分かった分かった。オイラの負けだよ」

 ぽん! と気の抜けるような音が響いて、白煙が爆風のように広がり出す。
 熱くはないし、人を吹き飛ばすような威力もない。勢いはそよ風のそれとほぼ変わらない程度だ。
 とはいえ油断は禁物。身構えて巴の傍に寄り、煙が晴れるのを待つ立香。
 そして煙が完全に晴れた時、そこにはもう、徳川家康の老体は影も形も残っていなかった。

 代わりにそこに居たのは、まだ十歳かそこらであろうあどけない顔立ちの少年だった。
 纏う装束も将軍ならではの立派なものから、百姓が着ているような貧相なものに変わっている。
 何より特筆すべきは、その頭。栗色の髪の間から、狸の耳が生えているではないか。

「な、な、な、ななななな――」
「なんだよ、自分で暴いといて驚かないでくれない? これでもオイラ、凡ミスで見破られちまってそこそこ落ち込んでるんだけど」
「狸爺が!! 狸になった!!!」
「いやだからそれ、さっき君が暴いたことだからね」

 まあ、これは君達には見慣れないだろうから。
 驚くのも分かるけどね――そう言って、家康改め狸の少年は己の耳をいじくる。

「って、そうじゃない! 本物の狸爺はどこにおるのかと聞いておる!!」

 食ってかかる茶々の姿を見て、ようやく立香もこのトンデモな現状に追い付くことが出来た。
 現在は徳川家康が江戸を治めている時代。この少年はその家康に化けていて、となると本物の家康が何処かに居るということになる。
 何だって影武者を寄越すなんてまどろっこしい真似をするのかは、立香には分からない。
 しかし、協力を希っておきながら謀ってきたということに少しの苛立ちを覚えないといえば嘘になる。

 こうなれば、是が非でも本物の家康を拝ませて貰わなければならないだろう。
 何故こんな真似をしたのか、さっきの話はちゃんと本当なのか。
 聞きたいことは山ほどある。
 立香のやや怒りを宿した瞳に急かされて、少年は「そう怒んないでよ、ただこうした方が早かっただけだっての……」と肩を竦めた。

「いきなり騙すような真似をしたのは謝るよ。ただ、別に悪意があったわけじゃないんだ」
「……では、何故こんなことをしたのでしょう? 力を借りたい相手への態度としては、些か非礼が過ぎると思いますが」
「いやあ。その」

 普段は温厚で優しい巴も、怒ると怖い。
 冷や汗を流しながら両手を前に出し、一歩後退りする少年。
 それから彼は、妙なことを口にした。

「……本物出すと、話がものすご――――くややこしいことになった挙句、全く話が進まないのが見えてるから……」
「……それは、どういう?」
「ま、実物見てもらえば分かるよ」

 立香は思わず、怒りも忘れて首を傾げた。
 少年の言っている意味が、今一つ分からない。
 本物の家康を出すと話がややこしくなる?
 それどころか、全く話が進まない事態になりかねない?

「アヴェンジャー、引っ張り出して(・・・・・・・)
「あいよ、たぬ吉」
「その呼び方やめてほしいんだけどなあ」

 ……一体、徳川家康とはどういう人物なのだろう?
 茶々とその愛息子を滅ぼし、キリシタンを過激に弾圧した冷血漢。
 常に策をもって行動し、雌伏に徹しながら確実な勝利をもぎ取っていく異端の天下人。
 けれどこの少年の話を聞いていると、何やらかなり〝ダメな奴〟の匂いも漂ってくる。
 一体どの家康像が正解なのか、立香にはさっぱり分からない。

 少年に促され、アヴェンジャーが部屋の隅を覆う幕の一部に手をかける。
 すると、その内側から「ひっ」というか細いうめき声が聞こえた。

「……、ねえ巴」
「……なんでしょう」
「気のせいかな。今、女の子の声がしたような気がするんだけど」
「………」

 幕が、アヴェンジャーの手でがばっと勢いよく引き剥がされる。
 幕に覆われて今までは見えなかったが、この部屋の壁には緊急時すぐに隠れられるよう大きな窪みが拵えられていたようだ。
 そしてその中に、着物を着たいかにも弱そうな生き物が入っている。
 黒髪に、サイズの合っていない着物。

