『ネヴァーランドは夢の国。みんなが仲良しで、ずっと一緒にいられる理想のセカイ』
『ここには別れも、法律もない』
『病気も、殺人も、泥棒も、ない』
『ただ幸せだけがある。幸せだけが、わたしたちをいつまでも抱きしめていてくれる』
『そんなネヴァーランドの、たったひとつの掟』
『ネヴァーランドに、大人はいらない』
『破った人は、ピーター・パンに間引かれる』
大人ってどんなひと? この国に住む人にそう聞いたなら、誰もが二つ返事でこう答えます。「汚いひと」と。
だから、ネヴァーランドに大人は一人もいません。入ってきたとしても、ピーター・パンが殺してしまいます。
昔はそれをひどいとかやりすぎだとか言う子もいたそうですけど、今ではそんな子はわたしの知る限りいません。
ネヴァーランドにいればどんな子でも幸せになれる。
肌の黒い子、白い子、黄色い子。目が見えない子、足の悪い子、ベッドから起き上がれない子、特別な人種の子。
例外はありません。けれどそれは、この国に大人がいないからこそのことでもあるのだとピーター・パンは言っていました。
もしも大人がネヴァーランドにいることを許してしまったら、たちまちセカイは汚くよごれてしまう。
だから、大人は間引くのだと。ヒーローズが頑張って戦っているハーメルンも、大人たちの集団だと聞きます。
「どうしよう……」
大人を見つけたなら、やるべきことはひとつです。
ピーター・パンに報告して、汚い大人を間引いてもらう。
みんなのために、自分のために、大人をネヴァーランドから追い出さなければなりません。
……でも。わたしには、そうすることができませんでした。
間接的とはいえ、汚い大人が相手とはいえ。人の命を奪う決断が、くだせませんでした。
マローン家には物置小屋があります。
たまの大掃除の時に道具を引っ張り出すために入る以外には、まず誰も入ってこないほったらかしの物置が。
そして、その地下には本当に手付かずの地下室。誰も入らない、そもそも開けられたことがあるのかも分からない空間。
何かを隠すにはうってつけです。ものだったとしても――ヒトだったとしても。
この時間、メアリーは夕食作り。他の子たちも大好きなアニメを見るためにテレビに釘付け。
わたしは彼らの目がないことを確認して男の人を引きずり、物置小屋までひっそりと移動。
中に連れ込んで、鍵を閉めて今度は地下室まで運んであげました。全部終わった時にはもう汗だくです。大人ってこんなに重いんですね。
本当に、何もかもタイミングがよかったとしか言いようがありません。
あとほんの十分見つけるのが遅かったら、こうは行かなかったでしょう。
そして――のんびりするにはまだ早い。気持ちよさそうに眠っている人を起こすのは気が引けますけど、もしわたしがいない間に目が覚めたりしたら混乱するのは必至です。
騒がれたりしたら、わたしの苦労も水の泡。ここは心を鬼にして、がつんと起こしてあげないと。……朝にジェイクにされたみたいに!
「あ、あのー。起きて、起きてくださいっ」
「……ん……」
「お、おにーさん! 大人のおにーさん! もう、時間ないんですからっ!!」
ぺちぺちぺちぺち。べっちんべっちん、びたんびたん!
