第0節:初恋の火

「……んぅ」

 いつの間にか寝ていたみたい。
 ゆっくりと重いまぶたを持ち上げる。
 私は電車に乗っていた。
 見慣れない街が黄昏色の空を背景に広がっている。
 落ち着いて眠るのなんて随分ご無沙汰だったから、つい居眠りしてしまったらしい。

「今、何時……?」

 ごしごし。
 目を擦る。
 そして時計を探した――あった。
 長針は数字の7を指している。
 ……しまった。電車を降りるのは5時のつもりだったのに、二時間も過ぎてる。
 うたた寝する前は確か3時30分だったから、私は、三時間と半分も居眠りしてたことになる。
 どっ、どっと心臓が脈を打って、背中にいやな汗が流れ出して、息が苦しくなってくる。
 目を閉じればお母さんの怒った顔――かぶりを振って頭の中から追い出す。
 あの家に帰る予定があったならそれはそれは恐ろしい折檻をされただろうけど、生憎と、私にもうその気はない。

「……とにかく、降りないと」

 もうあの家には帰らない。
 どんな理由があったって戻ってやるもんか。

 ごとんごとん。
 ぎぃぃぃ、っ。
 やけに嫌な音を立てて電車が停まる。
 ……あの家の玄関の扉も、こんな音だったっけ。
 そんなことを思いながら、私は箪笥から抜いてきたお金を払って電車を降りた。
 電車はわたしを降ろすとすぐに、何人かのお客さんを乗せて次の駅へと走っていく。

 それを見送って、わたしは新しい街に足をつける。

 此処がわたしの新しい世界。
 新しい人生。新しい、未来。
 夕暮れの向こうに広がる町並みに胸をときめかせながら、私は安堵と期待の綯い交ぜになった吐息を零した。


 ……とはいえ。
 勢いでこんな遠くまでやって来たけれど、これからどうしよう。
 抜いてきたお金は少なくはない。でもこんなの、新生活の準備段階で全部消えるのは目に見えている。
 噂のネットカフェ難民にでもなるしかない?
 根本的な解決には全然ならないし、一日泊まるくらいに留めておきたいけれど。
 こんなことなら、もうちょっと下調べしてから来るんだったな。せめて働き口のアテくらい付けてくればよかった。
 尤も、こんな絵に描いたような訳あり未成年、使ってくれるお店なんてそうないような気もする。

 ダメだ、あまりにも前途多難すぎてマイナス思考がループする。
 もういっそのこと、あまり深く考えないで行動した方がかえって上手くいくかもしれない。そう信じよう。
 そんな風に思考を強引に打ち切って、わたしは逢魔ヶ刻の街を目指して歩き出した。
 そのときだ。

「ねえ、そこの君」

「えっ?」

 どこかから声がした。
 男の子の声だ。
 たぶん、わたしと同じくらいの。
 嫌な胸の高鳴りを覚えながら声の方を向くと……よかった、知らない顔だ。
 茶色と橙の中間みたいな色の髪を後ろに流してセットした男の子。
 髪の長さは首筋までで、顔は――びっくりするくらい、整っている。絵に描いたようなイケメンだ。

「君もあの街に用があるのかい?」

「そう、だけど――あなたも?」

「うん」

 こくんと男の子は頷く。
 なんだか仲間が出来たような気がして少し気が楽になった。

「私ね、家出してきたの。
 してきたんだけど、電車で寝過ごしちゃって。
 危うく新生活、第一歩から失敗するとこだったよ」

「へぇ。親と喧嘩でもしたのかい」

「……うん、そんなところ」

「他人の気がしないな。
 俺も随分な毒親を持った身でね。それ絡みで、この街に来たんだよ」

「お互い……変な親を持つと苦労するね、ほんと」

 はあ、と嘆息する私に男の子はニコリと笑う。
 それから私の方に一歩歩み寄って、言った。

「フォーリナー」

「……何それ。あだ名?」

「みたいなものかな。本当の名前はあまり好きじゃなくてね、普段はこっちで通してる」

「よく通せるね、それで」

 変わった子だと思った。
 でも、自分の名前が好きじゃないという気持ちは分かる。
 本当に、痛いほど。
 変なシンパシーを覚えたものだから、私も小さく笑って彼に言った。

「パンドラでいいよ。カタカナ四文字で、パンドラ」

「当て字かい?」

「それ以下かな」

 パンドラ。断っておくと、この名前は決して偽名じゃない。
 本当は漢字二文字の名前で、それをパンドラと読む。
 まともじゃない名前なのは百も承知だ。
 本当に、あらゆる意味でまともじゃない。

「私達、なんだか似てるね。フォーリナー」

「ああ、そうだね。パンドラ」

 そう言って、私達は笑い合う。
 黄昏の町で二人、他愛もない話をする。
 出会って五分も経っていないのに、まるで気心の知れた友人同士みたいに。

「でも友達にはなれないな」

 そんなことを思っていたものだから、フォーリナーのそんな言葉に私は心の中を覗かれたような気になった。
 夏の暑さが背筋をじっとりと湿らせる。遠くの方で聞こえる蝉の声は何か得体の知れないものの鳴き声のように聞こえた。

「だって君は、俺の共犯になるんだから」

 ……蝉が鳴いている。
 禍時を告げる声が延々と響いている。
 電車は来ない。駅に人の影はない。
 フォーリナーが妙なことを言った瞬間から、明らかに空気の質が変わった。
 けれども。

「どういうこと? それ」

 私が問いかける声は、笑い混じりだった。

「大分改造したとはいえ、この躰はまだまだ不便でね。
 どうも一人じゃ大掛かりなことをしでかせない。だから宿主が必要なんだ。聞こえを良くするなら、共犯者が」

「……ああ。あなた、"あっち側"なんだ」

「そういう君は、"境界線"のようだけど」

 私は笑う。フォーリナーもまた笑う。
 そうか、そういうことか。
 なんて、因果。なんて、皮肉。
 あの家の因果はどうあっても、私を逃してはくれないらしい。

「大掛かりなことって、何するつもり?
 言っておくけど、私は手伝わないからね」

「むしろその方がこっちとしても都合がいい。
 君の役はあくまで宿主、俺が俺であるための座標だ。
 下手の横好きで足を引っ張られちゃ堪らないんでね」

 フォーリナーの眼の中には、光というものがなかった。
 ただ底なしの淀みと悪意と、私にとって慣れ親しんだ破滅の色があるだけ。
 ああ――なるほど。確かに、この人と私は友達にはなれなそうだ。
 だってこの人はきっと、私のことを路傍の石とさえ見ていないから。

「で、何をするつもりか、だっけ」

 でも、私にとってこの出会いは運命だった。
 彼にとっては体のいい依代を見つけただけだったとしても、私にとっては暗闇の中に射し込んだ光のような出会いだった。
 ずっとずっと何もかも、自分で選ばせてもらえないままだった人生。
 友達も作らせて貰えないで、一人ぼっちで生きてきた人生。
 つまらない、下らない、味噌っかすみたいな人生だったけれど。

「俺は日本を滅ぼしたい」

 そんな私でも、恋をすることくらいは自由なんだと知れたから。
 私は――

「後腐れなく更地に変えて、焦土の真上で笑いたいんだ」

 ――私は新生活の始まりと共に、世界の敵になった。


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最終更新:2018年07月30日 03:35