熱源
題名:熱源
作者:
川越宗一
発行:文藝春秋 2019.08.30 初版 2020.02.20 8刷
価格:¥1,850
実在の人物をモデルに、歴史的事実を、あるシンプルなテーマで物語化する。そうした作者の意図がしっかりと焦点を結んだ作品。その意味では会心の作と言っていいのではなかろうか。歴史を題材に取ることによる縛りを敢えて避けず、実在の人物と年代別のエポックと列強諸国の世界地勢図とをさらに抑えている。その意味でも、これはある意味快挙としか言いようのない作品だと思う。
北海道では、初の国立博物館ウポポイが今年白老に生まれる。その意味でも時宜を得た作品であり、虐げられ差別を浴びてきたアイヌ民族の歴史の中に見られる、民族の長所・美点・芸術性を、改めて世に知らしめこの民族に対する愛情を湧出させる力さえ感じ取ることのできる作品である。
作者・川越宗一は、大阪生まれの京都在住という純粋な関西人。夫人の希望で北海道旅行をした際にアイヌ民族博物館(ウポポイの前身)を訪れ、そこでアイヌ民族の研究者であるポーランド人、ブロニスワフ・ピウスツキの銅像に出くわしたことが本作創作の契機になったという。ブロニスワフはロシアの支配下にあった祖国から遠く樺太へ流され、契機終了後は獄舎からは出られるものの辺境に留め置かれるという条件下、樺太やウラジオストック、北海道などを歩き、アイヌ、ギリヤークなど北方民族の研究者となったらしい。
一方、アイヌ民族を代表する形では、山辺安之助ことヤヨマネクフが本書でのツイン・ヒーローの一角を担う。同時代の白瀬探検隊の一員として南極大陸の地を踏んだこのアイヌ人の生涯は、資料に乏しい分、作者の想像力の十分過ぎるくらいのフィールドとなったようだ。
そもそもどこの領土でもなかった樺太。日本が去りロシアの領土となったのが事の起こりである。アイヌ民族は、日本に移住し日本人として生きるか、樺太に残留しロシア国籍として生きるかを選択した。日本移住を選択したアイヌの移住先として描かれるのは、対雁(ツイシカリ)の地(何と、ぼくの住む石狩当別町内!)であり、さらに鰊漁場として群来が見られていた来札(我家から車で15分の石狩市!)への移住までが描写される。樺太からの移住の末、天然痘
その他の流行り病が彼らを襲う。種痘などの治療法を嫌うアイヌ民族の中で感染者が続出し村が消失してゆく中、アイヌたちの一部は日本国籍を得たまま樺太に帰島する。
ポーランド流人ブロニスワフと、同化政策により日本人となったアイヌ民族ヤヨマネクスの人生を、交互に描きながら、その接点、彼らに関わる実在の有名人たちの物語がとても興味深い。政治家・大隈重信、南極探検隊長・白瀬矗、ユーカラ研究者・金田一京助、デカダンな人気作家・二葉亭四迷、ポーランド初代国家元首であるブロニスワフの実弟であるユゼフ・ビウスツキ。さらに、日本人とアイヌ人の混血で少年時代からの仲間であり、かつ本書で重要な役を果たす千徳太郎治は、『樺太アイヌ叢話』という書物を遺している実在の人物(巻末文献参照)。
本書では、アイヌに関わらず他の北方民族オロッコ(ウィルタ)も、ラストシーンで重要な役割を振られている。少数民族が連綿と残してきた命の火の尊さ。劣勢とされた民族の心や芸術の美しさ。作者が執拗に描こうとするこれらの描写こそが、純粋な感動を与えてくれる。主要な女たちの五弦琴(トンコリ)。そのきらきらと輝くような音色。多人種の人々が北方民族伝承の音楽や宴に魅了されてしまう辺りも、小説として重要なポイントであろう。
本書は、北海道での販売数が尋常ではないらしい。それは樺太が地理的に近いというだけではなく、共に生きる地域で、実在のアイヌ民族の血を引く方たちと平等に生きる地平にいながら、差別のあった過去への批評眼を我々も持ってゆかねばならないとする開拓者精神の遺伝子であるのかもしれない。その上、本年ウポポイが新たなアイヌ民族の歴史を伝える重要な拠点として北海道の地に改めて生まれることにより、共有される意識の高まりを示すものであるのかもしれない。
地理的にも時代的にも迎えられるべき作品。その意味で今、世に生まれ立ち、当然の結果としての直木賞受賞等、多くの評価を得たのが本書である。作者の創作に至る試走の十分さ。焦点とすべき事象の確かさ。登場人物たちの魅力。時代の荒々しさと対峙した滾るような生命力。どれをとっても第一級の娯楽作品であり、心に響く、命を宿した物語が完成したということなのだろう。
(2020.03.04)
最終更新:2020年03月05日 10:46