08
走る! 疾る! 駆る!
日本の城下町を思わせる場を駆け抜ける影が居た。
夜空に輝く月じみた金色の髪。額から生えた赤黒い二本の角。荒々しく息を吐く口からは、野獣めいた刺々しい歯が覗いている。
カルデアのデータベースに照らしてみれば、それがバーサーカーのサーヴァント『茨木童子』であると分かるだろう。
金色の光線と化して、日本家屋の隙間を縫うように地を滑る彼女の姿は、一見獲物を追いかける捕食者のように見えるが、実際のところは『追う側』ではなく『追われる側』であった。
その証拠に──おお、鬼の後方を見るがいい。
鬼の脚力で走る茨木童子を追いかける人間の姿があるではないか。
「嗚呼、辛いですねェ……逃亡する者をわざわざ追いかけるのは辛いです。それが本日二回目となると、辛さ倍増です。辛い辛い……」
男にも女にも聞こえる声で吐いたそんな台詞とは裏腹に軽薄な笑みを浮かべているのは、ヘルメットを被り、アメリカ陸軍の軍服に身を包んだ男であった。
いや、『軍服』という荒々しさを感じさせるファッションから、パッと見は男だと思われたが、そのアジア系の顔は中性的なそれであり、本当に男かどうかは断定出来ない。
長い黒髪はヘルメットからはみ出しており、紫色の目を縁取る睫毛は筆先のように長い。石英の如き白さを有する細腕は、次の瞬間には砕け散ってしまいそうな儚さすら見受けられた。
一見すると、アメリカ陸軍のコスプレをしている大和撫子のようである。軍服よりも十二単を纏うべきでは、と思わされる程の女性的美しさを有していた。
しかし、そんな細腕で刀身が子供の身長ほどはある日本刀を軽々と振るっているのだから、軍服の麗人の性別は益々謎めくのであった。
「チィッ!」
背後から次々と襲いかかる何本もの剣閃を避けながら、茨木童子は舌打ちを鳴らす。
「おやおや避けますか。避けられますか……。流石は日本に名だたる大化生の一角、と言ったところですねぇ──では」
軍服の麗人は、刀を一際大きく振りかぶり。
「では、これならどうでしょう?」
振り下ろした。
すると、剣閃をなぞるようにして淡い紫色の雷が空間に出現した。
それは珊瑚のような禍々しく歪んだ軌道を描きつつ、茨木童子目掛けて空中を走る。これをまともに喰らえば、如何に耐久力の高い鬼と言えども、良くて戦闘不能、悪くて五体が八裂きになるだろう。
襲いかかってくる紫雷の殺気を背後に感じる茨木童子。
「走れ叢原火ッ!」
叫びつつ振り返った彼女が突き出した両腕からは、いくつかの火炎が飛び出した。
それは宝具ですらない、単なる魔力放出の産物。しかしながら、その灼熱が有する破壊力は、下手なサーヴァントの攻撃宝具よりも勝るものである。
衝突する紫雷と紅炎──二つの高エネルギーは、耳を聾さんばかりの音を立てながら相殺し、爆煙を残すのみとなった。
両者の間の空白地点で発生した爆風に煽られた事により、茨木童子と軍服の麗人の距離は僅かに広がる。
これ幸いとばかりに逃走を再開する茨木童子。しかし、ここで易々と逃走を許すような軍服の麗人ではなかった。
「ふむ……剣は避けられ、雷は無効化されましたか。辛いですねぇ、辛い辛い。鬼が相手では、己の力不足をより一層思い知らされて辛いです」
ならば──と。
そこで一呼吸間を置いた後、軍服の麗人はこう続けた。
「宝具を使わせてもらいましょう」
瞬間、軍服の麗人が発する刃物の如き魔力はその鋭さを増した。
宝具──サーヴァントの切札を指すそれを耳にした茨木童子は、咄嗟に首から上を軍服の麗人へと向ける。
しかし、それそのものに大した変化は見受けられない。身体中の筋肉が怒張したわけでなければ、握る刀がビーム砲のようにエネルギーを帯びたわけでもない。
変化は周囲に起きていた。
銃口──前方と左方に大量に並ぶそれが茨木童子を十字に囲むように現れたのである。
しかも驚くなかれ──それはただの銃ではない。
二本のレールという極めてシンプルな構造でありながら、膨大な電流と殺意が込められたものだ。
その名も『電磁加速砲』。
人類の科学力ではまだ実用化不可能と言われる近未来兵器が何十何百何千何万丁と並んでいるのだ。
まるでSFで描かれる戦場ような、空前絶後の光景を目にし、茨木童子は思わず息を呑む。
そして同時に、これまで積み上がってきた疑問がついに爆発した。
男か女か、日本の英霊なのかアメリカの英霊なのか、そして過去の英霊なのか未来の英霊なのか──宝具を開放してなお、そのどれもが一切不明な、この軍服の麗人は何者なのだ?
