流れは、いつか海へと




題名:流れは、いつか海へと
原題:Down The Riveer Unto The See (2018)
著者:ウォルター・モズリイ Walter Mosley
訳者:田村義進
発行:ハヤカワ・ミステリー 2019.12.15 初版
価格:¥1,900


 国産ミステリーの犯罪のほとんどが、極めて個人的な犯罪を扱うのに比して、世界の賞を獲るような作品は必ずと言っていいほど、国家レベルの犯罪、あるいは政府機関の犯罪、もしくは制度の生み出す社会悪が生み出す犯罪を描くものが多い。単なる謎解き小説にとどまらず、犯罪を小説の題材として描くことで、何らかの社会的メッセージを描くもの、そうではなくても高位なレベルで行われる犯罪に、個人として立ち向かわねばならない状況を小説の背骨に据えているものが多いと思う。

 国産小説にそれが皆無とは言えないけれど、あくまでそうした部類の読み物とは一線を画し面白さだけを追求して、家族や男女間の愛憎のもつれ、ちっぽけな利権の殺意などを題材にした、後に残らないその場しのぎの作品が作家の名を忘れられないためだけに年に何冊という勢いで続々出版されてしまう。それがまた、当面の面白さやゲーム性だけを求める読者に受け入れられるという現象や、そうした図書文化のスケールの小ささにぼくはいつも愕然とする。良い小説とは、ぼくらが生きる時代や社会背景に、物語の中で密接に関わらなければいけないと思う。その時代の碑としての軌跡を残すべきものでなければならないと思う。ミステリーとしての伏線やトリックなど技法がすべてではないということだ。いわゆる小説としての成熟度。そして試されるべきはむしろ読者の成熟度であろう。

 さて、本書を読んでいて思ったのは、主人公の黒人探偵の「原罪」そして「贖罪」である。それを克服しなくては生き続けることができないほどの主人公の生への枯渇である。そして彼を追い込んだのは、ちまちました犯罪ではなく、社会的問題として断罪されてもよい種類の組織悪による圧倒的権力と社会構造なのである。それも警察という名の。

 こうしたことはニューヨークを舞台にしたこの作品だけではなく、多くの映画にしても小説にしても、世界の娯楽小説の軸に使われることが欧米エンターテインメントの圧倒的主流である。国の悪に対し、己の身を守る。自分のために、家族のために。そして何よりも生きる意味を問うとき、沸騰せざるを得ない己れの尊厳のために。

 そう、あのウォルター・モズリイが約30年ぶりに帰って来たのである。色のついたタイトルのイージー・ローリンズを主役とする戦後1940年代のLAを舞台にしたシリーズではなく、現代のニューヨークで。P287に、作者がしかけたオマージュには、モズリイ・ファンとしてはにやりとしてしまう。そしてイージーとは異なる現代のNYならではの生活スタイル、時代や場所が変わっても一向に変わらぬ男たちの持つべき尊厳と生き様。イージーの無法で無謀でコントロール不能な相棒マウスを覚えているだろうか? 彼を想起させる、強烈にアウトローなイメージを噴出させる重要助っ人メルの存在もがある。時代は変われど、ハードボイルドにはアウトローも欠かせない存在である。

 新主人公の課せられた宿命や不運、それを乗り越える一途さや、周辺人物の魅力的な個性がものを言い、火を噴く怒りをどう収めるのか? この許されざる強烈な悪党どもを、どうやってぶちのめすことができるのか? 不安と緊張の中にも期待がうずく緊張の各ぺージ。

 ハードボイルドとは、時代を変えては、その時代を映す鏡になり得る。面白さの中に、驚くほどの時代描写・社会への嗅覚が見られる事実と、そこへの参画意識、そして何よりも闘志というところにこそ、ハードボイルドのコアな部分が潜んでいるように思う。是非そんなポイントをこの作品の中に捜し当てて頂き、現代の小説というものの可能性に、改めてご注目願いたい。

(2020.01.27)
最終更新:2020年01月27日 17:25