1Q84 Book1/Book2





題名:1Q84 Book1/Book2
作者:村上春樹
発行:新潮社 2009.5.30 初版
価格:各\1,800

 初版本だぞ、ってふんぞり返ることのできる本はあまりないと思うのだが、これだけベストセラーらしいベストセラーはあまりないかもしれない。大型書店に入ると、初版本コーナーではなく、何しろ『1Q84』コーナーができているのだから。そこにはしかも「次回入荷未定」などと書かれているのだ。まるでマイクロソフトの新製品の売り出し現場みたいだ。

 活字が読まれない時代に、なぜ村上春樹の本だけは売れるのだろう。誰が買うのだろう。誰が読むのだろう。おっと、見かけた。山手線の車内。中高年の少しインテリ風な眼鏡をかけた女性が読んでいる。なるほど、でもまだ目撃したのはわずか一名。多くの人は日経新聞などを広げているだけだ。だれがいったいどこで『1Q84』を読んでいるのだろう。結局、ぼくにはわからない。

 『うずまき鳥クロニクル』あたりから、村上春樹は変わったとぼくは書いた。ノンフィクション『アンダーグラウンド』、翻訳ドキュメント『心臓を貫かれて』を含め、いわば現実世界から投影され、影絵のように歪められ壁に映った真実、というような気配を、この作家が書く世界に感じるようになったのだ。

 それまではあれほど社会参加意欲がなく、世界に対し無関心で、個人の心の内側にばかり世界を展開して見せていた作家が、いきなり外界に向けて暗視ゴーグルのような眼差しを向け始める。これほどの変化を見ることは、小説読みという娯楽の中では、確率的にあまりないことのように思える。

 ところが、『海辺のカフカ』で、村上春樹はあの初期三部作に似た世界に戻っていってしまう。死者の気配を追いかける生者の限界といったような……。ネズミはこの世から消滅し、そしてカフカは消滅した何者かに出会う。この世とあの世を行き来する小説、といえばホラーと決めつけられそうだが、村上春樹はホラー作家ではない。どちらかと言えばハードボイルド作家であると言った方が近い。

 本書は、死の世界と隣り合わせにありそうな居心地の悪い現実世界に生きる、二人の男女のなかなか交差しにくい恋愛小説である。そう、一言で言えばラブロマンスなのだ。しかし現実と思われた磐石なはずの世界が、いつの間にか他のものにすり替わっているとしたら……。そんな徹頭徹尾、怖い話を書くから、いつも村上春樹という作家はホラー作家に見えたりもしてしまうのだ。

 肌触りの悪い恐怖。ちょっとした違和感がもたらす眩暈。そんな不安定な生の中心をぎしりと支える背骨のような存在。それが二人の恋愛である。幼い頃かばい合った記憶。互いに孤独を貫きながら、一瞬の交流の記憶を感じた。それが終生の宝のような感触となって二人の内側に残る。

 なかなか出会いにくい二人は、いつの間にか裏側の世界で、出会ってはいけない出会いを経験する。世界が、あまりに強引なパラドックスに軋むような出会い。

 いつにもまして具体的でストーリーテリングが冴える村上節が貫き通されている。安心して読めるからこそ村上は世界複数ヶ国語に翻訳されて拡散してゆくのだろう。1984年から、未だ見ぬ1Q84年にスライドしてしまっていた二人を捕らえる様々な冒険は、まるで『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のように奇妙で、切ない。

 こんなハチャメチャなストーリーで読者を引っ張ってゆく幻惑の文章を持つからこそ、村上ワールドは常にブレーキを持たず走り続ける。活劇のようで、ファンタジックで、しかもホラー的肌触りにぞわりと神経を撫でられる恐怖まであり、とサービス満点の世界展開が保障された小説。いつもながらの村上キラキラ作品だと言っていいだろう。

(2009.08.31)
最終更新:2010年05月25日 02:13