その疑問は南極の氷のように簡単に解けるものではなかったし、そして何より、彼女がその疑問の解消に頭を使うような時間の余裕はこの場に無かった。
「これぞ魔王殺しが得意とする常勝戦術──十字架に磔られた罪人の如く、逃れざる罰の到来を震えて待つがいい」
軍服の麗人が滔々と述べる口上の通り、大量の『電磁加速砲』から逃れられる術はない。これらが同時に発砲すれば、鼠一匹通る隙間すら生じないだろう。
「『磔聖十字』」
軍服の麗人の切り札の名が明かされる。
途端、何万も並んだ『電磁加速砲』から弾丸が放たれた。音速の壁を何枚も超えたそれらは、たった一匹の鬼を射殺すべく殺到する。
絶体絶命のピンチを前に、茨木童子は思考する。
この窮地をどうやって切り抜ける?
自分も宝具で対抗するか? ──否。契約を結んでいないはぐれサーヴァントの身では、魔力が足りない。
先程雷に対抗して放出した炎ですら、茨木童子にとってはギリギリの搾りカスのようなものだったのだ。
そんな状態で宝具の開放など不可能である。
仮に、宝具を無理矢理に開放出来たとしても、その直後には魔力枯渇で消滅するだろう。
つまる所、対抗策皆無の打つ手なし。
茨木童子はここで軍服の麗人の凶弾に破れ去る──と思われた。
だがしかし。
「打つ『手』はない──が、『足』ならあるッ!」
だぁん!
茨木童子は力強く地面を蹴り抜いた。
鬼の脚力を加えられた事で彼女を中心とした半径二十メートルの地面は粉砕。その衝撃で周囲の日本家屋は地震に揺らされたかのように倒壊した。
そして、蹴りの反作用で鬼の体は空高くまで飛び上がった。
そう。
飛び上がった──のである。
銃弾が飛んでこない遥か高くまで。
軍服の麗人の宝具『磔聖十字』は平面に限れば完全無欠の制圧力を誇るが、立体面ではその限りではないの。
故に、茨木童子がしたように、空高く飛ぶという行動を取られるとあっさり回避されてしまうのだ。
その弱点を証明するかのように、何万もの弾丸はつい一瞬前まで茨木童子がいた座標を通り過ぎて行った。
「私の宝具の弱点を発砲前から看破するとは、やはり大江山の頭領は侮れないと言ったところですか」
己の宝具をあっさり躱されたにも関わらず、余裕と賞賛の混ざった声で呟く軍服の麗人。
顔を上げて、茨木童子が飛んで行った方向へと目を向ける。そこに鬼の影はほんの少しも見えなかった。
「『仕切り直し』──我が御先祖の仲間から逃げ切ったという逸話から、そのようなスキルを持っていてもおかしくないですね」
茨木童子がこの場から逃げ切った理由をそのように結論づけ、納得した軍服の麗人は、日本刀を鞘に収めた。
チャキっ、と。
音が鳴ったその瞬間、それまで周囲に展開していた『電磁加速砲』は、細かな光の粒子と化し、空気に溶けるかのように消えていく。
「ライダー殿から頂いた『れえるがん』。これは中々いいですね。銃としての性能は勿論ですが、何より電気をエネルギーにする部分が良い。私の魔力との相性が最高です──少なくとも火縄銃よりは」
上機嫌そうに呟きながら、軍服の麗人はくるりと振り返り、来た道を戻って行く。
日本家屋を越えて向かう先にあるのは、巨大な建造物。
天守閣が立派な城である。
『心熱き戦士達』の一人である軍服の麗人──レッド・アーチャーと、はぐれサーヴァントの一体、茨木童子。
両者の戦ですらない鬼ごっこは、こうして終わったのであった。
09
(鬼である吾が、人間相手に敗走を強いられるとはな……)
レッド・アーチャーから逃げ切った茨木童子は、暫く歩いた後、ふと、後ろを振り返ってみた。
