第1節:おいでませ江戸幕府(3)

 徳川家康という天下人に纏わる、こんな句がある。
 鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス。
 魔王信長は鳴かぬなら殺す。覇王秀吉は技を凝らして鳴かせてみせる。
 そして家康は、鳴くまでひたすら待ち続ける。時節に逆らわず、好機が到来するまでひたすら待つ。

 これはあくまでも後世の歴史家が三英傑の気性を称して詠ったものであり、彼らが実際にこれらの句を詠んだわけではない。
 だが、歴史上の事実から読み取れる彼らの人柄を端的に表してみせたものとして高い評価を受けている。
 どんな歴史に疎い者でも、間違いなく聞いたことくらいはあるだろう。

 この句に詠われているように、家康は忍耐の人だった。
 その生涯は波瀾万丈の一言に尽きる。
 特に幼少期の家康は人質として道具同然に扱われ、いつ気まぐれで命を奪われてもおかしくない状況に置かれていたとされる。
 当時の彼しか知らない者にこの童が後に天下人になると説こうものならば、これは傑作だと腹を抱えて笑われてしまうに違いない。

 結果彼は見事雌伏の果てに天下を掴み取るのであるが、徳川家康という英傑を語る上で、不遇の幼少期の話は外せない。
 侮られ、舐められ、人質にされ、道具として飼われ続けた哀れな子。
 後の天下人となる彼……否、彼女の名は竹千代といった。
 未来の栄光の前日譚(リリィ)。幕府を興した大狸と比べ、彼女はあまりにも無力で儚い存在である。

「まあ、君らがそんな顔をするのも分かるよ。だってこれ、話が通ってないもんね」

 真名が割れたことで、立香達の脳裏に浮かんだ新たな疑問。
 それを彼らの表情から読み取ったのか、狸耳の少年……アルターエゴが肩を竦めてみせる。
 この時代の家康は言わずもがな関ヶ原を経て、江戸幕府の将軍として大成している。
 竹千代としての家康が、この時代に居る筈がないのだ。彼女が何らかの理由で召喚された英霊なのだとして、では本来の家康は何処へ行ったのか?

 多くの特異点を踏破してきた立香には特に納得の行かない部分。
 されど、その辺りの疑問についての正確な説明はアルターエゴでも不可能らしい。
 となると、後は竹千代本人に聞くしかないわけだが――。

「……ごめんなさい。わたしも、その辺よくわかりません」
「家康……もとい竹千代は、あくまでこの時代を生きる人間ではなくサーヴァントだってこと?」

 こくん、と竹千代が頷く。
 その顔は心底困ったようなもので、彼女が嘘を吐いていないとすぐに分かる。
 しかし……そうなるとこの亜種特異点は、〝家康の不在〟というとんでもなく大きな矛盾を抱えた上で進行していることになる。
 今回の特異点も一筋縄ではいかなそうだ。立香はこれまでの経験から、半ば直感的にそう悟る。
 この手の〝奇妙〟が、ただの偶然で済んだ試しは一度としてないのだから。

「最初に召喚されたのはこの子だった。そして次にオイラが召喚された。
 ちなみに、オイラも本来の姿じゃない前日譚(リリィ)だ。なんで全盛期の老体で呼ばれてないのかは、ただただ謎なんだけどね」

 狸の英霊で、全盛期が老体。つまり脂の乗った時期。
 これだけの情報でも真名はだいぶ絞れてきそうだなと、立香は話を聞きながら思った。
 尤も元軍が相手の時点で徳川に与している彼と揉める可能性は小さい以上、そう急ぐ話でもないだろうが。

「そしてわたし達は一度、軍を率いて元の軍勢と直接相対しました」
「相対したって……まさかその見た目でですか?」
「ち、違います。見た目は、アルターエゴにうまく誤魔化してもらいました」
「発育途中で多少力は弱まってるけど、一応化け狸やってるからね。虚仮威しは十八番さ」

 まさに昔話に出てくる狸そのままだ。
 人を化かし、騙すことを得意とする狡賢い狸。
 さっきの変身は常人である立香はおろか、巴やダ・ヴィンチさえ完璧に欺くほどの高度なものだった。
 あれでも不完全、発育途中なのだと彼は言う。
 ……もしかするとこの少年、見た目に反して相当な大妖怪なのかもしれない。

