【0】
問おう。幸福とは何ぞや?
問おう。希望とは何ぞや?
問おう。理想とは何ぞや?
答えよう。幸福とは夢幻である。
答えよう。希望とは贅肉である。
答えよう。理想とは幻想である。
各々が幸福を目指した。故に闘争を起こした。
各々が希望を目指した。故に絶望が生まれた。
各々が理想を目指した。故に失望に呑まれた。
重々理解せよ。幸福とは、希望とは、理想とは。
どう足掻こうが掴めない、影法師と同じである。
どうもがこうが届かない、蜃気楼と同じである。
故に。
求める幸福を再定義せよ。
求める希望を再構築せよ。
求める理想を再構成せよ。
復唱せよ。幸福とは束縛である。
復唱せよ。希望とは隷属である。
復唱せよ。理想とは屈服である。
幸福を組み換え、束縛に明日を示せ。
希望を組み替え、隷属に未来を託せ。
理想を組み替え、屈服に来世を望め。
思考停止と再構成こそ、真なる理想国家の産声である。
誰も病まぬ、誰も飢えぬ、真なる理想郷の萌芽である。
己の自由を"束縛"せよ。
全に一を"隷属"させよ。
尊き支配に"屈服"せよ。
真なる理想郷の完成まで、あと僅か。
必要なのは唯一言のみ、声を上げよ。
偉大なる兄弟に、栄光あれ。
【1】
『市民の皆さん、幸福ですか?』
各所に備え付けられたスピーカーから、無機質な女の声が聞こえ始めた。
それは即ち、この街に正午が訪れたのを意味している。
はっきりと耳に響いてくる声は、お決まりの定型文を読み上げ始める。
男はその音声を、眠そうな顔をしたまま聞き流していた。
『市民の皆さん、幸福は義務です。
幸せとは、市民として当然の義務です。
模範的市民なら、幸福なのは当然です』
最早市民の誰一人として、その声に耳を傾けようとはしないだろう。
ほぼ毎日流れているせいで、今や一字一句内容を覚えているし、
そもそもそれに耳を澄ます程、下層階級は暇ではないからだ。
『正午になりました。配給所より国民食料が配布されます。午後からの労働に備えましょう』
男は既に、その"指定の配給所"に訪れていた。
同じ考えの者が大半なのだろ、そこは既に人でごった返している。
彼は人の波を掻き分けて、指定された受付に無理やり進んでいく。
どうにか受付に辿り着くと、そこでプレートに盛られた食料と、小さなペットボトルを貰った。
プレートに乗っているのは、無機質に並べられたブロックと、ビタミン剤が数粒。
それに加えて、「合成蛋白質シート」と書かれている、薄汚れた紙きれである。
驚く程食欲をそそられないそれらが、毎日配給される昼食だった。
配給所に設置された食堂、そこに設けられた椅子に座り、それらを摂取する。
まずはビタミン剤を水無しで飲み込み、次にブロックを匙で頂く。
いつも味気のないカロリーブロックは、果たしてこれで何度目の咀嚼だろうか。
最後に薄汚れたシートを口に入れ、それで今日の昼食は終わりとなる。
「革命政府」が言うには、これが完成された食事らしい。
事実として腹は膨れているし、栄養も取れているという実感がある。
けれども食事に対する感動は、皆無と断言してよかった。
昔はもっと、バラエティ豊かな食事を採っていた筈だった。
フランス料理は目視しただけでも満足感があり、味はそれを越えた感動があった。
各国の料理に思いを馳せ、それを味わった想像をするのが堪らなく楽しかった。
だが今となっては、食事は生きる上での作業に成り果ててしまっていた。
食事だけではない。フランスという国は、数年で様変わりしてしまった。
階級分けされた身分、破壊された文化遺産、徹底された監視社会。
そこに自由の二文字は無く、人民はただ国に奉仕するだけの道具に成り果てた。
と、そこで男は、ふとある事に気付いた。
