郡評論争
大化の改新の詔の矛盾
- 日本書紀の大化の改新(645)から「郡」制を開始のはずが、各地出土木簡は「評」こおりである
- 7世紀後半7世紀末まで「評」こほり、8世紀から「郡」こおり
- 奈良県藤原宮の木簡「評」
- 静岡県浜松市の伊場の木簡「評」
- 地方行政単位の変遷
- 国縣制「国主(クニヌシ)」->国(クニ)「縣主(アガタヌシ)」->縣(アガタ)「稲置(イナキ)」->県(コホリ)
- 大化以降: 国は廃止->世襲の祭祀職として存続、国造の人員は、「評」の役人となる「評造」「評督」「助督」
- 律令導入大宝まで: 国評里制「国」の設置、下部組織としての「評」、50戸を単位とする「里」
- 大宝以降: 国郡制 「評」の代わりに「郡」を設置し、「評造」「評督」「助督」から「郡司」に任命される
- 養老以降: 郷里制->里の代わりに「郷」を置き、「郷」の下に「里」を置く
- 天平期に里を廃止
- 国郡は近代まで存続
- 「評」は南朝の制度で、南朝皇帝が都督を任命。都督の下が「評督」
- 「郡」は北朝の制度。日本書紀では神功紀39年が初出
北朝である魏->北魏->西晋->隋->唐は一貫して「郡」を使用
- 日本書紀の記述は、唐への遠慮ではないか
- 日本書紀よりも成立がはやい北魏書では、西晋武帝との関係を特筆している
- 日本書紀も同様
中皇命と天皇
万葉集における中皇命は、天皇との関係が不明
- 万葉集巻1 3番
- やすみしし わご大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕(ゆうべ)には い倚り立たしし
- 御執らしの 梓の弓の 金弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし
- 御執らしの 梓の弓の 金弭の音すなり
- 反歌「たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野」
- 同9-12番
- ( 九番)君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな
- (一〇番)我が背子は仮廬作らす草なくば小松が下の草を刈らさね
- (十一番)我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ 或は頭に云く
- (十二番)我が欲りし子島は見しを(底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ)
- 同 249-251番
- 玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ
- 一本云 処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬りすわれは
- 淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す
- 『万葉集』の巻一の44番と『日本書紀』下持統紀、持統6年
- これは広瀬王を留守の官にして出かけようとした。すると大三輪朝臣高市麻呂が反対した。しかも官位をなげうつという思い切った行動で「止(や)めて下さい。」と言った。
- 繰り返すと天皇が出かけようとして、三月三日高市麻呂が反対した。天皇はそれに従わず、振り切って三月六日に遂に伊勢に行った。そして五月六日に三重県の阿胡(あご)の仮宮に着いた。
- 三月六日に出発して五月六日に三重県の英虞(あご)湾に到着した。
中皇命は、ナ国の天子である
- 筑紫には、太宰府、紫宸殿、大(内)裏跡、大(内)裏丘、朱雀門がある
- 「我が大王の仕え奉る帝(みかど)には」という意味、「我が大王」と言ったのは舒明天皇。
- 我が舒明天皇のお仕えする中皇命は夫婦合和して仲睦まじくおられる
- 九州太宰府と考えると、「内野」「大野」「馬敷ましき」そして「那珂なか」と全部地名が並んでいる
- 「紀温泉」というのは和歌山の白浜温泉だろう。これはよい。次の十番目の歌の「磐代」は、白浜からちょっと西よりに寄ったところに有馬皇子が作った有名な歌に出てくる「磐代」がある。
- 九番・十一番には尊敬の助動詞がない。九番「知るや」「結びてな」、十一番「見せつ」「拾はぬ」には敬語がない
- 十一番には二回も敬語を使っているのに、その前後では敬語の使用を忘れてしまったとなる
- 十一番は地名がない
- 「野島」はすごいところだったというが、そんな名所旧跡でもない
- 「阿胡根あごね」という地名がない
- 出発点は太宰府博多湾。有明海かも知れませんが、一応博多湾。到着点は三重県の英虞(あご)湾。こうなってきますと、所在地不明といわずに地名関係は非常にスムースに理解できる。進行関係も非常にスムースに理解できる
- 数ある有名な「子島」の中で最も有名なのは「吉備の児島こじま」である。そこにすぐ近いところに吉備津神社や吉備の大宰(たいさい)が居る。中皇命は吉備の大宰に会いたかった
- 「野島」というのは明石海峡の淡路島の北端である
- その次は白浜へ行きます。磐代へ行ったりしている。そのあと「阿胡根の浦」というのは三重県の英虞(あご)湾に行きます
- 大和飛鳥から三重県英虞湾まで二カ月も掛かるのか