「や、ちょっ、離し……一人で歩ける、一人で歩けます!!」

 アヴェンジャーに抱えられるようにして引っ張り出されたその少女は、有無を言わさず立香達の前に引っ立てられた。
 唖然とした顔をする一行の様子を見て「だから言ったじゃん」と苦笑しつつも、少年はその言葉を彼らへ放つ。
 恐らくは誰も予想しなかったろう、しかしこの状況になれば誰もが思い浮かべるだろう〝真相〟を。

「えー。こちらの弱っちい童女ちゃんが、江戸幕府が誇る初代征夷大将軍・徳川家康公です」
「は……初めまして」

 英霊五騎とマスター一人。
 それだけ揃った大広間が、瞬く間に静寂に包まれた。
 時にこの日本には、ある便利な諺がある。
 〝嵐の前の静けさ〟という、とても便利な諺が。


     ◇  ◇  ◇


「――――そ、そ。そんなわけがあるかああああああぁぁぁあっ!!」

 茶々の大声に、びくりと肩を震わす少女……改め、徳川家康。
 彼女が動揺するのも無理はない。
 何故ならこれは、あまりにも無茶苦茶な話であったからだ。

「何処からどう見ても女児(おなご)じゃん! 爺どころか男ですらないじゃん!! 茶々、過去最高レベルに騙す気のない嘘吐かれた!!!」

 茶々は、徳川家康という男のことをよく知っている。
 それこそほんのわずかな綻びでも、目の前の家康は何者かの変装であると見抜けるほどに。
 彼女の知る徳川家康は、狸爺という呼び方の通り男性だ。
 それは、他ならぬ狸耳の彼が化けていた家康の姿が老爺のそれであったことからも証明できる。

 なのに、この娘はどうだ。
 中性的などという次元ではない、何処からどう見ても女性。
 何なら胸元にはわずかながらも膨らみが確認できるし、これがあんな爺になるというのはいくら何でも生命の原則に刃向かい過ぎている。
 嘘をつくならもっとマシな嘘をつけと喚き立てる茶々に、少年はうんざりしたような顔をした。

「正直そこはオイラが聞きたい」
「はい嘘の後始末が雑!!」
「あーもう、だから嘘じゃないんだって。少なくとも今の江戸には、この子以外に家康なんて輩はいないよ」

 徳川家康は男性である。
 そこについては、疑いの余地はない。
 疑ってかかることすら、アホらしいと言ってもいい。

 だが――目の前の童女もまた、確かに徳川家康であった。
 影武者などではない。嘘は吐いていない。剪定事象の世界から迷い込んだイレギュラーなんてオチも存在しない。
 彼女は徳川家康。この時代に、彼女以外に家康を名乗る者は存在しない。
 混乱する茶々に、立香達。そんな様子を見かねてか、ずっと静観に徹していたダ・ヴィンチが咳払いを一つした。

『茶々も立香くん達も、一度落ち着こうか。
 で、えーと……そこのキミ。改めて聞くけれど、キミの真名は本当に――〝徳川家康〟で間違いないんだね?』
「い、いえ。その、実は……」
『ふうん、やっぱりか。いや、皆まで言わなくていいよ。だってキミは、幕府を興した後の家康にしてはちょっと幼すぎるからね』

 得心したという風に、カルデアが誇る天才は続ける。

『キミの真名は、恐らく〝竹千代〟。徳川家康リリィなんて言い方をしてもいいが、せっかく幼名があるんだから、こう呼んだ方が通りもいいだろう。
 ……まあ、何故キミが女の子なのか。そこの疑問に対する答えにはまるでなっちゃいないんだけどね!』


     ◇  ◇  ◇


 最後の天下人・徳川家康の人生は、雌伏と苦難に満ちたものであった。
 特に彼の幼少期は、形容するのに〝不遇〟以外の言葉が存在しないほど苛酷を極めた。
 人質、政治の道具。屈辱に甘んじ、尚且つ死なないように、殺されないように、生き延びるために息を潜めねばならなかった時代。

 その頃の彼の名前は徳川家康でもなければ、松平元康でもない。
 古い時代の日本には、武士や貴族の子にまず幼名を与え、元服するまではそれを名乗らせるという風習が存在した。

 故に彼――否。
 彼女の真名は徳川家康に非ず、松平元康にも非ず。

 竹千代。

 ただ恐れ、忍び、耐え続け――遠い未来、数多の安寧と数多の嘆きを生み出す幼き日の天下人である。


     真名判明
江戸のキャスター 真名 竹千代



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最終更新:2017年11月16日 04:03