第零節/ネヴァーランド

『がんばりましょう』

『がんばるんです。生きるんです』

『どんなに辛くても、苦しくても』

『生きてさえいれば、いいんです』

『そう』


『生きていることだけが、わたしたちにとっての』

『明日への希望、なんですから』





 ――りんりんりん

 ――りんりんりん

 ――りんりんりんりん


「姉ちゃん! おーい、姉ちゃん!!」

 ……なんだか部屋が騒がしい。
 なんだっていうんですか、今日は休みの日だっていうのに。 
 わたしは布団を深く被って外の音を遠ざけます。
 ああ、いい気持ち。
 あったかいお布団に包まれて過ごす朝ほど素晴らしいものがこの世に一体どれだけあるでしょうか。

「……アリス!!」

 しかしわたしの至福は長くは続きません。
 がばっと引き剥がされる魅惑のヴェール。
 わたしが丹精込めてあっためたお布団は哀れ足下の彼方に。

「あああっおふとんが! なんてことするんですか!!」
「おふとんが!じゃねーんだよアリス姉! 今何時だと思ってんだ!?」

 色黒な年下の男の子。
 わたしをアリス姉と呼ぶのは、この集合住宅(おうち)に一人しかいません。
 やんちゃ坊主のジェイク。確か昨日は、アリエットちゃんのお人形を壊してしまったとかでお夕飯抜きの刑を受けさせられてましたっけ。
 しかし、はて。えらく呆れ返っている様子ですけど。

「……もしかして少し寝坊しちゃいました?
 だったら急がないとですね、メアリーに謝らないと――」
「あのなあ……少し、じゃないぞ」
「へ?」

 びしっとジェイクが壁を指差します。
 するとそこには、長針と短針が重なり合って真上を指している世にも恐ろしい壁時計の姿が……。

「……、……」
「アリス姉、今日確か昼食当番だったろ」
「……あの……」
「メアリー姉からの伝言」

 いけません。
 これは、いけません。
 この家の絶対の掟、「おサボり厳禁」。
 それを破った者には、例外なく恐ろしい罰が……

「"特別メニュー。ピーマンの肉詰め、肉抜き。晩ごはんの分も作ったから、遠慮せずたくさん食べるように"」
「それ作ったって言わなくないですか!?」

 この家において、最年長のメアリーは絶対です。
 年下が何人束になってかかっても、あの冷たい目一つで全員撃沈です例外ありません。

「……うぅ、わかりました、わかりましたよ。
 食べればいいんでしょうピーマン。あんな拷問用に栽培させられたとしか思えないお野菜を、よく噛んで味わって胃に流し込めばいいんでしょ!」
「そうだけど。ていうかアリス姉、毎回一言一句違わず同じ台詞吐くよなピーマン食う時。すげー記憶力だ」
「自慢じゃないですけど、わたしほど野菜の緑が嫌いな人はここにはいないと思いますよ?」
「いやお前何色だろうが嫌いだろ、野菜」
「細かいことは気にしない。でっかく生きましょう」

 ふふん、と鼻を鳴らして、わたしはベッドから起き上がります。
 と、その時でした。ジェイクがわたしの顔を見て、ぎょっとした顔をしたではありませんか。

「ちょっとジェイク、いくら寝起きだからって女の子の顔を見て―――」
「……アリス姉」

 抗議するわたしを遮って、ジェイクはわたしを指差しました。
 その時初めて、わたしは気付きます。

「なんで泣いてんの?」

 わたしの頬を、一筋の涙が伝っていることに。
 わたしの目が、わけもわからず涙をためていることに。





「うぅう、まだお口の中に苦さが残ってます……」
「感謝しろよ、こっそり半分食ってやったんだから。メアリー姉にバレると俺まで痛い目見るんだぞ」

 お昼ごはんは地獄でした。他のみんなも、いつもならピーマンの肉詰めとなると少なからずブーイングの声をあげるのですが……
 流石に横に肉抜き肉詰めを頬張って震えてる年上がいると、自分たちは恵まれてるなあという気持ちになるみたいです。
 メアリーは意地悪に笑いながら、合計六回も「おいしい?」って聞いてきましたけど。
 まったくあの子、人の心がないんでしょうか。

「感謝してますよ……でも珍しいですね。ジェイクがわたしを助けてくれるなんて」
「いや……仮にも年上がピーマン食べたくなさに泣いてる姿見せられたら、なんか可哀想になってきてよ」
「それ野良犬とかに向けるたぐいの優しさですよね!?」

