第2節:復讐の竜、復讐の人(3)

「チンギス・ハンが年端も行かねえ童女だと?
 笑わせンなよクソ間抜け。だったら俺が血眼になって追い掛け回したあの野郎は、一体何処の誰だったってンだ」

 アヴェンジャーの顔から笑みが消えた。
 軽薄な遊び人を思わせた鍍金は剥がれ落ち、今その顔は満面の敵愾心に染め上げられている。
 宛ら悪魔(エルリュング)が如き蛮性に満ちた表情は、下手な答えを返せば容赦なく殺されると、相対した者に確信させるそれだった。

 冷血なる紺髪の彼女をして、侮れば死ぬと即座に直感する。
 神や魔物の気配は感じない。この男は間違いなく、人間由来の英霊だ。
 だが――だからこそ恐ろしいと女は思う。
 それは即ち、人の情念だけで此処まで己を研ぎ澄ましたということの証左に他ならないからだ。

 あの清姫もそうだが、人は時に、理屈や理論の軛を自ら突き破るコトがある。
 想いの力、意志の大爆発。カラクリの存在しない不条理を大真面目に成し遂げられる人間が、ごく稀に存在する。
 間違いなく、この男もその一人だ。
 その瞳、声、発する気迫の全てに常人の一生を数倍は束ねなければ辿り着けない狂気じみた情念が宿っている。

 清姫が愛ならば、これは復讐心に依って人を超えた怪物である。
 感情の矛先が誰に向けられているのかなど、改めて語るまでもない。
 モンゴルにその人ありと恐れられた蒼狼の征服者。
 今は、日輪を喰らう元軍の総大将。無道王チンギス・ハンその人だ。

「手前がシラァ切るってンなら、〝らしい〟やり方で聞き出してやンよ」

 チンギス・ハンのことになれば歯止めが効かない。
 自ら申告した通りだ。彼は己の敵を討つ為ならばどんな手段でも使う。
 例えば、女を捕らえて犯しながら手足の指に釘を打ち、そのまま神経を弄り回して激痛と恥辱の中尋問する――
 このくらいならば、息を吐くようにやってのけるだろう。チンギス・ハンが、略奪の後に成して来たように。

 獣性と悪意に満ちた威しに対し、しかし女は身動ぎ一つしない。
 寧ろ、納得が行ったとでも言いたげな顔でアヴェンジャーを見つめていた。
 彼の性質を理解したのではない。彼女は、既にその先へ辿り着いている。

「成程、合点が行きました。誰かと思えば貴方、メルキトの敗残者ですか」

 チンギス・ハンを憎悪する者など星の数ほど居る。
 そも、蒙古帝国の歴史は略奪と虐殺の歴史に等しい。
 彼らは災害のように現れては、貪獣のように喰らい尽くした。
 男を殺して女を犯し、子すら犯し、家畜は奪って全ての文化を磨り潰した。

 チンギス・ハンは敗者に鞭打つことを許し、それどころか推奨した。
 そんな男を憎まない敗者が居るものか。居たとすれば、余程の聖人君子に違いない。
 だが、かの魔王への敵愾心のみで英霊の座へ上るに至ったとなれば一人しかいない。
 未だ血に染まらず、虐を振り撒かずにいた時代のチンギス・ハンと友誼を結び、しかして運命の前に決裂した〝歴史の敗残者〟。

「おうよ、オレは敗残者だ文句あっか。
 アイツは勝った、オレは負けた。オレはそれに納得してるし、今更覆してえとも思わねえ。
 だが……オレの生き様を、オレに付いた馬鹿共の生き様を。
 そしてあのどうしようもねえ、世界最悪のクソ外道畜生の歴史を歪めるゴミ野郎が居るってンなら――」

 瞬間。
 怒気が、爆発した。
 大気を震わす程の気迫を放ちながら、アヴェンジャーの姿が掻き消える。
 超高速移動。人体の稼働限界を無視した絶技は、許し難い塵芥を屈服させる為に。

「――許しておけねェよなぁ、そんなムカつく連中はよォッ!!」
「ッ――」

 速い。 
 一瞬にして懐の一歩手前まで踏み入った敵の拳を、女はどうにか髪の毛を数本持って行かれる程度の損害で凌ぎ切る。
 にも関わらず、鳥肌が立つ程の戦慄が彼女の全身を駆け巡っていた。

 魔拳。そんな言葉が脳裏を過る。
 気の遠くなるような年月を掛けて漸く習得出来る拳の極致に、間違いなくこの男は足を踏み入れている。
 それも、恐らくは本来必要とされる時間の何十分の一かの時間で。
 燃え滾る憎悪で以って一秒毎に可能な鍛錬の密度を常識外れの域にまで高めて、前人未到の速度で達人への道を駆け巡ったのだ、この男は!