文化遺産が破壊された事は知っているが、その内訳は何だったろうか。
幾度となく頭を捻ってみても、不思議とそれが思い出せないのだ。
■■■■■塔、■■■■■凱旋門、■■■■美術館、■■■■■■大聖堂。
ああ、何故だろう。数年前まで知っていた筈のそれらが、今では名前すら思い出せない。
学生時代に習った歴史にしてもそうだ。この国の成り立ちが、想起すらままならない。
ストレスが噴き上がっているのを自覚した時、男の行動は速かった。
彼はペットボトルの蓋を開け、中の液体を一気に飲み干してみせた。
喉が焼ける感覚と、頭を殴られた様な衝撃が一瞬だけ走る。
だが次の途端にそれらは消え、後には多福感だけが残った。
ソーマという名のそれは、宗教的陶酔感と幸福感を齎してくれる。
副作用の無いこの薬は、革命政府が生まれて以来、市民が愛用しているものだ。
今やソーマを服用していない市民など、この国にはいないだろう。
陶酔感と幸福感に包まれながら、男は今一度考える。
過去の事などどうでもいい、見つめるべきは今ではないか、と。
それに、この国は数年前どころか、ずっと前からこうだったではないか。
先程頭に浮かんだ文化も歴史は、きっと疲れが生んだ幻に違いない。
その時だった。食堂に取り付けられた巨大なモニターから、"例の音"が鳴り響いたのは。
油の切れた巨大な機械がきしむような、身の毛もよだつその摩擦音は、恒例行事の始まりを示す。
不定期に始まるそれには、階級問わず市民全員が参加しなければならないのだ。
モニターに映し出されるのは、無精ひげを生やした眼鏡の東洋人であった。
革命政府の宿敵とされる男であり、市民共通の悪と見なされている男である。
正確な名など随分昔に忘れたが、民衆は一様に奴を「D・W」と呼んでいた。
彼は諸外国の兵隊が行進を続ける映像をバックに、自由の素晴らしさを語り始める。
途端、食堂にいた誰もが唸り声をあげ、やがて三十秒もたたない内に怒号をあげ始めた。
怒り狂って飛び上がる者がいたし、モニターに食料を投げつける者さえいる。
男もまた、画面に向かってあらん限りの罵声をぶつけている。
その場にいる誰もが、憤怒や破壊欲に呑み込まれ、東洋人に憎悪の矛先を向けていた。
その番組が始まって、いよいよ二分が経過した頃だろうか。
突如、東洋人の声が羊の鳴き声になり、次にその顔さえもが羊に変わる。
更にはその直後、姿形が軽機関銃を掃射して突進する兵士へと変わったではないか。
男を含めた市民達は、それを目にして一様に恐怖を覚えた。
けれども、その恐怖は一瞬で終わる事となる。
こちらに迫る突撃兵が、「ビッグ・ブラザー」の落ち着き払った姿に変わったからだ。
直前まで恐怖していた市民達は、一斉に安堵のため息を漏らした。
そして画面は一変し、革命政府が打ち立てたスローガンが現れる。
幸福とは束縛である。
希望とは隷属である。
理想とは屈服である。
一連の流れに感動した市民達は、陶酔したように「B-B! B-B!」の合唱を始める。
B-Bとはビッグ・ブラザーの略字であり、ビッグ・ブラザーとは政府の実質的な指導者である。
遥か昔、腐った当時のフランスに革命を齎し、今の国家を築き上げた、唯一にして最大の偉人。
誰もが讃えるべき存在であり、彼への敬意もまた義務の一つであった。
合唱に参加しながら、男は「幸福は義務です」という言葉を思い返していた。
そうだ、幸福とは義務であり、今の自分はその義務を果たしている。
この理想郷に住まう市民の一人として、模範的な生活を送れているのだ。
だから間違いなく、自分という存在は、この世界の誰よりも幸福なのだ。
私は幸福だ、私は幸福だ、私は幸福だ、私は幸福だ、私は幸福だ…………。
最終更新:2017年12月19日 00:44