- 出発点を筑紫太宰府と考え、二カ月かかって三重県の阿胡(あご)の仮宮に着いたとします
- その間吉備の大宰に会ったように表面は観光旅行のように見えて政治的な目的を持った旅行
- 太宰府の九州王朝となりますと、時期はもちろん白村江の以前で、白村江六百六十三年以前の記事を切り取って『日本書紀』に、はめ込んでいる
- 初めは同じですが持統天皇と関係の深い二人「直広参当摩真人智徳・直広肆紀朝臣弓張」をプラスしている
- そして留守の官となる。次は『(朱鳥)日本紀』と同じ凄い諌言が続き、最後に「伊勢に幸す。」と書いて、「阿児の仮宮」をカットしている
- これなら二カ月も掛からなくて良い
- つまり九州王朝の史料をはめ込んで『日本書紀』を作っている
- 持統天皇の吉野行幸記事は、九州王朝天子の佐賀県吉野行きである
- まず桜の季節がほとんどない。吉野と言えば桜と思っていますが、桜のシーズンは年によって違いますが、四月中旬から下旬まで
- ところが三十一回の中で、三月に行っているのは二回しかない。後の行幸は桜のない季節に行っている
- さらにおかしいのは、その中で七回、帰りが書いていない
- 不明となっていますが、持統三年一回、四年四回。八年二回。これも変です。常識的には、行きだけが書いてあって帰りが書いてないと言うことは、その日に行って還ってきたということ
- 巻一の三十九番の記事、文章からは『(朱鳥)日本紀』の記事とは直接には年号が書いていないから分かりません
- けれども直前にあるのが朱鳥二年の記事であり、後に朱鳥六年の記事がある
- ですからこの三・四年の記事も一応『(朱鳥)日本紀』この記事と考えても良いと考える
- この巻一の三十九番の記事も『(朱鳥)日本紀』の記事である
- そうすると、この記事は「○月吉野宮に幸す」と六回ばかり書いてあり、『日本書紀』三十一回のごく一部である。これは『(朱鳥)日本紀』の吉野行幸の記事である
- 先ほどの史料批判で朱鳥六年の『(朱鳥)日本紀』は、九州王朝の史料を持ってきて、はめ込んでいた
- そうすると持統の吉野行きも九州王朝の史料を持ってきて、はめ込んでいたのではないか
- 丁亥に天皇、吉野宮より至します。」とある。ところが困ったことに、この年の持統八年の四月という年に「丁亥」という干支はない
- 防(ぼう)は、防人の立てこもる拠点、烽(ほう)は狼煙(のろし)を挙げる所。この記事は全くインチキな記録であり、おかしな記事である
- それが白村江の戦いで明らかに大敗して、唐の占領軍か進駐軍が筑紫に来ている
- その占領軍が来た後に、唐や新羅を仮想敵国にする軍事要塞を作るという馬鹿なことが出来ますか
- 『日本書紀』の神護石や水城の記事は、本来から白村江以前に持ち上げなければ成り立ち得ない記事である
- あれを白村江以後に、はめ込んでいることこそ大きな嘘だった。この記事を見ても天智紀が嘘であることは、この問題一つ取っても疑い得ないのではないでしょうか。それが最近の年輪年代測定や放射能測定で、科学的裏付けを得てきた
- 天武が行ったという吉野は、はたして奈良県吉野かどうか(万葉集巻1 25-27番)
- 吉野の耳我の峰に、つまり佐賀県吉野である。天武は壬申の乱直前佐賀県吉野
- 水沼の筑後君の犬と言っているが肥前の峰(みね)県主の犬。その犬が献上してきた鳥を喰い殺した。それで明らかに「嶺の県主」は肥前の峰(みね)
- 私は唐の郭務宗*に会いに行ったと考える
- 古文の常識で身分の高い人を「淑(よ)き人」と言う。しかもこれは天武が作っている。これは天武より身分の高い人を指している。そういう事は、これは郭務宗*である
- つまり郭務宗*が天武の提案に対してOKを出した。良い返事をくれた
- 大友皇子側が吉備に行って、天武達が反乱を起こしても味方をしないでくれ
- すると彼が聞かなかったので、直ぐに吉備の大宰を切り殺した
- 同じことを筑紫の太宰府の栗隈王のところへ行って同じ事を言った。ところが栗隈王は断った
- さらに言いますと、天武が吉野へ隠れた後、大友皇子が宇治から倭京まで軍勢を張り巡らした。
- そのように書かれている。この倭京のことを、岩波古典大系では「飛鳥の地をさす。」と注釈がついてある。
- しかしおかしいですよ。なぜなら壬申の乱前夜ですので、浄御原宮も出来てはいない。
- 持統天皇が詔勅を太宰府に下して言った。郭務宗*が天智天皇の冥福を祈るために作ったという阿弥陀仏の仏像がある。それをこちらに寄こせという詔勅
- このような仏像を寄こせと言うだけの詔勅も珍しいが、それがある
- 郭務宗*がもし壬申の乱の時、帰っていたら作るはずがない。このような阿弥陀仏の仏像が二・三カ月で出来るはずがない。
- 天武が、まだ天智が生きているときに「仏道を修行する為に吉野へ行こうと思う。」と言います私などは、仏道を修行する為には、山の中の吉野が便利な所だ。そう今まで思っていた
- しかし考えてみると仏道を修行する為に山の中へはいるという考え方はもっと後世の話である
- 当時の仏教七・八世紀の仏教は都会のど真ん中で修行する。奈良や京都はお寺だらけだ
- 奈良や京都は山の中ではない。都仏教です
- ところが筑紫の方へ仏道修行に行くと言うのなら、中国から仏教が最初に入ってきたのは当然筑紫である。筑紫の方へ仏道修行に行く。佐賀県吉野の方へ行くというならば、こういう話は意味がある
最終更新:2010年01月30日 20:18