なぜ大和を「ヤマト」と訓じるか
- ヤマト本来の表記はわかっていない
- ヤマトの表記は「万葉集」「古事記」「日本書紀」「続日本紀」を通じ様々
- 大和、和、倭、大倭、日本、山跡、山常、野麻登、夜万登、八間登、耶馬登、耶馬等、大養徳
- また、国名と地名の用法があり判別が難しい
- 時系列での変遷では山跡→倭→日本→大倭→大和
- 万葉集では、山跡(雄略、舒明、孝徳、天智)、倭(天武)、日本(文武)
- 古事記、日本書紀では「倭」で一貫している
- 編纂時点の表記を神代まで遡って記述したからであろう
- 「倭」の当て字としての「和」の初見
- 万葉集#64: 慶雲三年(706)丙午 幸二干難波宮一時 志貴皇子御作歌 葦辺行あしべゆく 鴨之羽我比爾かものはがひに 霜零而しもふりて 寒暮夕さむきゆふべは 和之所念やまとしおもほゆ
- 和銅 6年(713)「好字二字」令による「倭」→「大倭」
- 大倭→大和
- 天平宝字元年(757) 大倭宿禰
- 天平宝字二年(758) 大和宿禰
- なぜヤマトの表記は変遷したのか
- 新たに天命を受けて成立した天智朝は、古来中国各王朝と交渉していたニニギ命を皇祖とする「倭・日本」の国号を引き続き使用した
- 天智朝は都のある淡海が「倭・日本」であり、ヤマトは「山跡」であった
- 壬申の乱後の天武朝で、都を「ヤマト」に遷したため、ヤマト=「倭・日本」となった
- 後代、天智のみが神代と同じく大倭根子の称号を得ている
- 柿本人麻呂の時代でも「ヤマト」「倭」は並立しており、筑紫で詠んだ歌には山跡とある
- 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隠奴 山跡嶋根者
- 天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見
最終更新:2010年02月07日 21:50