それは、邪竜であった。
黒き体毛と赤い瞳を持ち、その口からはこの世全てを憎悪していなければあり得ない、地の底から響くような声が絶え間なく漏れ出ている。
ある少女の怨念と妄執から生まれ、己の生きる目的となったであろう存在を奪った全てを焼き払わんと猛る復讐の邪竜。
真名を清姫。竜の因子を宿さない只人の身で、あくなき執念と思い込みのみを寄る辺に姿を変えた存在である。
蒼い筈の身体は漆黒に染め上げられていた。
赤き瞳からは血の涙が流れ、悲憤の程を物語る。
仮に神や仏に宥められたとて、彼女はその歩みを留めないだろう。
少しばかり偉大な存在にご高説を垂れられた程度で足が鈍るほど、讐竜の情念は浅くないのだ。
逃げ惑う群衆には見向きもせず、邪竜が江戸の街を駆ける。
その向かう先にあるものは、この江戸で最も巨大な権威の象徴。江戸城だ。
焼き払う。必ずや、あの城へ住まう古狸を焼き払ってくれる。
亡き想い人を悼むことさえ忘れて、竜は復讐のために地を這う。
その時だ、竜の前に幕府の武士達が立ちはだかったのは。
彼らの身体は皆一様に震えていた。
それでも逃げずに竜の行く手を阻むのは、ひとえに武士としての矜持だ。
恐ろしい。
今すぐにでも逃げ出したい。
しかし武士として、男として、此処で逃げ出したなら二度と胸を張っては生きられまい。
だから男達は奮起した。
竜を相手取るにはあまりに心許ない刀を武器に、僅かでも時間を稼がんと立ち塞ぐ。
だが次の瞬間には、道を塞いだ武士の全員が地面にこびり付く肉塊と化していた。
道の端に立っていた者などはどうにか人の原型を留めているが、真ん中の者はそこに生物が居たのかどうかすら判然としない有様。
讐竜清姫は彼らに対し火さえ噴いていない。
ただ、感慨一つなく轢いただけだ。
道端に転がる石ころをわざわざ避けたり、退けたりしないように、単なる直進で全殺した。
文字通り命を懸けて時間を稼ごうとした彼らには気の毒だが、清姫はそもそも人間がそこに居たことにすら気付かなかった。
その両目に映るモノは遙かなる江戸城のみだ。
己の愛する安珍を奪った、諸悪の根源たる大狸が住まう張りぼての巣穴。
征夷大将軍・徳川家康。
許せない、許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない!
殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!
讐竜が往く。
惨殺の応報を与えるため。
讐竜が往く。
安珍を失い、悲嘆に暮れる己の前に現れた男の言葉を信じて。
「おまえの想い人を殺したのは、幕府が送り込んだ刺客だ」。
そう言ったのは、冷たい瞳の武士だった。背中に大弓を背負った長身痩躯の男。
巨大な氷の塊を切り出して削り、人の形にしたならこんな冷たい男が出来るのか。
怒りと嘆きに支配されている中でも、そんな印象を抱いたのを清姫は覚えている。
「名は、なんというのですか」。
嗚咽混じりの問いに、男は言った。
「征夷大将軍、徳川家康」。
その名を聞いた瞬間、讐竜の向かう先は決定された。
故に彼女には元も日ノ本も関係ない。
この世界の事情なんて欠片も理解していないし、する気もない。
手綱を引かれ、効率よい虐殺の道具とされていることさえどうでもいい。
――ただ、徳川家康を殺したい。
讐竜清姫に残された感情は、どこまでもそれだけ。
「うっわ。こりゃまたとんでもないもん連れてきたなあ」
そんな竜の姿を民家の屋根上から見下ろして、心底嫌そうな声をあげたのは栗色の髪の少年だった。
質素な服の所々にあしらわれた木の葉の飾りに、頭と臀部に存在する狸の身体的特徴。
全身で狸の英霊であることを示してくる、実に真名の特定が容易そうな彼は、元の侵攻を良しとしない幕府側のサーヴァントである。
江戸のアルターエゴ。
見てくれこそ少年のそれだが、彼はこの見るも悍ましき黒竜にちっとも恐れを抱いていない。
あるのはただ、これと戦うのは面倒だなあ、間違って焼かれたりしたら痛そうだなあという憂鬱さのみ。
「で、オイラのことはガンスルーと。傷付くねえ」
これ見よがしに分かりやすい位置に立っているというのに、あちらにアルターエゴの存在を認識した様子は皆無だ。
どうやら、視界に入らないのは人間もサーヴァントも同じらしい。
普段の清姫よりも、アヴェンジャーとなった現在の方が数段バーサーカーらしいというのは皮肉な話であったが。
「ただ、オイラも黙って通すわけにはいかないんでね。悪いけど、邪魔させてもらうよ」
それに――此処でオイラが怠ければ、もっと良い奴が死んじゃうしな。
その言葉をアルターエゴが口に出さなかったのは、万一にでも竹千代やアヴェンジャーに聞かれていたら堪らないという照れ隠しだ。
