涼子点景1964




題名:涼子点景1964
作者:森谷明子
発行:双葉社 2020.1.25 初版
価格:¥1,600




 東京オリンピックに沸く戦後日本を舞台に、涼子という謎の少女に絡んだいくつもの家族の物語を大小の入れ子構造のミステリで紡ぐ不思議な味わいのある作品。

 不思議の中でも、最たるものは、涼子という謎めいた少女。その存在感。どう見ても悪女の印象ではなく、むしろ聖女として、良い意味で人々の記憶に残る存在としての涼子。彼女に関わった人々のそれぞれのエピソードは、いずれも小さな独立短編と見立てることもできるし、全体の流れの仲間に見え隠れする涼子という美しい少女そのものが謎であり、一つ一つの独立した章は涼子という大きな存在へ通じるいくつもの扉に用意された鍵とも言える。

 振り返れば連作短編小説のようにも見える。しかし全体は長編小説のようにも見える。何より、それぞれの章で、異なる主人公が抱え込む謎を、いとも簡単に解いてみせるのが、涼子の役割ともなっている。まるでシャーロック・ホームズみたいに。涼子はそれぞれの章の主人公に対して、天性の推理力を駆使して、謎を解決してくれる。

 そうした入れ子構造のマトリョーシカ的風貌を持つ作品でありながら、実は社会派小説としての読みどころも半端ではない。戦後復興を象徴するオリンピック景気に湧く東京。どこもかしこもが掘り返され、舗装され、再建され、整備されてゆく東京の急変の様子と、そこに見える経済復興の兆し。そのドラスティックな変換に乗ってゆく人生もあれば、置き去りにされる生活もあり。その変化を利用した罪もあり。そして罰もあり。

 あの時代の活気と期待に湧く東京絵図。それらが活写されていることが、本書最大の強みであり、ぼくの世代(作者とほぼ同じ世代)にとっては、子供の頃に体験したあれらの出来事が一体なんであったかのか? を今の時点から振り返って読み解くミステリともなって味わっている気になれる。

 個人的には、女中奉公に出る若い娘を描いた『第三章 美代』が、まさにぼくの母とあまりにシンクロする物語なのであった。当時の世相、当時の地方出の娘たちの戦争と終戦時の地獄を体感したリアリズム、当時の命からがらの生活、変わりゆく時代への心象。すべてが母から聞かされていた物語として追体験のように読めてしまうので、ただただ心が奪われてしまったのである。

 それぞれの登場人物の名前で綴られた、それぞれの断章。最後に涼子という少女の家族にまつわる謎めいた物語。その最大の謎の真相部分に物語は、ようやく辿り着く。落ち着きのないあの動的な時代と、ぼく自身明確に印象に残っている東京オリンピック閉会式までの狂騒のさなかで、生きられた人生たち、葬られた真実などを容赦なく振り返る本作の終盤。

 全体的には庶民の立場から見たような平易で読みやすい文章でありながら、時代そのものが主役となっているかのような、妙にリアルな質感を伴った、命ある作品なのである。東京オリンピックの年がタイトルに付されたこともあって本書に異様に引き寄せられた自分の勘に、しっかりと応えてくれた何よりも嬉しい一冊であった。

(2020.05.20)
最終更新:2020年05月20日 16:05