ほとんど往復ビンタの勢いでほっぺたを叩いてあげると、ようやっと男の人は「んん……」と瞼を動かしてくれました。
本当に、気持ちよく眠っていたようです。こっちの気も知らないで。
「ん……あ、れ?」
「やっと起きましたね! 自分が誰だかわかりますか!?」
「……ここは――カルデアじゃ、ないのか? オレは、一体……」
カルデア? 聞き覚えのない言葉でした。ネヴァーランドの外にはそんな名前の国があったりするんでしょうか。
ハーメルンの奴らもひょっとするとそこから来てたり? 流石に考え過ぎですかね。
「ここはネヴァーランドですよ。カルデアじゃありません」
「……ネヴァーランド? えっと、それって――『ピーター・パン』の、あのネヴァーランド?」
「ですです」
「……………………」
男の人はそう聞いて、なんだか狐につままれたみたいな顔をしています。
自分がネヴァーランドにいることについて驚いているというよりは、そもそもネヴァーランドがあったことに驚いているような。
どうしてそんな顔をするのか気にならないわけではありませんが、今はそれより優先して伝えておくべきことがあるのです。
「時間がないので、とりあえず何も言わずにわたしの話を全部聞いてください」
「……わかった」
「あなたが知ってるかどうかはわかりませんけど、あなたのような大人はネヴァーランドにいちゃいけない存在なんです。
見つかったら、ピーター・パンに間引かれてしまいます。ピーター・パンも、この国の子どもたちも。みんな、汚い大人が大嫌いですから」
ぎょっとした顔をしていますが、無理もない話だとわたしも思います。というか、わたしがこの人の立場でも多分同じ顔をするでしょう。
ピーター・パンはかっこよくて優しくて頭がいい、全ての子どもの理想のようなリーダーですが、彼は大人にだけは一切優しさを見せません。
大人は汚い。臭い。ネヴァーランドにはいらない生き物。子どもの国を汚してしまう、ウイルスのような奴ら――昔彼はそう言っていました。
「だから見つからないように、ここの部屋を使ってください。食べ物はこっそり持ってきますから、絶対出ないように。いいですね?」
「一つ、聞いてもいいかな」
「……なんですか?」
「話は分かったよ。ここはあのネヴァーランドで、ピーター・パンもネヴァーランドの住人たちもみんな大人が大嫌い。
見つけたらピーター・パンが直々に間引く。そこまではいいんだ。でも、じゃあ……君はなんでオレを助けてくれたんだい?」
う。それを突かれると、正直困ってしまうので聞いてほしくなかったのですが……。
聞かれてしまったものは仕方ありません。理由になってるかはわかりませんけど、できる限りで答えてあげることにします。
「そりゃ、わたしだって大人は好きじゃないです。実際に見たのはおにーさんが初めてでしたけど、ピーター・パンから聞く限りとんでもない人たちのようでしたから」
ネヴァーランドには犯罪がありません。殺人も、泥棒も、騙しも、痴漢も、何もかも。大人がいないから、ないのです。
それはつまり、逆に言えば大人がいたならそういう恐ろしい犯罪が溢れかえってしまうということ。
この幸せな国をそう変えてしまうくらいに汚くてズルい『大人』を、一体どうして好きになれるでしょうか。
正直なところ、もしも大人への扱いが国から追い出すとかそういうのだったなら、わたしは掟通りピーター・パンに告げ口していたでしょう。
けれど――ピーター・パンは大人を殺してしまいます。わたしは子どもですけど、死んでしまうというのがどういうことかくらいは知っています。
「でも、"違う"からって殺してしまうなんてあんまりだなって……そう思ったんですよ。それだけです」
ピーター・パンのことは大好きですし、大人のことは大嫌い。
でもそれは、ただわたしたちとこの人たちが"違う"だけのことです。
生き物として、何か違う。それだけで命を奪ったり、いじめたりする。
この国では、きっとそっちこそ正しいことなんでしょうけど……わたしはいたずら娘の悪い子なので、正しいことはできませんでした。
「そっか」
男の人は、くすっと笑って頷きます。そして言いました。わたしの顔が真っ赤になるようなことを、面と向かって、大真面目に!!
「――君は、優しいんだね。よかったよ、オレを拾ってくれたのが君みたいな子で」
「んなっ……」
「オレはまだ死ねない。生きなきゃならない理由があるんだ。だから、君が助けてくれて本当に助かった。ありがとう、……ええと」
「あ、アリス――です。アリス! 苗字までつけるならアリス・マローン!」
「わかった。じゃあ、アリス。オレが生きてるのは君のおかげだ」
にっと笑う顔は、どこかで見たようなものでした。心が温かくなって、どんな疲れも吹き飛んでしまうような笑顔。
……ズルい。ピーター・パンの言っていたことが少し理解できました。大人がみんなこういう顔をするのだとしたら、確かにそれはズルいです。
こんな顔をされたら、恨み言の一つも言えません。お礼を受け止めるしかないじゃないですか!
