1-0236

236 名前: ◆IE6Fz3VBJU 投稿日:2008/01/20(日) 00:49:55 ???


青葉シゲルについて考える際に、まず、頭に思い浮かぶ言葉は、孤独である。
しかしそれは、ビロードの絨毯の上を裸足で歩く、気の触れた王の背中から感じる孤独ではなく、
あるいは、放浪の末に一人で死んだ、ある俳人の、たわむれに発した咳のような孤独ではなく、
猿回しの猿が、猿回しから叱責を受けるときに放つ、疲労と殺意に満ちた孤独でもなかった。
つまり、一言で言えば、真の孤独ではなかったのである。

彼の孤独は、粗雑な男が、パンにバターを塗ったときの、塗り残しのような孤独であり、
ベルトコンベアに載せられて運ばれる、空っぽのダンボールのような孤独であり、
コンビニエンスストアで売られるミネラルウォーターのような、便利で空虚な孤独である。

何ゆえにそう言えるのかと言うと、彼には、バンドを組んでいる音楽仲間がいたし、
あまつさえ、恋人と言ってもさしつかえのない女性までいた。
尊敬する上司も、気の置けない同僚もいた。
それにもかかわらず、あの瞬間に、彼の目の前に現れたのは、友人でもなく、
恋人でもなく、親兄弟でもなく、綾波レイであった。
このことは、彼の容器が、いかに、偽の孤独に満ち満ちていたのかを、如実に物語っている。
そして、彼の孤独が、いかに広く、底の浅い湖であったかを、我々に、示している。

唐突であるが、以下に挙げる、ある詩人の最期をもって終わりにしたい。

誰に依頼された訳でもないのに、青葉シゲルの伝記を書いた、風変わりな詩人は、25歳という若さで夭折した。
伝記を脱稿し、一人乾杯しようと酒を買いに出かけたときに、車に轢かれて死んだのである。
血だまりにひっそりと立つ、紅い目と白い肌をした少女を見たときに、詩人は、己が、
青葉シゲルと同じように、孤独であることを知った。同じ種類の孤独の中を生きたことを知った。

どうでもいいことではあるが、彼は、ついに、一冊の詩集も出すことが出来なかった。
青葉シゲルの伝記さえ書かなければ、一冊は出版することも出来たろうに、それをしなかった、
彼の、孤独を想って、私は、慄然とするのである。



名前:
コメント:

すべてのコメントを見る
最終更新:2008年01月21日 17:43