 その拳を一撃でも浴びれば、耐久の薄い自分は蚊蜻蛉が如く砕け散る。
 女はそう確信したが、されども絶望しない。萎縮することもない。
 彼女にはそもそもそういう機能が搭載されていないのだ。
 生まれる性別と時代を間違えた恐女。天下の武士さえ大真面目に恐れたという、鋼鉄の心を持つ傑物。それが、彼女。

 アヴェンジャーの繰り出す追撃の拳を、女は臆さず自らの肉体で打ち払っていく。
 無論防御のみではなく、時にはアヴェンジャーの攻撃を縫うようにして自らの拳も紛れ込ませて。
 押されていたのは最初だけ。同じ条件で殴り合えば彼我の差は小さいと、彼女の戦いぶりが暗に語っていた。

「……そうか。てめえ――」
「ええ。どうやら、似た者同士のようですね。私達」

 双方、共通して持つスキルが一つ。
 その名は、〝鋼鉄の決意〟。
 鋼の精神と行動力、それに耐え得る超人的な心身を約束するスキル。
 アヴェンジャーと、サーヴァントですらない紺髪の彼女はどちらもこのスキルを所持しているのだった。

 だからこそ彼らの肉体は人間の限界など知ったことかと飛び越える。
 リミッターがある、そうか分かるぞ、だが斟酌してやる道理はない。
 痛覚の概念を何処かに置き去ってきた、至極前向きな異常者達。
 皮肉なことに、彼らは驚くほど〝似た者同士〟だった。出会う場所さえ違えば、意気投合出来たかもしれない程に。

「そうみてえだな」

 吐き捨てるように笑って、アヴェンジャーは地面を蹴り、後退する。
 戦況の仕切り直しか。前髪を指で整えながら、女は戦闘態勢を組み直した。
 ――が、そこで理解する。そうではないと。この男は、互角の戦い(・・・・・)なんてしち面倒臭いものに執着する阿呆ではないのだと。

「なら、似てねえ分野で殺してやるよ」

 アヴェンジャーの背後、空中に巨大な物体が出現していた。
 そのサイズは、江戸の一般的な民家のそれに匹敵している。
 釜だった。有り得ないくらい大きな、鉄釜。

 この時点で、大半の人間は察しが付こう。
 アヴェンジャーがこれより繰り出す殺しの一手――
 もとい、サーヴァントの切り札たる〝宝具〟が如何なるものであるのか。

 まして女は彼の真名を看破している。
 メルキトにて敗れ去った、チンギス・ハンが唯一暴虐の儘にはあれなかった男の名を知っている。
 ならばその生涯に関する知識が必要なものとして脳裏に浮かび上がってくるのは、最早当然のこと。
 故に解る。アレは、処刑道具だ。釜茹でという、在り来りながら極めて高い残虐性を持った処刑法。それこそが、彼の宝具。

「忌まわしき蒼の子狼。
 我が名を聞くがいい、我が妄執を知るがいい。
 我は貴様の王に引導を渡す者。蒼狼射殺す、狩人である」

 釜が傾いてくる。
 その口からは既に、霧の日と見紛いかねない量の湯気が放出されていた。
 それ自体、人体を軽く焼き焦がす火山口めいた熱量を宿している。
 ならばあの中で煮え滾る極刑の油は、一体どれほどの高熱に泡立っているというのか。

「死ねや、塵が」

 かつてチンギス・ハンに与した兵士を地獄の苦痛で葬ったという処刑の熱が、濁流となり溢れ出さんとした――その時であった。


「――――何ッ!?」


 アヴェンジャーが驚愕の声を上げ、大きくその場を飛び退いたのは。
 次の瞬間、彼がコンマ数秒前まで立っていた地点には一本の矢が突き立っていた。
 不意を突いた奇襲とはいえ、ごくありふれた弓撃。
 戦慣れした者であれば大袈裟に避けずとも対処出来るような、つまらない一射。

 ……などと考えるうつけは(・・・・・・・・・・)今の一撃で死んでいる(・・・・・・・・・・)