「確認出来たサーヴァントは二騎。一騎は、先程アルターエゴが伝えた蒼狼に乗った殺戮者。推定チンギス・ハンと見られる女。
 もう一騎は、髭面の男でした。蒼狼に比べて幾らか脅威度は下がるものの、それでも一騎当千といっていい戦闘能力だったと記憶しています」

 ところでこの竹千代という少女、話が本題に入った途端、急に淀みなく喋るようになった。
 吃ったり迷ったりすることなく、冗長にならないよう簡潔に、要点のみを分かり易く纏めて話してくれる。
 育ちの良さ、教養の高さ。いつか大成する器の片鱗が見え隠れしている。
 幼くとも、女であろうとも、家康は家康。人間としての基盤は全盛期の彼女とそう変わらない。

「その戦いでわたしは蜻蛉切・忠勝を失いました。彼が倒したのは、日ノ本の歴史上でも三本の指に入る大怨霊。
 名を口にすることは敢えてしません。三大怨霊(かれら)の名は、口にするだけでヒトを蝕む呪いの音節と伝えられています。
 迷信といってしまえばそれまでですが、わざわざ進んで不吉を被ることもないでしょう」
「……それで、その後は」
「わたし達は忠勝のお陰で、命からがら江戸へ逃げ帰ることが出来ました。その翌日のことです。アヴェンジャーさんが、城の門を叩いたのは」

 「どうも、叩きました」とアヴェンジャーがフランクに片手を挙げる。
 相変わらず本当に復讐者なのかこいつはと溢したくなるようなフレンドリーさであった。
 竹千代曰く、最初は二人とも信用していいものかどうか随分迷ったようだ。
 暫く監視してみた結果、どうやらとりあえず敵の間諜ではないらしい、というのが二人の結論。
 ただ彼が何かを隠しているのは明白であり、アヴェンジャー自身ケロッとした顔でそれを認めたという。
 真名も、未だに教えて貰えていないとか。

「いい男ってのは、秘密の一つ二つ抱えてるもんさ」
「とまあこの通り、お世辞にも信用出来るとはいえない御仁なのですけど……」
「心配すんな、オレは裏切りだけはしないよ。公と江戸のために力を尽くす、その言葉に嘘はない」
「……らしいので、一応置いたままにしてます。戦力になるのは事実ですし」

 さらっと酷い言いような辺りに、日頃のアヴェンジャーの扱いがどんなものかが垣間見える。
 とはいえ、戦力になるという一点については竹千代もアルターエゴも認めているらしい。
 人員不足の江戸において、戦える手駒というのは幾らでも欲しい最高の宝物だ。
 多少の危険は必要経費と割り切って、利用出来るだけ利用することにしよう。それが、最終的な彼女達の決定だった。

「それから今に至るまでの間は、何ら特筆すべき事はありませんでした。もちろん、元の侵攻を押し留めることも出来ていません」
「なるほど……」
「……ふ、ふがいなくてごめんなさい……」
「あっ、戻った」

 どうやら会話の流れがちょっとでも変わると、途端にいつもの竹千代に戻ってしまうようだ。
 既に常人離れした優秀さこそ備わっているものの、やはり彼女は徳川家康の前日譚。稚き日の姿。
 三英傑と讃えられ、信長や秀吉と並んで語られる古狸ほど完璧な立ち振る舞いは出来ないのだろう。

「それと、さっきは本当にすみませんでした……その、わたしがいきなり出たらお話にすらならないかと思って……」
『……まあ、無理もないね』

 ダ・ヴィンチが苦笑する。
 何せあの徳川家康が実は女で、おまけに幼少期の姿で呼ばれているというのだから。
 茶々の記憶では間違いなく家康は男だったというし、本題どころではない大混乱が幕開けていたろうことは想像に難くない。
 そう考えると、確かに最初は文字通り形から入ろうという考え自体はかなり賢明なものだったと言えよう。

「いいよ別に、そんなに気にしなくても。最初は少し頭に来たけど、話を聞いたら確かに納得だ。巴もそうだよね?」
「ええ、そうですね。そんなことよりもまずは、元という目の前の問題について話し合った方が余程建設的でしょう」

 「茶々も、」と話を振ろうとして、立香はやっちまった、という顔をする。
 結果的に家康は彼女の憎む男の家康ではなく女の家康で、というかそもそも竹千代だった。――こうして文に直すとかなり意味不明な状況だが。
 それでも、彼女がいずれ茶々とその息子を滅ぼす存在になることは変わらない。
 形は違えど家康は家康。彼女にすべてを奪われた茶々が好意的な反応を示すはずがないのだ。