 時刻は午後二時。わたしたちは、ぽかぽか陽気の中央通りを買い物かご片手に歩いています。
 毎週日曜日は、こうして家の誰かと一緒に買い物に行く。わたしの中では恒例なんです。

「まったく。あれは……あれはそういうのじゃないんですよ! わたしをなんだと思ってるんですか!」
「えー。だってアリス姉、ケーキの苺食われただけで三日は拗ねるくらいにはガキじゃんか。ピーマン二食連続直食いなんて言われたら、ああ泣いてもおかしくねーか……って」
「うぐ」

 痛いところを突かれました。
 でもあの一件はわたしの聖域に手を出したキッドが悪いのです。
 わたしは悪くありません。大人げないとかありません。
 いくらキッドが四歳の最年少だからって、ルールはルールなんです。

「で? ピーマン原因じゃないなら、なんで泣いてたんだよ」
「うーん……そうですね、はっきりとはわかんないんですけど」

 そう、はっきりとはわかりません。
 でも時間が経つにつれて、漠然と浮かんでくることがありました。

「夢を見てたんです。たぶん、すごく悲しい夢」

 よくは覚えてませんけど。なにかすごく悲しい夢を見ていたはずなんです、わたし。

「目を開けてしばらくして、だんだん安心してきて。わたし、幸せだなあって思うと、こう。つい?」
「くっだらねー」
「くだらないとはなんですか! 乙女の繊細な心を笑うなんて、お姉ちゃん許しませんよ!!」
「くだらないだろ。オレたちが幸せなことなんて、わかりきってることだろうが」

 予期しなかったジェイクの言葉にわたしは一瞬ぽかんとしてしまいますが、一秒後には意識しなくてもふふっと笑いがこぼれました。
 「何笑ってんだ!」と顔を赤くしてわめくジェイクが可愛くて、またくすくす笑ってしまう。
 そう、ジェイクの言うとおり。わたしたちは幸せです。これ以上なんてないくらい。
 ジェイクがいて、メアリーがいて、みんながいて、わたしがいる。
 もちろんいやなことだってたまにはあります。ケンカだってします。でも、丸く収まらなかったことはありません。
 ここはそういう国なんですから。わたしたちの生まれ故郷……この『ネヴァーランド』は。

「……ん」
「今度はなんだよ。これ以上からかうとひっぱたくかんな!」
「いや、そうじゃなくてですね。何やら広場の方が騒がしいような」
「!」

 もしかして、とジェイクがわたしの手を掴んで駆け出します。
 その行動を見て、わたしも何が騒ぎを生み出しているのか察しました。
 まだ実際に見たわけではないですが、たぶん間違いないでしょう。騒ぎの中心が広場ってのが決め手です。

 今日も、わたしたちのヒーローが帰ってきたんです。
 ピーター・パンに任命された、唯一の"きたなくない"大人たち。強くて優しくてかっこいい、『ヒーローズ』のみなさんが。





 ネヴァーランドは争いのない平和な国ですが、不安がまったくないわけではありません。
 とはいっても、不安の種はただ一つ。国の外、誰も見たことのない世界からやってくる恐ろしい人さらい集団『ハーメルン』。
 ヒーローズは、ハーメルンを倒すためにネヴァーランドの王様であるピーター・パンが集めてきた特別な大人たちです。

 広場の真ん中に五つの樽が並んでいて、一つにつき一人、ヒーローが立っています。
 ヒーローたちは見た目にも個性的でとってもユニーク。ネヴァーランドに彼らが嫌いな人なんて一人もいません。

「やあみんな! 一週間ぶりかな? ご無沙汰してしまったケド心配しないで、ボクらはとっても元気だヨ!」

 右端のヒーローは白塗りのピエロ。樽の上に更にボールを一個乗っけて、バランスを取りながらジャグリングをしています。

「キミたちが安心して暮らせるように、ング……今回もにっくきハーメルンと、ハグ……アグ、ゴクン。ブハ! 熾烈な戦いを繰り広げてきたぜ」

 右から二番目のヒーローはお肉が大好き。集まった子供たちには目もくれず、フライドチキンにかぶりついています。

「まずはいい結果から話してやんぜ。おれたちは今回、ハーメルンのクソ野郎に一撃ぶち込んでやった!」

 左端のヒーローはスキンヘッドに赤い衣装がトレードマーク。ワイルドな言動に男の子たちは皆憧れてるみたいです。

「ハーメルンが擁する悪逆非道の円卓騎士。血の髪を持つ糸目の外道に膝を突かせてやったのです。どうですか、すごいでしょう?」

 左から二番目のヒーローは優しいおじいさん。両耳に三日月のイヤリングを付けているのがとってもオシャレ。

 そして―――。

「しかし、いい報せだけではないんだ。ひとつ、悲しい報せをしなければならない」

 真ん中のヒーローが、ヒーローズのリーダー。一番頭がよくて一番強い、とってもハンサムなお兄さん。
 男の子からも女の子からもものすごい人気があるこの人は、すごく人の心をつかむのが上手です。
 だって、あんなにわーわーうるさかった広場が彼の一声でしーんと静まり返ってしまったんですから!