「オレは藤丸立香。カルデアっていう、遠い雪山の上から来たんだ」
「雪山? そんなところから、なんでまたネヴァーランドに?」
「いや、それが分かったら苦労しないっていうか……なんていうかな」
なんだか歯切れが悪いです。何か隠してるというより、話すと長くなるから言いづらい、そんな風に見えました。
藤丸立香さん……藤丸おにーさん。今のところは、全然汚いところの見えない大人の男の人。
雪山の上から、何をどうやったらこんなところまで迷い込めるんでしょう?
パワーアップした夢遊病みたいな感じで、ふらふらーってずっと歩いてきてしまったんでしょうか?
……いや、それにしたっておかしいです。大人嫌いのピーター・パンが、そんな簡単にネヴァーランドに大人が入れるような状態を許すとも思えませんし。
うーんと考え込むわたしを現実に引き戻したのは、地上の方から聞こえた、カラスの鳴き声でした。
「あ……! 藤丸おにーさん、ごめんなさい! わたし一回ごはん食べてきます!!」
「え、あっ、分かった。悪いな、オレのために……」
「あとでおにーさんの分の食べ物と、暇つぶしになりそうな本を何冊か持ってきますから。
退屈だとは思いますけど、おとなしくしててくださいね! 間違っても、外に出たらダメですからね! アリスとの約束ですっ」
まくし立てるように言って、わたしは地下室のはしごに手をかけ、足を載せます。
毎日、このカラスの鳴き声がしたらあと十分もしない内に夕食の時間というのがお決まりなのです。
遅れたりしたら怪しまれるというのもそうですが、何よりわたし――単純にいま、ものすごくお腹がすいています。もう、背中とお腹がくっつきそうなくらい。
夜の分の肉抜きピーマンなんて気になりません。それ以外のおかずをたらふく食べて帳消しにしてやります。わたしは決めているのです。
「――ごめん! 最後に一つだけ聞かせてくれるかな、アリス!」
「もう、なんですか! 手短にお願いしますよ!?」
「もちろんだ! えっと、あのさ」
もう晩ごはんのことで頭の中がいっぱいのわたしを引き止めるおにーさん。
だいぶやけくそ気味に顔だけを振り向かせたわたしに、おにーさんはよくわからないことを聞きました。
「アリスはさ――サーヴァント、だよな?」
サーヴァント――それもまた、聞き覚えのない言葉だったので。
「……何のことかよくわかりませんけど、そんな風に聞いてきたのはおにーさんが初めてですよ? なので、違うと思います」
わたしには、そう答えるしかありませんでした。するとおにーさんは「……そっか。悪かった、勘違いみたいだ」とお返事。
気を取り直してはしごを登って、地下室を出て、小屋をきっちり施錠してわたしは家へと戻ります。
けれどその間も、おにーさんが最後にした質問がずっと頭から離れませんでした。正確には、おにーさんが口にした耳慣れない言葉。
『サーヴァント』。その意味はわかりませんけど――何故でしょう。自分でも、よくわからないのですが。
わたしは不思議と、自分の中でずっとわだかまっていた疑問みたいなものが消えるのを感じているのでした。
意味も、理由も、何もわからないまま。そのよくわからない感覚だけを抱きながら、夕暮れの下を走っていく。『不思議の国のアリス』の、アリスみたいに。
「へえ、伝記か。アリスは勉強熱心なんだね」
お食事を終えて、消灯時間を過ぎた午後十一時三十分。
わたしはもう一度、地下室へやって来ています。おにーさんの分の食べ物と、暇つぶし用の本を数冊持って。
おにーさんもお腹が減っていたらしく、パンとシチューのあまり、あと肉の入ってないピーマンの肉詰めを美味しそうに食べてくれました。しめしめ。
「漫画とかもあったんですけど、大人の人はこういうむずかしい本の方が好きかなーと思って。
……あとこう見えてわたし、趣味で小説を書いてたりするんですよね。こういうご本は、よく参考にするんです」
「感心だなあ。オレがアリスくらいの年の頃は、それこそ漫画しか読んでなかったよ」
あ、ちなみに小説を書いてることは家のみんなには内緒です。絶対からかわれるのが見えてるので、口が裂けても言いません。
なのに初対面の藤丸おにーさんにはすらすら言えてしまったのは……なんででしょう。自分でもよくわかりません。
