表現の自由 > 表現の自由の限界と違憲審査基準

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表現の自由の制約

精神的自由権保障と裁判所

(1)精神的自由権の限界
 日本国憲法の下での精神的自由権の保障は、明治憲法とは異なり、立法権をも拘束する。それゆえ、これらの自由を制約するには原則として法律によらなければならないが、法律であればどのようにでもこれらの自由を制約しうるというのではなく、そこには超えてはならない憲法上の限界がある。
 ただ、精神的自由権でも、それが内心にとどまっている限りは、それを政府が制約することはできないものと考えられるが、それが表明されたり、行動となって現れると、他者の権利・利益との関係で調整が必要となる。そこで最高裁判所は、精神的自由権であっても絶対的ではなく、公共の福祉のために制約されうるものであることを認めている。この点についての学説は分かれているが、要は公共の福祉のために制約されうるかどうかではなく、制約がどのような立法目的を達成するためのものか、制約が必要最小限であるか否かだと考えるべきであろう(戸波江二他「憲法(2)---人権」p.126)。

(2)合憲性判断基準と審査基準
 しかも、精神的自由権、とりわけ表現の自由の場合には、その制約については厳格な合憲性判断基準が妥当すべきである。それは、表現の自由が民主主義=国民主権原理の不可欠の要素であり、それゆえにこそ多数者によって抑圧される危険性が高いからである。従って、表現の自由の制約は思想の自由市場の中での淘汰に委ねておくことができないような重大な害悪が発生する切迫した危険が存在するなど、重要な政府利益を達成するために必要最小限度でない限り、場合によってはやむにやまれない政府利益達成のために必要不可欠でない限り、憲法的に許されないものと考えるべきである。さらに、一般に精神的自由権は、経済的権利などと比較して、特に裁判所によって保護されるべきものと考えられている。いわゆる二重の基準論の考え方である。従って、精神的自由の制約を司法審査する場合には厳格な審査基準が妥当し、通常の立法に認められる合憲性推定の原則は認められず、国会が精神的自由権の制約が必要だと判断しただけではその制約は合憲とはいえない。裁判所は立法府の判断を尊重することなく、独自に法律の合憲性を支える立法事実を精査して、法律の合憲性を審査すべきである(戸波江二他「憲法(2)---人権」p.127)。

関連項目

表現の自由の限界と違憲審査基準

 先に述べたように、「優越的地位」を認められる「表現の自由」は、憲法上特に高い保護を受ける。しかし、表現の自由といえども絶対無制限ではない。その自由の行使が、他人の人権や他の社会的法益と衝突する場合には、両者の調整が必要であり、その限りで一定の制約は免れない。では、どのような制約がどのような限度で憲法上容認されうるのか、それを判定する基準は何か(小林孝輔・芹沢斉「判例 コンメンタール」p.125)
上記のように、権利・自由を制限される立法が許されるかは、最終的には違憲立法審査権をもつ裁判所によって判断される事になります。

判例・学説の流れは(1)「公共の福祉」論→(2)「比較衡量」論→(3)「二重の基準」論と推移を辿り、現在の違憲審査基準には、以下のような基準が採用されています。
基準①:明白かつ現在の危険の基準
基準②:LRAの基準
基準③:明確性の原則
基準④:過度の広汎性の基準
基準⑤:事前抑制禁止の基準

判例・学説の流れ(1)「公共の福祉」論

 最高裁はかつて、「公共の福祉」を理由とすれば、表現の自由を含めすべての人権をどのようにも制約できると判事してきた(最大判例昭24・5・18・刑集3巻6号9頁、最大判例昭33・3・13・刑集11巻3号997頁)。しかし、このような制約の容認は、表現の自由の「優越的地位」を無視し、明治憲法における「法律の留保」と変わらない結果をもたらしかねない。表現の自由の制約を判定する基準としては十分とは言えず、最高裁も、今日では少しずつ「公共の福祉」論の適用範囲を狭めつつある(小林孝輔・芹沢斉・編「判例 コンメンタール」p.125)。