視界の先に広がるは、氷に覆われた南極の大地。その更に先に、和風の城と沢山の日本家屋で構成された町がぽつんとあった。
出来の悪い
合成写真じみたその光景は、見る者にある種の不気味さを感じさせるものだった。
(今は魔力が足りず、戦える状態ではない──が、いずれ時が来たら、この借りは必ず返してやるぞ)
城を睨みつけてそう誓った後、茨木童子は歩くのを再開しようとする。
と、その時。
微かな──鬼の聴力を持つ茨木童子でなければ聞こえない程に小さな音が響いた。
それは呼吸。生命が生きる上においてどうしても発してしまう音である。
それを耳にした瞬間、茨木童子は全身の筋肉を強張らせ、臨戦態勢を取った。
しかし、よくよく耳を澄ましてみると、その呼吸音がどうにもおかしい事に気付いた。
荒々しい──というよりも途切れ途切れだ。呼吸のリズムが狂っている。
(怪我人でもいるのか?)
そう思いながら、茨木童子は音の発生源へと向かった。十メートル程の高さがある氷の山を越え、氷の洞窟の中へと進んで行く。
果たして、そこにいたのは、茨木童子の予想通り、重傷を負った者であった。
少女──黒いビキニを改造したかのような破廉恥な衣装を身に纏っており、両手には無骨なナイフを握っている。
ビジュアルに目を引く要素しかないが、何よりも目立っていたのは、彼女の胸から腰にかけて袈裟に走った刀傷であった。
出血はしていない──刀傷に重なるように負っている火傷で止血されているからだ。
高熱の炎、あるいは電流を帯びた刀で斬られない限り、こんな奇妙な傷痕は残るまい。
(──そういえば、彼奴は「逃げる者を追うのは本日で二回目だ」と言っていたな……)
先程遭遇した軍服の麗人の特徴と目の前の少女の惨状を照らし合わせ、彼女がどういう目に遭ってここにいるのかを推察する茨木童子。
「……ぅ……ううん?……」
誰かがやって来たのを悟ったのか、少女は目を薄く開いた。
その目に力は無く、まるで死人のようである。いくら出血していないとはいえ、刀に斬られた事で負ったダメージそのものは甚大なのだろう。それに電流のダメージが加わっていれば尚更だ。
「あなたは……だれ?」
「ふん、汝と同じ負け犬と言った所だな」
少女の問いに答えつつ、茨木童子は目の前の怪我人をどうするか考える。
負っているダメージの度合いで言えば、茨木童子の方が格段に低い。この場で生き残る確率が高いのは彼女の方だろう。
とは言え、茨木童子の命は長い訳ではない。
何度も述べているように、彼女は単なるはぐれサーヴァントだ。魔力供給源であるマスターは存在しない。
それに、先程のレッド・アーチャーとの戦いで、ただでさえ少ない魔力を消費しているのである。
このままでは、あと一日も経たないうちに、現界の維持が出来ずに消滅してしまうだろう。
詰まる所、茨木童子は一刻も早い魔力補給を要していた。
そして今、彼女の目の前には魔力の塊が転がっている──重傷の少女、という姿で。
ごくり、と喉が鳴った。
少女は再び目を閉じている。気を失ったのか、あるいはもう死んだのか。いや、サーヴァントである以上、死ねば消滅するのだから、前者か。
どっちにしろ、彼女の命が茨木童子より短いのは確固たる事実である。
そして、死ねば消えるのだ。
どうせ、消えてしまうのだ。
ならば──。
「…………」
茨木童子は、手を少女の体へと伸ばした。
その姿は、昔話で何度も見られる、人間を喰らおうとする恐るべき鬼のようであった。
鋭く長い爪が伸び、ゴツゴツとした赤い手が、少女の柔肌に触れる。
そして、茨木童子は──
10
少女──ジャック・ザ・リッパーの開かれた視界は、金一色で塗りつぶされていた。
(……?)