 誇張でも何でもなく、アヴェンジャーは最初神が喧嘩を吹っ掛けてきたのだと錯覚した。
 巧いとか下手とか、そういう次元を完全に超越した矢であった。
 そもそもこれは戦の為の矢ですらない。ただ、殺す。敵を殺す。この世から、いなくする。
 そうした概念だけを凝集させた、氷のように冷たい矢。これに比べれば目の前の鉄仮面女など、泡立った溶岩に等しい。

「手前……何者だッ!」

 千里眼とも呼ばれる超視力を以って、矢を射った者の方を睥睨するアヴェンジャー。
 下手人であるところのその男は、すぐに見つかった。

「名乗る程の者でもないが、(それ)を失うのは流石に痛手でな」

 氷のような、男だった。
 氷河を切り出して人の形に整え、色を付けて人と名乗っているような。
 人間とは思えない、神と呼ぶにも無機質過ぎる、あらゆる意味で隔絶した空気を纏う男。
 大弓を携えた彼は紺髪の女を妻と呼んだ。そういうことかと、アヴェンジャーは舌を鳴らす。

「宝具――」

 この女は、どうやらあの男の宝具らしい。
 珍しいケースではあるが、有り得ない話ではないだろう。
 英霊の生涯を支えた一個人が、その英霊の人生を象徴する幻想として現界に同伴する。
 理屈としては通っている。霊体でありながら英霊特有のそれを感じなかったのは、それが理由か。

 アヴェンジャーが納得している間に、既に氷の男は動いていた。
 大弓を引き、矢を放つ。威力に悖る筈の弓撃は、しかし対象に不可避の死を押し付ける必殺に他ならぬ。
 綿密な計算と段取りの上で繰り出される死神の一矢。
 その数は見る間に増えていき、嵐を思わせる勢いで以ってアヴェンジャーへと飛来した。

「糞ッ!」

 こうなれば、流石の彼と言えども防御のみに注力しなくてはならない。
 だが、敵は一人ではないのだ。あの冷血漢の宝具である、紺髪の女も居る。
 アヴェンジャーは以後、絶死の矢を躱しながら、鋼鉄の決意を秘める女傑をも同時に相手取らなければならないのだ。
 難易度が頭抜けていることなど百も承知。しかし、成せなければ死ぬ。無残に、無価値に、死に果てる。

「いいや――オレは死なねえッ!!」

 生きねばならない理由がある。
 死んではられない理由がある。
 その為に、己はこの日ノ本に現界したのだ。
 ただ一つ。捻れた因縁を、清算する為に。

 故にこそ死んで堪るかと、復讐者は猛る。
 死の暴風雨と鏖殺の超人へ果敢に挑み掛からんとした、瞬間。
 敵の来る方とは逆方向――即ちアヴェンジャーの背方より、光を纏う矢の雨が彼を守るように殺到した。

 敵の命を無慈悲に奪う冷たい矢を相殺し。
 今まさに踏み込まんとしていた女傑の行く手を的確に阻む。
 ほう。大弓の冷血漢が感嘆を漏らす姿を、アヴェンジャーならば視認出来たろう。
 そして彼には、この救援の主に心当たりがあった。

「……千代ちゃんか――!」

 東海一の弓取り。
 徳川家康は軍略と謀事に秀でた武将として有名だが、決して武芸を不得手としていたわけではない。
 むしろその逆。家康は剣術、砲術、弓術、馬術、水術等、非常に多彩な武術に精通していたとされる。
 しかも、その全てが一流の域に達していた。歴戦の武人をして舌を巻く万能の才人、家康はそうした人物であったのだ。

 現在の江戸に、徳川家康という英傑は存在しない。
 在るのは幼き日の彼もとい彼女。長い雌伏を強いられていた未熟な竹が一本。
 しかしながら、此処は江戸だ。
 どんなに学のない人間でも絶対に知っている、徳川が統べる日ノ本の中核。

 なればこそ、この地そのものが竹千代の陣地に他ならない。
 たとえ彼女が未熟なれど、いずれ徳川家康になる存在であるというその事実は小揺るぎもしないのだ。
 この都に在る限り、彼女は最大のパフォーマンスを常に発揮することが出来る。
 キャスターの枠を大幅に飛び越えた、三騎士に匹敵する武芸の冴えを。

 江戸城の頂点。竹千代はそこに居た。
 奇しくもそれは、元の弓兵と対比するが如く。
 遥かの高みより弓を引き、江戸の繁栄を害する者を撃滅する守護の竹槍。
 まさかあの弱虫に助けられるとはね、と。アヴェンジャーは、苦笑いを浮かべた。

