朱鳥元年の僧尼献上の目的は、34年前の孝徳白雉2年前期難波宮大設斎への参加
- 朱鳥元年の僧尼献上記事の矛盾
- 事実
- 持統称制前紀の朱鳥元年(686)閏十二月条 筑紫大宰、献三国高麗・百済・新羅百姓男女、并僧尼六十二人
- 高句麗は668年・百済も660年に滅亡しており、「高麗・百済の男女」らはどこから来たのか
- 新羅人が彼らが滅ぼした百済や高麗の遺民と共に行動するか
- 持統天皇が使者を新羅に派遣し、天武の喪を新羅に告げたのは持統元年(687)一月。それ以前に新羅が男女・僧尼等を献ずるというのは不自然
- また、持統天皇元年(687)に新羅に天武の喪を伝える使者を出しているが、新羅は持統ニ年後告げられたと話す
- 持統元年(687)春正月丙寅朔(中略)甲申、使直広肆田中朝臣法麻呂與追大弐守君苅田等、使於新羅、赴天皇喪。
- 持統三年(689)五月癸丑朔甲戌、命土師宿祢根麻呂、詔新羅弔使級・餐*金道那等曰「太政官卿等、奉勅奉宣、二年、遣田中朝臣法麻呂等、相告大行天皇喪」
- 朱鳥元年の僧尼献上は、34年前の孝徳白雉2年の前期難波宮大設斎記事から切り取られた
- 復元
- 孝徳白雉元年(650)夏四月、新羅遣使貢調。或本云、是天皇世、高麗・百済・新羅、三国、毎年遣使貢献也。
- 孝徳白雉二年(651)冬十二月晦、於味経宮、請二千一百余僧尼、使読一切経。是夕、燃二千七百余燈於朝庭内、使読安宅・土側等経。於是、天皇従於大郡、遷居新宮。号曰難波長柄豊碕宮。
- 筑紫大宰、献三国高麗・百済・新羅百姓男女、并僧尼六十二人(朱鳥元年(686)閏十二月条)
- 孝徳白雉三年(652)冬十二月晦、請天下僧尼於内裏、設斎大捨燃燈。
- 持統元年=朱鳥2年(687) 正月に新羅に天皇喪を告げるために遣使(直広肆田中朝臣法麻呂與追大弐守君苅田)
- 適用
- 孝徳朝は対外活動に活発だった時期であり、まだ高句麗・百済は滅亡しておらず矛盾がなくなる
- 前年に藤原宮遷都しており、再度の設斎のために僧尼が集められたのでつじつまが合う
- 考察
- 天武紀・持統紀での34年繰下事跡
- 孝徳葬儀・蝦夷朝貢・吉野行幸と同様、難波宮大設斎への僧尼献上も34年繰り下げられている
- 持統紀の記述には日本書紀には表れない朱鳥2年を記した文献が確実に参照されている
最終更新:2010年01月31日 14:10