数秒経って、ジャックは視界を覆うそれが金髪である事に気付き、そしてそれがついさっき見たばかりのものである事に気付く。
「──起きたか」
金髪の向こうから、さっき聞いたばかりの声が響いた。
現在、ジャックは茨木童子に背負われて、南極の大地を移動していた。
「勘違いするなよ? あの憎っくき軍服によって瀕死にされていた汝を食うという行為を、吾の鬼として矜持が許さなかっただけだ。決して──けっ、し、て、同じ負け犬に同情したとかいう、砂糖菓子のように甘ったるい理由ではないからな?」
何やら早口でまくし立てているが、ジャックにその意味はよく理解出来なかった。
というよりも、意識は依然として朦朧としている。
「──まあ、なんだ。同じ相手に負けた者同士、今だけは協力してやってもいい、というわけだ。敵の敵は味方と言うだろう?」
「…………」
つまるところ、自分を背負っているのは味方だという事を、ジャックは理解した。
「……くの?」
「ん?」
「どこに、いくの?」
「あー、そうだな……」
実の所、茨木童子はこれと行った目的地があって移動しているわけではなかった。
この南極は、今やどこもかしこもが赤い魔人の蔓延る戦場である。下手に歩けば、また別の敵と遭遇する事になるかもしれない。
とはいえ、茨木童子とジャックだけであの洞窟に引きこもっていれば、待っているのは『死』のみだ。
自分達の他にいるであろうはぐれサーヴァント──出来れば回復の魔術や潤沢な魔力を有するキャスターが望ましい──を探すべく、茨木童子はアテもなく歩いているのであった。
取り敢えずあの軍服の麗人がいる方面は論外として、それ以外の方向だとどこに進めばいいのだろうか──。
そんな思考をしつつ、茨木童子は空を仰いだ。
彼女の目に映ったのは、二つの太陽が浮かぶ青空──ではなく、謎の飛行物体であった。
未確認の飛行物体であった。
俗に言うUFOである。
「にゃぁ?」
予想外の物を目にした事で、素っ頓狂な声を上げてしまう茨木童子。
そんなリアクションを取っている間に、UFOは西の方へと飛んで行った。
「…………」
「…………」
「……追うか」
「うん」
UFOの乗員が敵か味方かは分からないが、目の前を通り過ぎて行ったそれを無視するのは不可能である。
『電磁加速砲』といいUFOといい、奇妙奇天烈な物ばかり見かける特異点だな──そう考えながら、茨木童子は歩みを進めた。
大江山の『鬼』である茨木童子と、ロンドンの殺人『鬼』であるジャック・ザ・リッパー──二鬼、もとい二騎のサーヴァントは、西の方角へと向かって行った。
彼女らが向かった先で、カルデアのマスター、藤丸立花と、はぐれサーヴァントのキャスター、エレナ・ブラヴァツキーと出会うのは、もう少し後の事である。
最終更新:2018年03月08日 19:32