でも、このおにーさんには不思議な力みたいなものがあるんです。話していると、ついついいっぱい喋ってしまう、そんな魔力みたいなものが。
「って――チョイスがなかなか子どもらしくないな! 諸葛孔明、エリザベート・バートリー、ニコラ・テスラにビリー・ザ・キッド……、…………」
「? どうしたんですか、おにーさん? なんだか頭を抱えてますけど……」
「い、いや。なんでもない、なんでもないんだ。ちょっと知人の顔が突然頭をちらついただけだよ」
「あ、その中だと孔明が一番好きなんですよねわたし! 次から次へと華麗な軍略を擁して活躍する姿には憧れちゃいます!」
「ああ、オレも好きだよ孔明。特に第一スキルが好きかな。NPを一気に30%貯めつつクリティカル倍率も上げるんだから憧れちゃうよ。
おまけにA三枚で宝具もバカスカ撃てるし、サポートでいつも使ってるなあ。これで星が五つなかったら最高なんだけどなあ…………」
「な、なんの話をしてるんですか!? わからない、わからないですけど、それ以上はすごく危険な香りがします!!」
「あ、マーリンは持ってるんで」
「聞いてないですけど!?」
まずい、まずいです。なんだか藤丸おにーさんの目からハイライトが消えていますし、それ以上に見えない壁がべきべき言っている音が聞こえます。
話題を変えましょう、話題を。そうだ、伝記だけじゃない! 神話の本も何冊か持ってきてるんでした!
「お、神話にも詳しいんだ。アリスは勤勉だなあ、どれどれ……『オデュッセイア 第十歌:大魔女キルケーとの出会い』…………、……………………」
「面白いんですよ、オデュッセイア。一冊一冊がお高いので、古本屋で安く売られてたその巻しか持ってないんですけども。恐ろしい魔女キルケーが出てくる巻ですね、これは」
「恐ろしい、恐ろしい……か……」と、どこか遠い目をするおにーさん。
なんでしょう、どうしておにーさんは歴史や神話の本を前にしてこんな不思議な反応をするんでしょう。
わたしにはさっぱりわかりませんけど、もしかしたらおにーさんのいたカルデアというところでは、ネヴァーランドに伝わってるのとは違う歴史の本が出回ってたりしたんでしょうか。
それはそれで読んでみたい気もします。……って、本のお話もいいけどもっとしておかなきゃいけないお話があるんでした。
「ところでおにーさん、これからどうするつもりなんですか?」
真面目な話、ここにずっと匿っているというのはまず無理です。
食べ物をちょろまかすのだっていつまでバレずにいけるかはわかりませんし、いつかは地下室の扉を誰かが開けることもあるでしょう。
もちろん、わたし以外がおにーさんの存在を知ったなら全部おしまいになってしまうのは間違いありません。
ネヴァーランドでは、誰もがピーター・パンのことが大好き。見知らぬ大人と大好きなピーター・パン、どちらを大事にするかなんて火を見るよりも明らかです。
「もちろん出るよ。いつまでもアリスに迷惑はかけられないからな」
「……あてはあるんですか?」
「いいや、ない」
「でしょうね」
溜め息をつくわたし。おにーさんは、すごく真剣な顔をしていました。その様子を見るだけで、この人には何か"やるべきこと"があるのだとわかります。
わたしがそれについて聞くより先に、おにーさんの方が話し始めてくれました。
「オレは殺されるのは御免だけど、ネヴァーランドから出るわけにもいかないんだ」
「ど……どうしてですか? わたし以外の誰かに見つかったら殺されてしまうんですよ?」
「わかってる。でも……オレはネヴァーランドをまだ出られない。オレが怖気付いて出ていったら、もしかするとオレの命だけでは済まないかもしれないんだ」
背筋が冷たくなるのを感じました。オレの命だけでは済まない――そう言ったおにーさんの声はとても冗談を言っているそれではなくて。
同時にわたしは理解します。おにーさんの真剣な瞳に宿る、この国では見たこともないような種類のきらめき。
これはきっと、背負っているものが一つだけではないからこそのきらめき。この人は、わたしと出会わなくたって一人ぼっちではなかったんです。