「今回の戦いで、逃げ遅れた子供達が六人死んでしまった。名前は……キリン、アレス、ノイマン、リチャード、パルロ、アラン」

 わあっと誰かが泣き崩れました。きっと名前を呼ばれた子の友達なのでしょう。
 その姿はとても痛々しくて、見ているこっちまで涙を流してしまいそうになります。
 ジェイクを見ると、自分のことのように怒って拳を握りしめていました。「ハーメルンのクソ野郎……」と、噛みしめるように呟いて。
 ……わたしはその手をぎゅっと握ってあげます。ジェイクは生意気でやんちゃ者ですけど、わたしにとっては弟みたいなもの。
 弟がやりきれない気持ちになっているなら、包んであげるのはお姉ちゃんの役目です。いつかどこかで、誰かに教えてもらったことの受け売りですけど。

「しかし次は今回のようにはいかない! 悪のハーメルンを必ずや滅ぼし、死んでいった全ての命に報いると『ヒーローズ』は約束する!!」
「みんなの笑顔を奪う悪党、許せないヨ!」
「アグ、モグモグ……俺も同感」
「言うまでもねえ! ハーメルンの野郎どもは、便器にへばりついたクソよりも汚らしくてくっせえぜ!!」
「誅罰が必要でしょう。彼らには、このネヴァーランドの名を口にする権利もない」

 ハーメルンは強くて、しぶとい相手です。これまでに何度も犠牲が出ていて、何人もが悲しい思いをしています。
 でもヒーローズの皆さんは、いつかきっとハーメルンをやっつけてくれるでしょう。
 わたしたちみたいな力のない子どもにできるのは、ただ応援することだけです。彼らを信じて、認めて、褒めてあげることだけ。

「――ネヴァーランドに永遠を! ピーター・パンに栄光を!!」

「「「「ネヴァーランドに永遠を! ピーター・パンに栄光を!!」」」」


「「「「「「「「「「「ネヴァーランドにえいえんを! ピーター・パンにえいこうを!!」」」」」」」」」」」





「はあ。お夕飯、憂鬱です……」

 お買い物を終えて帰宅したわたしは、メアリーの目を怖がりながらもひっそりおやつを食べ終えて。
 庭のブランコに腰かけながら、沈んでゆく夕日をぼんやりと見つめて待ち受けるピーマンの脅威に震えていました。
 もう二度とお寝坊はしません。目覚ましの時間は三十分……いや二十分……いきなりあんまり早めるのはよくないですよね。五分にしましょう。五分早めます。明日から。

「……ん?」

 くよくよしていても仕方がありません。やってしまったものは切り替えて、ちょっぴり反省だけしていつも通りに生きていきましょう。
 そう思った、矢先のことでした。見慣れた庭、何度となく走り回って知り尽くした景色。そこに、見慣れないものがあることに気付いたのは。
 何かが倒れているのです。それが人だということはすぐにわかりましたが、ただの人ではないことに気付くとわたしの顔は真っ青になりました。

「あ、あれ……」

 ブランコを降りて駆け寄って、確認します。そして……やっぱり、と口元をおさえました。
 その人は背がとても大きくて、しっかりとしたからだをしていました。
 わたしどころか最年長のメアリーよりも大きい。ネヴァーランドでこんな身長の人は見たことがありません。
 あの五人。『ヒーローズ』の皆さんを……『大人』の皆さんを除いては。

「お、おとな……おとな、です………」

 大人。汚いもの。ネヴァーランドに入れてはいけないもの。ピーター・パンが許さないもの。
 ネヴァーランドに入った大人はピーター・パンかヒーローズに殺される。そんなの、どんな小さい子でも知ってる常識。
 わたしは。放っておいたら死んでしまう命を、見つけてしまいました―――





 これが、わたしとおにーさん……藤丸立香さんの出会いでした。

 ここから、ぜんぶが始まったのです。

 ネヴァーランドをめぐる、わたしたちの一世一代の大冒険が。

 しあわせを終わらせるおはなしが。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2018年03月02日 02:57