関連項目

判例・学説の流れ(2)「比較衡量」論

 「公共の福祉」論に代えて、最高裁が一定の訴訟類型で採用してきたのが、比較衡量論である。比較衡量論とは、人権を制限する事によって得られる利益と人権を保障することによって得られる利益とを、事件ごとに比較衡量し、どちらの利益が優越するかによって、当該制限の合憲性を判定しようとするものであり、表現の自由の領域では、報道の自由と他の社会的法益とが衝突する場面で多く使われてきている(博多駅テレビ・フィルム提出命令事件の最大判昭44・11・26・刑集23巻11号1490頁、日本テレビビデオ差押さえ事件の最決平2・7・9・刑集44巻5号421頁など)。この基準は、事件ごとに諸利益の比較衡量を行うことを重視するため、事件の性格に応じた柔軟な解決を可能にするところから、これを支持する有力な見解もあるが(伊藤正巳・憲法223頁以下)、反面、逸失の利益を衡量する基準が明確ではなく、予見可能性も低く、表現の自由の「優越的地位」を無視する結果を生みやすいとの批判もある。
 最高裁はまた、国家公務員法と人事院規則による公務員の政治活動の制限を巡る猿払事件で、公務員の意見表明そのものの制約を目的とする「直接的規定」と、公務員の政治活動から生じる弊害の防止を目的とする「間接的・付随的規則」とに分け、後者の場合には緩やかな審査でよいとする、規制類型論を採用した(最大判例昭49・11・6・刑集28巻9号393頁)。しかし、この規制類型論も、表現の自由の「優越的地位」を十分に考慮せず、人権の価値体系を無視するに等しいものだとの厳しい批判にさらされている(奥平康弘・なぜ「表現の自由」か17-18頁、153頁以下)(小林孝輔・芹沢斉・編「判例 コンメンタール」p.126)。

判例・学説の流れ(3)「二重の基準」論

 そこで、「優越的地位」に基づく「二重の基準」の理論が提唱されえ(芦部信喜・憲法訴訟の現代的展開65頁」)、表現の自由の制限は、他の自由(特に経済的自由)に比べてより厳格な基準によって判断されなければならないとされる。すなわち、表現の自由を制限する立法には、通常の立法に認められる合憲性推定の原則が排除され、その制限をどうしても必要とする強い理由と、それが必要最小限にとどまる事が証明されない限り、違憲と判断されるべきだとされる(もっとも、「二重の基準」論基礎づけを人権の実体的価値に求める芦部、奥平教授らの通説的理解に対して、司法審査の民主主義的正当性という観点から、民主制のもとで政治的プロセスが有効に機能しているか否かに根拠づける「プロセス的二重の基準論」という考え方が提唱されている、松井茂記・二重の基準論)。このような考え方は、すでに最高裁によっても是認されてきている(最大判例昭47・11・22・刑集26巻9号586頁、最大判例昭50・4・30・刑集29巻4号572頁、最大平7・3・7・民集49巻3号687頁)。
 「優越的地位」に基づく「二重の基準」の理論を踏まえて、表現の自由への制限が憲法上容認されうるか否かを判定するための厳格な基準として、判例や学説によって定式化されてきたものには、次のようなものがある(伊藤正巳・言論・出版の自由、芦部信喜編・講座・憲法訴訟(2)などを参照)(小林孝輔・芹沢斉・編「判例 コンメンタール」p.126)。