 恐る恐る彼女の顔色を窺う立香。
 自分の不用意な発言が彼女を爆発させないかと冷や汗を掻きながら、ごくりと生唾を飲み込む。
 数拍の間を置いて、茶々はやっとその口を開いた。

「……もういい、気が抜けたー。子供じみた我が儘で立香を困らせるのも何だしね」
「と、いうことは?」
「非っっっっ常に不服だけど、茶々もその狸爺……改め狸女……改め狸娘に協力してあげる」

 よっし、と立香はガッツポーズをする。
 もちろん茶々には見せられないので、心の中でだが。
 一時はどうなることかと思われたが、とりあえずこれで当面の協力体制は構築出来たわけだ。
 胃痛の種が一つ消えたと静かに喜ぶ彼に、茶々は「ただし!」と続ける。

「ただし、その狸娘が気に入らぬことは変わらん。よって、わらわが必要以上にそれ(・・)と関わることはない。これは譲れぬ」

 人の恨みは、そう簡単には消えない。
 ましてそれが自分だけでなく、血を分けた我が子の分も含めた悪感情ともなれば。
 こうして相手がほぼ別物に変わったとしても、それだけで消えてなくなるわけはない。

「……ごめん。いいかい、キャスター?」
「あ……はい。わかりました、立香さん。そして、淀殿」

 竹千代は一瞬怯えたような表情を浮かべたが、すぐに冷静な顔に戻る。
 戦国の荒波を知識としてしか知らない彼女にしてみれば、茶々の見せた明確な自分に対する嫌悪感は十分恐怖に値するものであったのだろう。
 そこで一瞬しか弱さを見せない辺り、将としての自覚の高さが窺える。
 とはいえ茶々以外の面々としては、若干の罪悪感を感じてしまうのも事実。

 茶々も悪い奴ではないんだとフォローしたいのは山々だったが、もしそんなことを言おうものならそれこそ彼女の逆鱗に触れてしまう。
 こればかりは立香としても如何ともし難く、沈黙するしかない。
 その沈黙が微妙な空気を生み、広間は重く気まずい雰囲気に包まれた。

「ま、お互いビジネスライクな関係で行こうじゃないか。
 オイラ達が欲しいのは力で、そっちが欲しいのも力。
 変にお友達になろうとしなきゃ、十分互いに利のある同盟になるだろうさ」

 そんな空気を見兼ねてか、ヘラヘラと笑いながら言うアルターエゴ。
 そう、極論、要求されているのは元軍の打倒のみである。
 したがって、士気が多少下がる以外に軋轢の存在がもたらすデメリットはない。
 それは確かにその通りなのだろうが――やはり立香としては多少後味の悪いものが残ってしまうのもまた、事実だった。

 と、その時である。
 襖の向こう、廊下の彼方から響く足音。
 やがて音は部屋の前で止まり、襖が静かに開いた。
 そこから姿を現したのは、立香と巴にとっては覚えのある人物。

「失礼する。――む」
「あ……あなたは!」

 それは、白髪頭の武士であった。
 将軍に仕える武士というワードそのものが人の形を取ったような、まさに武士の鑑が如き老爺。
 立香は、この男を知っている。というよりもつい先日、敵として相対したばかりだ。
 巴に至っては、同じ陣営に与する同胞として行動を共にしてさえいた。

 亜種特異点ならぬ亜種並行世界、下総国。
 かの地に集いし、悪鬼羅刹の英霊剣豪。
 この男はその中でも最強の個人武力を持ち、自らを至高天(エンピレオ)と名乗っていた。

「但馬守さん……!?」
「久しい……という程でもないか。また相見えることになろうとはな、カルデアのマスター。そして、巴御前よ」
「……貴方も、此処に召喚されていたのですね」
「安心せよ、今の私は剣鬼ではない。家康公……もとい竹千代公に仕える一人の武士だ」

 五芒星の呪縛は妄執の城と共に消えた。
 此処に居るのはセイバー・エンピレオに非ず。
 剣術無双の名を恣にした大剣士、柳生但馬守宗矩その人だ。

「どうしました、宗矩。急ぎの用と見受けますが」
「左様。事は火急を要する故、簡潔にお伝え致す」
「……何が、あったのです」

 立香達から視線を外し、但馬守は己が忠を尽くすべき将へと向き直る。
 表情に焦りや動揺の色はないが、彼ほどの男をして火急と言わしめる事態といえば重大さの度合いは知れる。
 正真正銘の緊急事態。一分一秒として捨て置くことの出来ない何かが、何処かで起きたのだ。

