ある鬼の記憶

 断崖だった。
転がり落ちれば、頭は砕け、四肢は千切れ、心の臓が裂ける運命は避けられぬ。それだけの高さを誇る崖だった。

 断崖だった。
風が吹く。心地よい風だった。緑の香りが風に溶け、花々の微かなる残滓が、緑の匂いの溶ける風の上で舞踊を踊っていた。
季節柄、そして、今が穏やかな天気であるからこそ、この程度の風で済んでいるのだろう。嵐の夜には、馥郁たる自然の気を宿したこの風の代わりに、生き物を断崖の底へと誘おうとする悪魔の風が吹き荒ぶに相違あるまい。

 断崖だった。
波の打ち付ける音が穏やかに響いている。崖の先には、水晶ですら叶わない程の透明さの海が果て無く広がっている。
泳ぐ魚の姿すらが、遥かな高さから見下ろせる程、海が綺麗であった。打ち付ける波の調子は、一定ではない。
風の機嫌次第では、波が断崖に打ち付けられた音が響いてから、数分以上も待たねば、また同じ音が響かない。耳に優しい音だった。
目を瞑っていればいつまでも聞いていられるだけでなく、気が付けば、眠りこけているのではないか、と思うだけの気持ち良さが、その音にはあった。

「……羅刹王か」

 ――断崖だった。

「然り」

 聖王ラーマの妃であるシータを攫った、憎むべき怨敵が鎮座する、名もなき断崖だった。

「斯く言う貴様が、ラーマ・チャンドラか」

「然り。法(ダルマ)の満ちる理想界を築く為……そして、我が妻シータを取り戻す為に。このラーマ、羅刹(ラクシャーサ)を穿つ聖具を携え、貴様の首、貰い受けに来た」

「……フフ、フハハハハ。貴様の握るその大弓。創造神(ブラフマー)めの意が宿る武器か。成程、それでなら、流石の儂も滅ぼせようよ」

 ラーマの持つ、只ならぬ神韻を放つ弓を見て、男は笑った。後に、不愉快そうに顔を顰める。

「老い耄れめが。儂が想像以上の力を得た事に、今更焦燥を憶えたか。神はいつもそうよな。自ら降臨して裁くのではない。人や化身と言う依代……人形めを操り、己が意を成就させんとする。小癪な者共よ」

 なおも、羅刹王と呼ばれた男は続ける。
巨漢だった。小山を連想させる様な体躯を持つ一方で、その全てが、鍛えられ、磨き上げられた筋肉。
そして、側頭部から生えるねじくれた角が、男が羅刹である事の何よりの証左。魔王ラーヴァナ……それが、この只者ではない男の名であった。

「お前程……苦行に励んだ羅刹であれば、神々も、お前にこの島を返還した事であろう。このような手段にしか、出れなかったのか?」

 この島……つまりは、ラーマ達の旅の終着点である、ランカー島の事を指す。
そもそもの事の発端は、ラーヴァナの異母兄弟……クベーラの名で知られる財宝の神が、ラーヴァナ統治下のこの島を奪った事に起因する。
これに怒りを覚えたラーヴァナは、彼を打ち倒す為に、想像を絶する苦行を経、遂にはそれがブラフマーから認められた結果、彼の神から凄まじいまでの力を得るに至った。
そして、その力を使って、ラーヴァナはクベーラを退け、このランカー島を奪還した。それで終わっていれば、良かったのだ。
だが、ラーヴァナは終わらなかった。あろう事か彼は更に苦行によって力を得、今度は三界をも支配、この地上の全てを我が物にせんと目論んだのだ。
何たる増上慢。だが、その増上慢が増上慢に終わらなかった。冥府の神であるヤマも、雷神インドラを倒したラーヴァナの強さを、果たして張りぼてと言えるだろうか。
何故、謙虚に終われなかったのか? 其処までの力を得、何とする? その結果ラーヴァナは、今まさに討たれ様としているのに。

「この島で満足出来なかったのか、とでも言いたそうではないか、ラーマ王よ」

 ニヤリ、とラーヴァナが笑った。背筋が凍るような、羅刹の王の笑み。

「出来る訳がなかろうがよ。羅刹もアスラも、皆愚かよ。その愚かさの故に、驕り、高ぶり、破滅する。まるで、季節が巡るかのようではないか。力を得、増長を極め、そして最後は神の怒りを買い滅び去る。これを、我らは飽きずに繰り返す。所詮儂らは、水面に浮かぶ泡(あぶく)よ」

「……」

「島一つで満足出来なかったのか、だと? 出来ぬ。島を取り返せば、次に大地を。次に地下を。そして……天上の御国を。そう考えるのが我ら羅刹ぞ」

「戒める事も出来ないのか」

「我ら羅刹は神に非ず。人より寿命は長かれど、しかして不滅には程遠く。儂らとて、やがては身体も脳も老いて行き、その目も見識も盲いて行く。なれば、一度限りの我が人生。欲のままに争い、奪い、支配する事が、精一杯生きた証を刻める至高の了解であろうがよ?」