 そして――彼女だけではない。

「燃えろ……!!」

 次いで地を駆けたのは焔の矢であった。
 竹千代の矢に足を止められた紺髪を焼き尽くさんと吠えたそれは、英霊のもの以外には有り得ない熱量を宿していた。
 矢の主こそ、江戸幕府が新たに得た協力者であり、最後の希望と呼んでも誤りではないカルデアのサーヴァント。
 真名を、巴御前。江戸よりも遥か以前の時代を生きた、混血の女武者。

「お怪我は有りませんか、アヴェンジャーど――」

 巴が言い終えるよりも、窮地に追い込まれた紺髪の行動は速かった。
 最後っ屁を残すこともせず、一目散に踵を返して脱兎の如く駆けていく。
 竹千代が逃すまいと弓撃を加えるが、当たらない。
 彼方の冷血漢による迎撃を前に、悉く撃墜されてしまう。

 多勢に無勢と判断しての撤退。
 確かにそう考えれば合点は行くが、しかし妙なこともある。
 余りにも、判断が速すぎるのだ。
 まるでこの場にたとえ一秒でも留まり続けるのは都合が悪いとでも言わんばかりに、女は逃げた。

 その速さたるや、巴御前は彼女の人相を確認すら出来なかったほど。

「……なんだ、つまらねえ。本番はまだこれからだろうに」

 拍子抜けしたように呟くアヴェンジャーは彼方に、巴に続いて駆けてくるカルデアのマスターの姿を視認する。
 柳生宗矩は竹千代の護衛として、江戸城に残る手筈となっていた。
 茶々の方は拗ねて出て来ないかと思ったが……遠くから聞こえてくる戦闘音の調子を鑑みるに、讐竜の方へ向かってくれているらしい。

 アヴェンジャーは、己の顔に手を翳す。
 凶気を宿した表情が隠れ――次に露わになった時には、元の軽薄な遊び人じみたそれに戻っていた。

「ありがとよ、巴の姐さん。それにカルデアの兄さんもだ」
「礼には及ばないよ。それより……巴も言ってたけど、怪我はしてない?」
「そっちは問題ない。ま、相手にも痛手は与えられなかったのが情けないトコだがな」

 復讐に赤熱した心をクールダウンさせながら、アヴェンジャーは回想する。
 自律行動する宝具。あの紺髪は、脅威度自体はそれほど高いものではなかった。
 無理矢理クラスをあてがうとすればアサシンになるのだろうが、正面戦闘ならば、少なくとも己は遅れを取ることはない。
 だが、あれは後先というものを全く考えていないように見えた。

 いざとなれば自分の命でさえ躊躇なく擲つ。
 敵一人と己一つを交換出来るならば、悔いはない。
 ……流石に女でそういう思考回路を持つ手合いと相対したのは初めてだが、あの手の人種には覚えがある。
 何しろ自分自身がそのクチだ。認めるのは癪だが、〝似た者同士〟という形容は、自分と彼女の関係としては至極正しいものであると言えよう。

「報告したいことは幾つかあるが、その前に……」

 そして何よりも由々しき問題が、恐女を背後で糸引く冷血のアーチャー。
 あの男を初めて視界に収めた時、アヴェンジャーは大袈裟でも何でもなく、とある人物を思い出した。
 それは彼が生涯を懸けて追い求めた宿敵。必ず殺すと誓い、とうとう倒すことの叶わなかった蹂躙魔王。
 チンギス・ハンの姿を、その佇まいに見た。敵を殺す為ならどんな手も駆使するという冷たい瞳に、かの魔王を見出した。

 脅威はチンギス・ハンのみだなどと侮っていたわけではない。
 だがそれでも、どうやらまだ過小だったらしいと思い知らされた。
 あんな男が居るのなら、成程確かに今の元は規格外の一言に尽きる。
 日ノ本はおろか、世界すら制覇出来る――どうやらそれだけの力が、元軍を騙る件の軍勢にはあるらしい。

「茶々嬢に臍を曲げられると難儀だ。あっちの救援にでも行くとしようや、兄さん方」

 つくづく、気に入らない。
 略奪は許そう。殺戮も許そう。
 しかし、あれらは蒙古の全てを冒涜している。侮辱している。
 元軍など存在しない。今この国を攻め落とさんとしているのは、元という歴史の残骸に寄生した得体の知れない何かだ。