 この状態の江戸で、童女の将軍に従う者などいない。
 故に普段はボロの出にくいアルターエゴが老いた〝男の〟家康に化けて相対していたのだが、柳生但馬守宗矩はサーヴァントだ。
 状況を正しく認識しているし、竹千代のことを知ったとしても驚きはすれどそれで見限るようなことは絶対にない。
 そのため、彼はアヴェンジャーのように征夷大将軍の秘密を初めから知らされている。

 童女であろうと、未熟であろうと、前日譚であろうと将は将。
 一切侮ることなく、正しい礼節を以って但馬守は竹千代に接する。
 それはこの事態においても、むしろこの事態だからこそ変わらない。
 変わらぬままの態度で、彼は己が将と、この場に集った者全てに伝えた。

「江戸に、元の魔竜が踏み入り申した」

     ◇  ◇  ◇

「佳き都ですね」

 含みのない賞賛を口にしたのは、紺の短髪を風に遊ばせる美女だった。
 大和撫子を地で行く美しく淑やかな見た目は、しかしか弱い印象を与えない。
 むしろその逆だ。
 戦場を駆ける武士やそれを纏め上げる将にも匹敵する、鋼の意志が黒き双眸には宿っている。

 仮に彼女を犯し辱めて、四肢を生きながらに切り落とし、目の前で子を殺したとしてもその心を砕くことは敵わないだろう。
 女は戦える生き物ではない。女は滅私奉公に徹していればよい。彼女の存在そのものが、そうした風潮への堂々たる否定であった。

「しかし、これはあの御方が描く都の姿とは明確に乖離している。その時点で、論ずるにも値しません」

 裂帛の気合を込めて刀を振るう武士の胴を、その刀ごと素手で引き裂く。
 何をされたのかも分からないまま、呆けた面で死に果てた男。
 地面に胴の上半分もろとも転がったそれを、女の同行者が無感動に踏み潰した。
 こちらはまだあどけない。年齢は十二、三歳だろうか。

 だがその目は、明らかに正気のものではなかった。
 光がないのだ。光彩が消失し、濁った水面のように曇っている。
 これは、怒りに支配されていた。
 あらゆる感情、情緒が強すぎる怒りの前に焼き焦がされ、結果として虚無的に見えているが。
 その実、火山の噴火にも匹敵する怒りの熱を体内に宿す大妖魔であった。

「憎いでしょう」
「はい」
「あの城です、見えますね」
「はい」
「あれが」

 紺色の女が何か言い、黄緑色の妖魔がそれに頷く。
 その光景はまるで母と子のようであったが、これはそんな心温まる光景では断じてなかった。
 次の言葉を聞けば、誰もがそれを理解出来る。
 この妖魔が如何にして生まれた存在かを、悟ることが出来る。

「あれが、貴女の安珍を奪った幕府の心臓です」

 ――安珍清姫伝説。
 それはありふれた昔話。
 村娘の恋を無碍にした男が、竜となった娘に焼き殺されるという怪談。

 清姫は安珍を愛していたが、安珍は清姫を愛していなかった。
 だから欺いた。欺いたから、安珍は他ならぬ清姫の手で殺された。
 此処で物語は終わる。だが、この物語にはイフの介在する余地がある。

 即ち、安珍を殺したのが清姫ではなかったなら?
 怒りだけで竜になれるような直情的且つ盲目的な少女が、他の誰かによって最愛の人を奪われてしまったなら?
 その問いの答えが、此処にある。そう――彼女の真名は〝清姫〟。安珍を焼き殺さなかった、焼き殺せなかった恋する乙女!

「焼き尽くしなさい。それが貴女の使命。そして、偉大なる〝あの御方〟の御意志です」

 故にこれ、清姫にあって清姫に非ず。
 これは讐竜。裏切られた怒りではなく、奪われた怒りで千里を焼き尽くす復讐の魔竜(アヴェンジャー)

「はい」

 災害の怨霊を失った元が用立てた、江戸を焼き払う第二の災厄である。


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最終更新:2017年11月18日 22:29