「その生き方では、お前を懲らしめる為に、多くの敵がお前の前に現れるぞ」

「本望よ」

 ラーヴァナの即答。一瞬だが、ラーマは目を見開いた。

「クベーラの馬鹿めとの戦いの時に、儂は気付いた。戦う事の面白さ……素晴らしさ。そして、強き者を屈服させるその悦楽に、儂は酔い痴れた。この世に、これ以上の愉しみがあったのか……本心からそう思ったぞ」

 続ける。

「復讐の為に続けていた苦行が、途端に楽しくなった。神々を打ち倒せるのなら……彼奴等の差し向けた化身(アヴァターラ)と戦えるのなら……。そう思った瞬間、儂の中から苦行を楽しむ心が芽生えた」

「……だからお前は、此処にいたのか。不思議でならなかった。羅刹の首魁たる男が、あの宮殿の何処にも見当たらなかった理由……お前にとって本当に重視するべき空間とは、此処の事だったか」

 ランカー島の羅刹達の拠点である、財宝神クベーラから奪った都市戦車・プシュパカ。
その中の何処にも、ラーヴァナの姿は見えなかった。最奥の玉座の間にも、ラーヴァナ自体の私室も。考えられる全ての場所を虱潰しに探しても、見つからない。
今もハヌマーンやラクシュマナを筆頭とした、ラーマの仲間達は、プシュパカ内部でラーヴァナを探し、そして、迫りくる羅刹達と戦っているのだろう。
だがラーマは、宮殿外部の辺鄙な所から、奇妙な力場がある事を察知し、その方向に駆け寄って見ると……いたのである。
シータを攫った不倶戴天の仇敵、旅の道中打ち倒した様々な羅刹が今際に口にした、『例え貴様でも王には勝てぬ』……と言う旨の言葉、その主が、結跏趺坐を作りながら瞑想をしていたのである。

 その姿を見た時、ラーマは言葉を失った。
配下の多くが――ラーヴァナの息子であった、あの恐るべき悪魔・メーガナーダも既に打ち倒され、もう後がないと言う状態にまで追い込まれていると言うのに。
ラーヴァナの瞑想は、ラーマですら称賛の念を憶え、惚れ惚れする程堂に入っていたのである。此処まで見事な瞑想を行う者は、聖仙(リシ)であろうともそうはいない。
ラーヴァナには、聖仙プラスティアの孫であり、彼から苦行や瞑想の手解きを受けていた事は間違いなかろうが、きっと、彼の聖仙よりも瞑想や苦行の練度は最早超えていよう。

「あんな趣味の悪い黄金の宮殿で瞑想なんて出来るかよ。財宝神とはつくづく趣味が合わん」

 吐き捨てるようにラーヴァナが言った。この瞬間だけ、ラーマとラーヴァナは意見があった。ややあって、ラーヴァナはゆっくりと、重苦しく口を開いた。

「永きに渡る苦行、幾百にも及ぶ涜神、幾千幾万にも届こうかと言う悪逆。我が身を裁くに相応しい者が来臨するだけの悪逆の数々を儂は犯し――その果てに遂に、ラーマ。貴様と言う最大の強敵が、儂の下にやって来た」

 この言葉を言い切ると同時に、ラーヴァナは結跏趺坐を解いて立ち上がる。
グワッ、と、物理的な質量と量感を伴った、風の如き威圧感がラーマの下に叩き付けられる。
勿論、自然現象としての風が吹いているのではない。そうと誤認させる程に、ラーヴァナの存在感が圧倒的なのである。
これが、羅刹王。これが、自分達の旅路の終着に立ちはだかる、最大最後の強敵。それをラーマは、今まさに肌で実感していた。

「法の満ちる世界か、羅刹の支配する世界。どちらかの世界が、成就する事無くランカーの夢へと消えるだろう。だがそれは、儂の理想とする世界の方ではないのは確かだ」

「羅刹王よ。聡明なお前にこれを言うのは、何とも心苦しいが、言わせて貰うぞ」

「赦す。言うて見よ」

 大弓……ブラフマーストラに矢を番えた状態で、ラーマは言った。

「羅刹が一度でも勝利した歴史など、この世には存在せず、そして今この瞬間にもないと言う事だ」

「フハハハハハハハハハハ!! 吠えるではないか小僧!!」

 怒るでもなく憎むでもなく、ラーヴァナは呵々大笑を浮かべ、腰を低く落して構えた。

「メーガナーダ、シュールパナカー、ニクムパ……貴様らが滅ぼした、羅刹の将軍共。彼奴らが如何に手緩い存在であったのか、このラーヴァナが貴様の総身に叩き込んでくれるわ!!」

「オオッ!!」

 そうして戦いが始まった。
羅刹の王と、ダルマを築く為に彼に立ち向かう聖なる王。彼らの因縁の構図に幕を下ろす、最後の戦いが、今まさに始まったのであった。

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最終更新:2018年01月10日 22:58