「二重の基準」論と判定のための基準

憲法の基本書における「二重の基準」論の記述

1 二重の基準の理論
 表現の自由といえども無制約ではない。その限界は、表現の形態、規制の目的・手段等を具体的に検討して決めなければならない。その際に、表現の自由を規制する立法が合憲か違憲かを判断する基準を整理する事がきわめて重要である。
 これに答える指針として広く支持されてきた考え方が、先にふれた「二重の基準」(double standard)、すなわち、表現の自由を中心とする精神的自由権を規制する立法の合憲性は、経済的自由権を規制する立法よりも、とくに厳しい基準によって審査されなければならない、という理論である。
(1)理論の根拠
 この二重の基準の理論を支える根拠は種々考えられるが、次の二つが重要である。
 第一は、統治機構の基本をなす民主政の過程との関係である。経済的自由も人間の自由と生存にとってきわめて重要な人権であるが、それに関する不当な立法は、民主政の過程が正常に機能しているかぎり、議会でこれを是正することが可能であり、それがまた適当である。これに対して、民主政の過程を支える精神的自由は「こわれ易く傷つき易い」権利であり、それが不当に制限されている場合には、国民の知る権利が十全に保障されず、民主政の過程の正常な運営を回復する事が必要である。精神的自由を規制する立法の合憲性を裁判所が厳格に審査しなければならないというのは、その意味である。
 第二は、裁判所の審査能力との関係である。経済的自由の規制については、社会・経済政策の問題が関係する事が多く、政策の当否について審査する能力に乏しい裁判所としては、とくに明白に違憲と認められないかぎり、立法府の判断を尊重する態度が望まれる。これに対して、精神的自由の規制については、裁判所の審査能力の問題は大きくはない(芦部信喜「憲法 第三版」p.175-176)。

4 二重の基準論
 このような比較衡量論の問題点を指摘しながら、前述の一元的内在制約説の趣旨を具体的な違憲審査の基準として準則化しようとして主張されたのが、アメリカの判例理論に基づいて体系化された「二重の基準」(double standard)の理論である。
 この理論は、人権のカタログのなかで、精神的自由は立憲民主政の政治過程にとって不可欠の権利であるから、それは経済的自由に比べて優越的地位をしめるとされ、したがって、人権を規制する法律の違憲審査にあたって、経済的自由の規制立法に関して適用される「合理性」の基準は、精神的自由の規制立法については妥当せず、より厳格な基準によって審査しなければならないとする理論である。そして、権利や自由の内容・形態・規制の目的・態様等によってさらに判定基準を細かく考えていこうとする。したがって、①精神的自由と経済的自由との保障の程度が段階的にまったく異なる形で区別されるのではなく、両者は保障の程度をほぼ同じくする領域を含み、重なる関係にあること、また、②現代憲法では、生存権をはじめとする社会権のほか、憲法十三条を根拠として認められるプライバシー権などの新しい人権をも加えて人権の限界を検討すべきであること、に注意しなければならない。
 この二重の基準論は、学説において広く支持されているばかりではなく、判例においてもとり入れられている。(芦部信喜「憲法 第三版」p.100-101)

違憲審査基準 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%95%E6%86%B2%E5%AF%A9%E6%9F%BB%E5%9F%BA%E6%BA%96
精神的自由権の特殊性
ところが精神的自由権等の重要な人権に対する制約は、例えば表現の自由に関する規制立法がなされた場合には、その法令により既に社会において自由な表現の可能性が損なわれていることから、当該立法を有権者が批判することにより、立法者に政治的方向性を与え、その法律の改廃を行うという上記「民主政の過程による回復」が困難である点が指摘できる。そのため、上記自己抑制を必ずしも働かせるべきではなく、むしろ合憲性推定の原則は排除され、違憲審査を厳格に行うべきであるとの結論に至るものである。
このように、精神的自由権等について、厳格な審査をすることが二重の基準理論の中心テーマであるが、実際の判例では、経済的自由権等に緩やかな基準で審査すべきことの論拠として用いられることが多い。

基準①:明白かつ現在の危険の基準

 表現の自由の制約が許されるのは、表現が放任された場合に社会的な害悪の生ずる明白な差し迫った危険が存在する場合だけであるとされ、そのような危険の「明白」性と「切迫(現在)」性を表現の自由制約の合憲性の判定基準とするものである。破壊活動防止法事件の下級審で採用されたことがあり(岐阜地判昭34・1・27・判時183号5頁など)、最高裁もそれに近い考え方を示している(新潟県公安条例事件での最大判昭29・11・24・刑集8巻11号1866頁、集会のための公共施設の利用拒否に関する前掲最判平7・3・7)。(小林孝輔・芹沢斉・編「判例 コンメンタール」p.126)。