 未だ隙を見せれば燃え上がらんと荒れ狂った心を胸に秘めながら。
 アヴェンジャーは、いつものように微笑むのであった。
 そして。

「……あの後ろ姿、何処かで――」

 巴御前だけが、一人。
 立ち去った紺髪の侵略者に、奇妙な既視感を覚えていた。
 その正体を認識することは、今の彼女には出来ない。
 だがある意味では。

 それは、幸いであったのかもしれない。




「申し訳ございません。仕損じました」

 江戸の外れにて、紺髪の恐女が片膝を突く。
 見苦しい言い訳はせず、粛々と己の非を認め、夫の声を待つ。
 それは実に模範的な妻の在り方であったが、夫たる冷血漢の対応は淡白だった。

「かまわない。元より、これで落ちるほど柔な都とは思っていないからな」

 そこに人間的な機微が宿っていれば、暖かく寛容な台詞であったかもしれない。
 だが、彼の言葉はどこまでも冷たく凍てついていた。
 一言、感情が籠もっていない。ただ冷たい。誰も責めていないのに、どんな悪罵の声をも下回る絶対零度の響きを、彼の声は孕んでいるのだ。
 人間ではない。仮にカルデアのマスターのような常人がこれと相対したなら、間違いなくそんな感想を抱いたことだろう。

 彼は徳川家康が築き上げた江戸という都を、先人として正しく評価していた。
 故にこそ見誤らない。竜の一体と宝具一つで攻め落とせる程度の都が、三百年もの時間に耐えられる筈がそもそもないのだ。
 本気で江戸を落とそうと思うなら、チンギス・ハン本人が先頭に立って鏖殺の地獄を描き上げるしかない。
 今回はあくまで偵察。江戸の底力とやらを見てやる腹積もりで、力を極力セーブして奇襲を行っただけ。
 よって失敗しようが痛手は零だ。強いて言うなら讐竜の存在が割れたことが挙げられるが……あれも、所詮はいざとなれば作り直せる駒の一つ。
 日ノ本は妖魔と神秘の満つる国。竜の一匹を仕立てることなど、今の元にとっては泥団子を捏ねるよりも容易い所業である。

「それに収穫もあった。何よりも優先して殺すべき者が判明した時点で、此度の遠征は成功と言っていいだろう」
「……アヴェンジャー、ですね。私も面食らいました。よもや、〝彼〟の縁者とは」
「縁者どころの騒ぎではない。あの男は、チンギス・ハンを殺す為に人生を使い潰した狂人だ。
 故に優先して切除する必要がある。元寇を成功させる上で、奴の存在は癌だ」

 一念鬼神に通ず。
 日ノ本の歴史には、それを地で行く者が山のように存在する。
 それを知っているからこそ、あのアヴェンジャーは脅威だった。
 家康。カルデア。剣術無双の大剣豪。それらを置いてでも、まずはチンギスに並々ならぬ執着心を抱く彼を殺さなくては。

「では、どのように致しましょうか」
「おまえが動く必要はない。こんなこともあろうかと(・・・・・・・・・・・)、前以って餌を残しておいた」

 餌? 女が、復唱する。
 それに対し男は、「そうだ」と短く応じた。

「安芸の謀神は生きている。根の国と化した四国に逃れ、未だ懲りずに牙を研いでいる」

 安芸の謀神。その二つ名が指す武将など、日ノ本に二人と存在しない。
 本来の歴史においても人並み外れて長い時を生き、領土死守に腐心し続けた稀代の智将。
 だが〝本来の歴史〟においては、彼女は家康が生まれるよりも早くこの世を去っている。

 ――そう、彼女はサーヴァントだった。
 日ノ本、ひいては自領の危機に応じるように現れ、蒼狼の魔王に敗れ去った敗残者。
 しかし敗れて尚生き永らえ、今も反逆を誓って牙を研いでいるという往生際の悪い反乱分子。

「軍の本隊とライダーを四国へ再び戻らせた。
 この情報が江戸城にまで届けば、奴らは必ず動いてくる。
 ……ましてカルデアのマスター。魔術王の企てを打ち砕いたあれは相当なお人好しだ。
 助けに行きたいと思うだろうさ。浅い、ことだがね」

 人と領をなくしては謀りを回すことは不可能。
 謀神も、家康も。今は等しく、この男の掌で踊る猿でしかない。
 全ては計算の内。策謀の中を出ない。

 ――氷の如き男だった。冷たい瞳の武人だった。数多の怨嗟を生みながら、命尽きるまで勝利を重ね続けた彼は、正しく〝怪物〟に違いなかった。


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最終更新:2018年01月03日 15:38