罪の轍





題名:罪の轍
著者:奥田英朗
発行:新潮社 2019.08.20 初版
価格:¥1,800



 鬼才・奥田英朗が、一世一代のチャレンジをやってのけた。凄みのある一冊を世に出した。

 戦後最大の誘拐報道で知られる吉展ちゃん事件をモデルに、東京オリンピック前年の昭和38年の世相を背景とした重量級の社会派ミステリを仕上げたのだ。この作家独自の語り口の巧さは読者を物語の世界へぐいぐいと引きずり込む。

 作家によって練り上げられた動機と現実の犯人の動機は似て異なるように思われる。現実以上に、緻密に組み立てられたのであろう追跡と逃走のシナリオ。新たに想像され、かつ創造された犯人像の重厚さ。

 関係する者たちの環境を敢えて史実とは変えつつ、創作ならではの明快さで時代背景や群像の生活を活写しつつ、その頃の街や地方の匂い、人間たちの猥雑な汗と体液の匂いまで感じさせる緻密な描写を積み上げ、ここまで徹底的に完成させた決着までの隘路。

 挑んだ事件も素晴らしいが、出来も素晴らしい。誘拐事件という限られた枠をコアにしながら、犯人の生まれや過去を重視しつつ、それを取り調べの奇妙な時間と絡ませながら、事件以上に犯人や刑事の個性への好奇心が刺激される。脅威的な個性のぶつかり合い。真相に至るヒントの数々。捜査上でぶつかる困難と知恵による解決、と些末なところではミステリ要素も多く、刑事たちと犯人側の距離が徐々に狭まってゆく過程は、非常に味わい深い。

 ぼくは昭和31年の早生まれだったから、誘拐された被害児童の相似形である。両親が新聞片手に大騒ぎしていたのも今ならわかる気がする。当時の悲酸な結末や暗い世相の記憶も失ってはいない。なのでネットで事件の情報を集めつつ、小説と比較してみたりもしたのだが、小説はきっと事実とは似て非なるもののようだ。少なくともストーリーは作者の脳内から生まれたものだ。

 しかし犯人の生地は脳内とばかりは言えまい。作中に出てくる「当たり屋」の事件も当時子どもであったぼくを震撼させたものである。鰊が来なくなった北の海や、入植した礼文島船泊地区の錆びれ具合。未だ観光で訪れるにはおよそ遠すぎる感のある北海道などなど、今より国民がずっと質素で貧しくそれでいて働き、遊び、活気に溢れる東京を形成していた時代。

 主人公の育つ礼文島はもちろん、誘拐事件に関連する東京・荒川区や台東区、戦後の新宿や熱海、稚内など、舞台となる土地土地とその時代の描写への興味も尽きず、オリンピックを迎える現在とあの五輪時代との間に、なんとなく人間という愚かな生物次元での周期性を感じつつ、巻を閉じた。間違いなく、今年のミステリ界を席巻する一作になるだろう。奥田英朗生涯の代表作になることはもう間違いあるまい。

(2019.09.23)
最終更新:2019年09月23日 17:10