この国にこういう光を持っている子が一人もいないのは当然の話。だって、ネヴァーランドには幸せしかないんですから。
幸せしかないのだから誰かの重さを背負う必要なんてあるわけもありません。誰も何かを背負わない。みんなが身軽なんです、ネヴァーランドでは。
ピーター・パンが嫌う大人たちはみんなこんな目をしてるんでしょうか。たぶん、違うでしょう。"藤丸おにーさんだから"、こういう目をするんでしょう。
「ただ、闇雲に出ていったらそれこそ殺されるのは見えてる。だから……その、言いにくいんだけど」
「……くす。もう少しだけ置いといてほしい、ですか?」
「そうなります……」
打って変わって、縮こまりながらそう言うおにーさん。それがなんだかおかしくて、わたしは思わずくすりと笑いをこぼします。
ずっと毅然としていればかっこよかったのに、この人はきっとこういう性格なんでしょう。
伝記や神話に出てくる偉い人たちとは違う普通の人。なんでこんな普通の人が色々と背負わされているのかはとんとわかりませんが……
「いいですよ。わたしだって、助けた人をすぐ放り出すような薄情者じゃありませんから」
「マジか! ありがとう、アリス! 本当に助かるよ……!」
――――こんな人ばかりなら、大人の世界というのもそんなに悪いものではないのかもしれません。
わたしは心が温かくなるのを感じながら、同時に、そんなことを思ってしまったのでした。
思って、しまったのでした
◆
『鋼の割れる音がする』
『何かの軋む音がする』
『一度でも畳んだ紙が、二度と元通りにはならないように』
『動き出した時計の針を止めるすべは、ない』
『そう、時計の針は動き出した』
『それが何を意味するかなど、露知らぬまま』
『少女は、有限になったのだ』
◆
おにーさんと語らいながら、ゆっくりと時間が流れていきます。普段ならもう寝ているはずの時間なのに、わたしはあくびの一つもしていません。
それだけ新鮮だったのです。ネヴァーランドにはいない、いてはいけない存在。大人という生き物と、こうしてお話しするのは。
藤丸おにーさんはいつかいなくなってしまいます。そうなったら、きっと一生大人と話す機会なんて来ないでしょう。
そういう意味でも話しておくべきだとわたしは思いました。夜更かしをして、また寝坊で懲罰を食らうかもしれないとしても――そんなとき。
「え?」
わたしは見ました。そして、聞きました。誰も来るはずのない地下室。その鍵が、がちゃりと音を立てて回る瞬間と音を。
藤丸おにーさんとわたしが意味を理解して体を動かしたときには、しかしもうすべてが無駄でした。
ドアノブは無情にも回り。誰も来ない、来てはいけない地下室の扉がゆっくりと開かれます。……いいえ、きっとゆっくりではなかったのでしょう。
わたしにとってそれは、絶対に起こってはならない事態でした。だからショックのあまり、目の前の光景がスローモーションに見えてしまったのです。
自分の命がなくなる寸前に見る、走馬灯みたいに。ただ一つそれと違うのは――なくなる命はわたしのものではない、ということ。
「……おかしいと思った。夕飯の準備中、いつもなら必ず一回は献立をチェックしにやってくるのに」
聞き覚えのある声でした。そして、一番この場に響いてはいけない声でした。
思わず歯がぎりりと音を鳴らします。ああ、なんてこと! 他の子だったらまだ、ごまかしも効いたかもしれないのに!!
「ごはんを食べてる間もどこか上の空。大嫌いなピーマンも、今度は小細工しないですんなり食べる。おまけにおやつにしては多すぎる、一食分はあろうパンの持ち出し」
よりによって……あの子が来るなんて! わたしは自分の不運と迂闊さを呪います。そして、おにーさんに心の中で謝るしかできませんでした。
開け放たれたドアの向こう。見慣れた物置小屋の景色を背後に立っている、昏い瞳の女の子。背はわたしと変わらないのに、わたしじゃ絶対勝てない年上。
「こういうことだったんだね、アリス」
「……メアリー。違うんです、これは―――」
「なにが違うの?」
「その―――」
「大人を、匿ってたんでしょ?」
メアリー・マローン。マローン家の家長。わたしたちの―――お姉ちゃん。
最終更新:2018年03月05日 14:23