基準②:LRAの基準

 人権の制約は、正当な目的ある場合でも、その目的を達成するために必要最小限の手段がとられるべきであり、同じ目的を達成するのに他にとりうる手段があり、それによれば人権の制約がより少なくてもすむという場合には、より制限的でない他の選びうる手段(Less Restrictive Alternative)があるから、必要最小限の範囲を超える制約を課す事は違憲と評価される。制限の目的が正当である場合に、それを達成する手段・方法に焦点を当てた審査基準であるが、表現の自由の領域でも重視されている。前述の猿仏事件の第一審判決(旭川地判小昭43・3・25・下刑集10巻3号293頁)がこれを適用したが、最高裁は採用しなかった。(小林孝輔・芹沢斉・編「判例 コンメンタール」p.126)。

基準③:明確性の原則

 表現の自由を制約する立法について、規定の明確さを要求するものである。制約の対象や範囲が不明確であると、何が禁止される行為であるかの理解を困難にし、この自由の行使に萎縮的な効果を生むので、明確性を欠く制限立法は、それだけで違憲とされる。最高裁も、徳島市公安条例事件で、不明確な刑罰法規は31条に違反して無効とされる場合があることを認めた(最大判昭50・9・10・刑集29巻8号489頁)(小林孝輔・芹沢斉・編「判例 コンメンタール」p.127)。

基準④:過度の広汎性の基準

 制約の対象や範囲がいかに明確に規定されていても、表現の自由の制約が過度に広汎な規制になっている場合には、この自由の行使を萎縮させ、それを抑制する効果を生むので、そのような制限法令は、表現の自由の十分な保護のために違憲とされる、という考え方である(小林孝輔・芹沢斉・編「判例 コンメンタール」p.128)。

基準⑤:事前抑制禁止の基準

 表現の自由に対する事前の制限は、表現の自由にとって致命的であるので、表現の自由に対する制限は原則として事後的制裁によらなければならず、表現が行われる前に事前の制約を課すことは原則として禁止される。本条2項の検閲禁止の規定により検閲は絶対に許されない。その他の事前の抑制については例外が認められる。例えば、デモ行進や集会の開催に際して、参加者等の安全確保し、競願者との調整をはかるために、公権力が事前に調整的な介入をはかったり、また、名誉権やプライバシー権の侵害を回避するために、当事者の申し立てにより裁判所が表現の事前差止命令を発することも、きわめて厳格な要件のもとに認められる余地がある(「北方ジャーナル」事件の最大判昭61・6・11・民集40巻4号872頁)(小林孝輔・芹沢斉・編「判例 コンメンタール」p.127)。

参考

明治憲法と「法律の留保」論

明治憲法と日本国憲法
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/h-minami/note-meiji.htm
 人権保障がきわめて不十分であったことである。本来、憲法とは国家権力を制限し、国民の人権を国家権力から守るべきものである。しかし明治憲法は欽定憲法という形をとったため、国民の人権は法律で保障されることとなった。したがって、国民の人権は「法律の範囲内において」しか認められなかった(法律の留保)。その結果、制定手続きさえ整っておれば、議会が悪法を作り人権侵害の主体となりうる悪しき法治主義の弊害も生じた。しかも現在と違って、裁判所には違憲立法審査権はなかった。

参考サイト

長谷部説:「切り札としての人権」

長谷部恭男『憲法』5.2.3.「切り札としての人権」
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo/demo/review/HSB040120_trump/index.html
「もし人権保障の根拠が、[中略]結局は社会全体の利益に還元されてしまうのであれば、公共の福祉とは独立に、人権とは何かを考える意味はほとんどない。自らの人生の価値が、社会公共の利益と完全に融合し、同一化している例外的な人を除いて、多くのひとにとって、人生の意味は、各自がそれぞれの人生を自ら構想し、選択し、それを自ら生きることによってはじめて与えられる。その場合、公共の福祉には還元されえない部分を、憲法による権利保障に見る必要がある。少なくとも、一定の事項については、たとえ公共の福祉に反する場合においても、個人に自律的な決定権を人権の行使として保障すべきである。いいかえれば、人権に、公共の福祉という根拠に基づく国家の権威要求をくつがえす「切り札」としての意義を認めるべきである。
完全なるリベラリズムから憲法学を構成し、人権を「切り札としての人権」と「公共の福祉に基づく権利」に二分するロナルド・ドゥオーキンの見解を入れたものが「切り札としての人権」論です。

参考サイト
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