次の瞬間、アルターエゴの背後でまたあの小さくて間抜けな爆発が起こる。
「『久万山異聞・八百八狸行軍』」
白煙が晴れた時そこにいたのは、アルターエゴと寸分違わず同じ姿をした、数十人もの狸少年達だった。
「ざっと八十と少しか。八百八って名乗りは少し鯖を読みすぎな気もするけど――ま、細かいことはいいだろう!」
日ノ本の心臓たる城へ向けて脇目も振らず突き進む讐竜へ、彼らは果敢に殺到していく。
その様はさながら象に鼠の群れが立ち向かうが如きものであったが、鼠は鼠でも、これは窮鼠の類だ。
窮鼠猫を噛むならぬ、窮鼠蛇を噛む。目的を果たした上で痛手の一つも与えられれば誰にも文句は言われまい。
「確かに忠勝はもういない。でも残念。まだまだ、あの子の江戸は健在だよ」
普段は絶対に口にすることのない、独り言ならではの台詞を呟いて――アルターエゴは不敵に笑った。
◇ ◇ ◇
「おや」
紺髪の女が足を止めた。
讐竜とは別のルートから城へ向かわんとしていた彼女の前に、道を塞ぐ者がある。
橙髪の男だった。
顔立ちはアジア系でこそあるものの、日本人のそれではない。
顔に浮かべた軽薄な笑みは、奇しくも別所で竜と踊っている狸と同じ、一切の物怖じがない不敵なものだ。
「なんだ、元には随分な別嬪さんが居るんだな。驚いたよ、何せ公も臣下の連中もおたくらのコトをやたらおどろおどろしく語るもんで」
「それはそれは」
世間話のノリで親しげに話しかけてくる彼に、女は欠片の躊躇もなく首刈り鎌めいた軌道で手刀を振るう。
彼女は武器を持っていなかった。
それでこの攻撃手段ということは、どうも徒手空拳を得意とする手合いであるらしい。
嵐のように押し寄せる拳、手刀、膝、爪先、踵、頭突き。
凡そあらゆる身体部位を駆使して戦う様は、さながら獣か何かのようだった。
「(おっかねえ~ッ。技自体は稚拙で雑だが、威力が洒落になってねえ! )」
男……江戸のアヴェンジャーはその暴威に内心肝を冷やす。
攻撃の一つ一つは、熟練というものをまるで感じない単調なものだ。
だがそれを化け物じみた回転数で連打してくるから、達人の拳とは別ベクトルの恐ろしさがある。
何発まで受けられるとかそういう概算に頼っていては、間違いなく死ぬ。
そう確信させるものが、この女にはあった。
右、左、下、上。
全方向から襲い来るそれを、アヴェンジャーは殆ど直感的な動作で避けていく。
百を少し超える数、捌いた頃だろうか。
今までずっと無言で殺しに掛かってくるのみだった女が、口を開いた。
「心眼ですか。それも、六感に頼っていると見える」
「良い目をしてんね。その通りだ」
言いつつ、今が好機と地面を蹴ってその場を離脱。
逃がすかとばかりに放たれた正拳突きを辛うじて避け、ニヒルに笑って口笛を鳴らす。
「オレは生前、それはまあ厄介なヤツを追いかけてたんだよ。その内、自然と〝生きる〟力が身に付いた。何遍負けようと、絶対生き抜く生き汚さを覚えたんだ」
語るアヴェンジャーだが、女の方はそれに別段興味もないらしい。
「そうですか」とすら言わず、無言のまま話を流す。
敵の身の上を聞いて何になるのだという、彼女の生真面目な人間性が伝わってくる思いだった。
「今度はオレに質問させてくれよ。おたく、〝何〟だ?」
「見て解りませんか? 元の尖兵ですよ。東北より南下し、江戸を滅ぼしに参った次第です」
「元の尖兵ぇ? そいつはおかしな話だな。だっておたく、蒙古人じゃねえだろ。どっからどう見ても日本人だ」
確かに、おかしな話だった。
女は元の者を名乗るが、その顔付きは日本人のもの。
服装も、彼らの様式ではなく日ノ本のそれで統一されている。
「それに、だ。おたく、見たところサーヴァントでもないみたいじゃねえか。
なのに魔力反応はある、オレのようなサーヴァントを傷付けるだけの神秘もある。どういうわけなんだい、こりゃ」
「さあ、答える義理もございませんので。それとも貴方は、見ず知らずの下賤な輩に自軍の情報を流すうつけ者なのでございましょうか」
「ハハ、手厳しいが違いない。訊くだけ無駄だったな!」
じゃあ次だ、とアヴェンジャーは続ける。
今の一連のやり取りから何を学んだのかと、立香がこの場にいれば突っ込みの一つも入れそうな場面。
しかし、しかしだ。問いを投げる橙の彼の纏う気配が、明らかに変質するのを女は感じ取った。
宝具解放の予兆か?
いや、違う。
ならば、何を?
警戒しつつ拳を構える彼女に、アヴェンジャーは問う。
「チンギス・ハンが女だってのはどういうわけだ?」
その顔は――笑っていない。
「ンな話があるわけねえだろうが。
オラ、さっさと話せやクソッタレ。オレは、あのクソ野郎に関しちゃ我慢が効かねェンだよ」
最終更新:2017年12月26日 16:31